死闘
クリスからまた電話がかかってきた。本来はとんでもないことだが、慣れてきてしまっている。
「例の謎の動物がノスコーラの兵器なら、捕らえたノスコーラ人は知っているかもと思って聞いてみたんだが、知らないようだった。知らないふりをしているのかもしれないが」
「拷問したんですか?」
あまり聞きたくはなかったが、確認しておきたかった。
「した」
謎の動物は、ノスコーラでも機密事項になっていて、ごく一部の人間しか知らないことなのかもしれない。あるいは捕らえたノスコーラ人は知っていて、拷問が甘くて証言を引き出せなかったかもしれないが、それはエルキドの口からは言えない。
「ノスコーラの皇帝とか、その動物を作った本人たちにでも聞かないかぎり、わからないのかも知れませんね」
「だが、向こうは話を聞く気がないようだし……」
どんな通信手段も、無視されればどうしようもない。無理にでも話を聞こうと思ったら、直接会うしかないのだろう。エルキドは少し考えた。
「……俺が、ノスコーラに行ってみましょうか」
「ご冗談を。私はあなたを尊敬し、頼っているからこうして相談させていただいているが、あなたは飽くまで一般の高校生。そんなことまでさせるわけにはいかない」
当然そうなるだろう。エルキドはもう一度よく考えた。クリスならおそらく大丈夫だろう。万が一大丈夫でなくても、最悪でもエルキドの人生が台無しになる程度のことだ。謎の動物を放置するよりはマシだ。
「クリスさん。これからひとつ、告白したいことがあります。両親を含めて一生誰にも言わずに、墓まで持っていくつもりだった話です。できることなら絶対に口外しないでほしい。もちろん、アダムさんやナナさんにも」
数秒、沈黙があった。
「わかった、約束する」
その声を注意して聞いた。頼もしい声だった。信用できると思った。
「周囲に誰かいますか」
「私一人だ。そちらもお一人なら、話しても大丈夫だ」
エルキドは一度深めに息を吸い、吐いた。
「俺は、異能者です」
「やはりそうか。読心の異能、ではないのかな」
いつかクリスにそう聞かれた際、エルキドは否定した。
「洞察力の異能、と俺は呼んでいます。厳密には洞察力とは違うんですが、常人にない洞察力を持っていると思ってもらって、大きく間違うことはありません。たとえば相手の表情、動作、目や筋肉の動きなどで、相手の考えていることがだいたいわかるので、弱めの読心の力があるようなものですね」
「読心や、厳密な洞察力との違いは?」
「人の考えに対応した脳からの波動を感じるわけではないので、想定されている読心の異能とは別物です。また、俺の力は、少し厳密に言うと、通常は不要として切り捨てられる情報も意識的に取得する力、と考えています。たとえば、普通の人の耳に入っても不要と判断されて、ないものと扱われるほどの小さな音でも、俺には聞こえる。音の話なら、普通の人から見て低周波や超音波に相当するものも、ある程度は聞き取れます」
「ライオンを倒せたのは、その力によるものか?」
「これが異能の成せるものかははっきりしませんが、取得した情報を分析する速度も常人よりずっと早くて、また判断ミスもほとんどありません。速さが売りのライオンは、その位置や動きを確実に捉えて対応することで、それほどの相手ではなくなります。相手の動きを読んで、こちらがどのタイミングでどのように動けば相手の爪が届かないかということくらいなら、正確に予測できますから」
クリスは感嘆の唸り声を漏らす。
「ラプラスの悪魔に近いものを感じるな」
「その域には到底及びませんが、常人より情報量がはるかに多いという点では同じかもしれませんね。常人の情報量を一とすれば、俺は二、ラプラスの悪魔は一億というところですか」
二は多めに、一億はかなり少なめに見積もった数字だ。話をわかりやすくするために、簡単な数字を挙げている。
「秘密にする必要があるのは、人の心を読んでしまうからか。その点は読心の異能者と同じだな。と言っても、そちらは実在するかわからないのだが」
クリスがそれを素早く察してくれたのは助かった。自分で理解できたならよくわかっているということだから、口外しないように、少なくとも善処はしてくれるはずだ。
「それほどの秘密を、今明かしてくださった意図は? まさか、その力なら謎の動物に対抗できるとお考えか?」
当たらずとも遠からずだ。
「対抗というのが、逃げ切るという意味なら、その通りです。それが未知の動物でも、いや未知の動物ならなおさら、近づけば異常な気配として、常人よりずっと早く察知することができる。その動物が、母以上の戦士でも戦えないくらい強力だとして、その動物がうろつくノスコーラに入国して無事でいられる可能性が一番高いのは、ラプラスの悪魔を除けば俺だと思います」
「なるほど……。しかし、行ってどうする? 向こうの皇帝やその関係者が、素直に話すとは考えにくいし、それ以前に会ってももらえないぞ」
「母に同行してもらおうと考えてます。人間相手なら、力ずくで、事情を知る者まで辿り着けると思う」
本来なら大きな国際問題になるようなやり方だが、向こうがこちらを攻めようとしているのだから、気にすることではない。
「それなら、こちらからも人を出す」
「いや、二人で行きます。人が多いと動きにくいし。クリスさんの臣や官僚に、母より強い人がいるとしても、俺と知った仲の人間のほうがいいと思います。母が行きたくないって言ったら別ですけど、そういうことはないと思うし」
グラディアもグレイスも、エルキドのことは信じきっている。エルキドの決めたことなら、それが正しいと思ってくれる。グラディアは一緒に行ってくれるはずだ。一番の問題は、エルキドを信じているグレイスでも、二人がしばらく留守にすると言えば、相当怒るか泣き喚くであろうことだ。説得するのは困難をきわめるから、出発の前日に話して、逃げてしまうしかないだろう。
ノスコーラで話を聞くにはノスコーラ語が必要になるということで、エルキドはノスコーラ語を勉強した。鎖国状態のノスコーラの言語についての資料は少なく、不完全ながらもノスコーラ語を話せる官に、彼の勉強の協力をさせた。勉強期間はわずか六日間。その半分以下の期間でエルキドは、日常会話には大きな支障が出ない程度に、ノスコーラ語を身につけていた。エルキドにノスコーラ語を教えた官の、あの学習能力はほとんど異能ですよ、という言葉に、クリスはどきりとした。彼の異能は絶対に秘密だ。
クリスはエルキドに、ノスコーラに着き次第、可能なかぎり早く連絡するように頼んだのだが、その連絡が来たのは、エルキドとグラディアが出発してから五日も経ってからだった。
連絡が大幅に遅れたのは、利用できる電話回線が見つからなかったからだという。国境近くのキムニソ市というところで電話回線を確保する予定だったのだが、このキムニソ市が壊滅状態だったのだ。無傷な建物はほとんどなく、全壊しているビルや家屋も珍しくない。そこら中に住民のものと思われる死体が転がっており、生き残りはいないか、いるとしても避難していて、市内で生きた人間に会えることはなかった。しばらく市内を回ってみたが、とても生きている電話回線があるとは思えない状況だった。別の町で会えたノスコーラ人に話を聞いたところ、ノスコーラ政府は横暴で残虐でひどいものだが、何らかの制裁だとしても、国が町を滅ぼすことはさすがに考えられないという。因みにこの話は、苦労して筆談で聞きだしたらしい。ノスコーラでは至るところに盗聴器が仕掛けられていて、政府や皇帝の悪口を聞かれようものなら、即連行されて残酷な刑罰に処せられるのだ。この盗聴器が存在する可能性のせいで、電話回線を確保するのにも苦労したようだ。アルフレア人に協力したことが政府に知られたら、その人はひどい目に遭わされる。どうやったかまでを聞いている余裕はなかったが、エルキドは協力してくれたノスコーラ人に迷惑がかからない方法を考えて、連絡をしてくれたのだろう。
キムニソ市を壊滅させたのは、例の謎の動物と考えて間違いないだろう。被害がどれほどになっているかはわからないが、謎の動物が通りかかった周辺の市町村はすべて壊滅させられているのかもしれない。
それから四日後に再び連絡があった。謎の動物の破壊は、皇居とでも言うべき、皇帝の住居にまで及んでいた。政府の要人の多くも、おそらくは殺されていた。向こうが突っぱねたのではなく、謎の動物の被害のせいで、エルキドたちは皇帝や政府関係者に会うことがしばらくできなかった。皇居の全壊を確認してから、しばらく人に話を聞きながら、謎の動物について知っている人間を探していたところ、幸運にも皇帝と会うことができた。数人の臣下が残っている以外にはすべてを失った皇帝は、避難した先で近隣住民に迫害されながら暮らしていた。
皇帝はすっかり悄然としてしまっていて、拍子抜けするほど素直に質問に答えてくれた。エルキドが考えたとおり、謎の生物はノスコーラ皇帝が造らせた生物兵器であった。造ったと言っても、過去、それもホロコースト以前に存在した生物兵器を再現したものらしい。ホロコースト以前の、その生物についての資料を、ノスコーラは保有していたのだ。過去に倣って、その生物兵器は「アルマティオス」と呼ばれていた。制御できないアルマティオスは、皇帝にとっても忌まわしい存在であり、可能であれば駆除してほしいとエルキドたちに頼み、あるだけの資料を渡してくれた。
アルマティオスの資料を持って、グラディアと帰国したエルキドは、顔色が悪く足取りも重かった。ノスコーラで変な病気でももらったのかとクリスは心配したが、グラディアが言うには、大勢の遺体を見てしまったからだという。ノスコーラでは、アルマティオスの被害者と思しき遺体が至るところに転がっている旨は、電話で聞いている。そんな中を歩けば、ナナと同じく死に弱いエルキドは、当然弱ってしまう。これを慮ることのできなかったクリスは、自身を恥じた。
エルキドには医務室で休んでもらい、クリスはアルマティオスの対策会議を開いた。二人が戻ったらすぐにでも行うつもりでいたもので、当然グラディアにも出席してもらう。クリスとグラディア以外には、総理大臣、保安省の政務三役、それ以外の省からは政務三役のうち最低一人、それといくつかの分野の有識者に参加してもらった。
グラディアが持ち帰った資料については、コピーして配布する。グラディアはこの資料を単に持ち帰っただけであり、ほかの参加者より詳しいわけではない。彼女からは、ノスコーラ皇帝と話して得た情報などを提供してもらうだけのつもりでいたが、彼女は予想外のことを口にした。
「電話では話す余裕がありませんでしたが、私たちは、アルマティオスを直接目撃しました」
「どうやって逃げ切ったんだ?」
クリスは尋ねた。資料を見るかぎり、見つかって逃げ切れるような相手とは思えなかった。最大走力は三百メートル毎秒以上、と資料にはある。
「運よく、先にこちらが向こうを見つけることができたので、隠れてやり過ごすことができました」
運よく、とグラディアは言ったが、それはエルキドさんの異能のお蔭かもしれないな、とクリスは思った。
「資料にはないが……それでやり過ごせたということは、たとえば犬の嗅覚のように、人間を敏感に察知する能力はないと思っていいのかな」
「エルが同じことを言ってました。もしそういう能力があれば、積極的に人を襲うアルマティオスが黙って通り過ぎてくれるはずはないと」
それは幸運だった。そうでなかったら二人とも殺されていたに違いない。
「グラディアさん。アルマティオスを見て、どうだったかな。その場はやり過ごして正解だったと思うが、もし戦ったらどうだっただろう」
「考えたくもないです。出会ったのは資料を見る前だったので、一見して、ばかでかいカマキリみたいな変な動物だと思いましたが、直後にやばいと思いました。あれと戦ってはいけない、と直感的に思いました。……脚が、震えてました」
優れた戦士は相手の強さを直感的に悟ることがあるという。
「私はそう思った程度でしたけど、エルはもっと正確に見てました。相手の体つきや動き方から、その力や移動速度を予測して、その動物こそが、例の謎の動物なんだって判断してました。案の定、その動物は資料の写真にあるものと同じで、エルが予測した能力も、資料にあるものと大差ないものでした」
資料のデータが正しいとすれば、これまでに発見されているどんなSランク動物とも、比べ物にならない危険な動物だということになる。洞察力の異能者であるエルキドが、資料と関係なく予測した能力が資料とほぼ一致しているなら、この資料は正しいと思って間違いないだろう。
国内でなくても、すぐ隣の国にSランク動物の活動が確認されたなら、それが国境を越えてくる可能性を考慮して警戒しなければならない。増して従来のSランク動物を大きく超えた脅威であれば、今のうちに軍備を整えておいても早すぎることはない。また、ノスコーラから西側のアルフレアでなく、北のカタや東のカンゼノに向かうおそれもあるので、近隣各国には事情を伝えておく必要があるだろう。
浅い眠りから目を覚ましたエルキドは、全身に倦怠感を覚えていた。王宮の医務室なので遠慮する気持ちはあったものの、起き上がることの億劫さはそれを超えていた。どうせろくな夢を見ないだろうがもう一眠りしようと思ったところに、ノックの音が聞こえる。室内にはエルキドのほかには誰もいないようなので、はい、とエルキドが答えた。失礼する、という声はクリスのものだった。クリスは、ベッドの周りを覆うカーテンを開いて顔を見せた。ベッドの横の丸椅子に座る。
「あまり、顔色はよろしくないな」
声を出すのも面倒だった。ええ、とだけ答える。
「無理もないな。もしナナちゃんがエルキドさんと同じ体験をしたら、正気を保ってもいられないかもしれない。無関係な者の死が辛いというのは、いまひとつ私には理解できないから、お気持ちを察することができなくて申し訳ない。私としても、アルフレアの国民には死んでほしくないが、それとは全く違う感情なのだよな?」
「ええ、たぶん」
直接声を聞けるだけでもうれしいはずの、尊敬する王の言葉ですら、今は耳障りだ。そんなエルキドの態度から、クリスはある程度を察してくれたようだった。
「お休みのところを申し訳なかった。好きなだけゆっくりなさってくれ」
立ち上がる彼女に、クリスさん、と声をかける。
「ナナさんと仲直りしました?」
問われたクリスの表情から、いまだにその関係が良好でないことはわかった。だがクリスの答えは、エルキドの予想以上に悪いものだった。
「彼女は、王宮を出て行った」
「それは……」
「ああ、誤解しないでほしい。まだ離婚したわけではなく、家出といったところだな」
王妃が家出というのも前代未聞の大事だ。
「実家に帰っちゃったんですか?」
「彼女の実家には連絡したが、帰っていなかった。親御さんと顔を合わせづらいのだと思う」
王宮から出ていったのだから、そうなのかもしれない。それにクリスが悪いわけではないことをわかっているだけに、事情を話しにくいだろう。
「では、行方不明なんですか?」
「結婚前に彼女が勤めていた幼稚園から、彼女が来ているという連絡があった。行方不明というわけではないから、彼女の好きなようにさせようと思っている」
「戻ってこないかもしれませんよ」
「私もそう思う。彼女はあの仕事が好きだったからな。残酷な私などより、子供といるほうが楽しいのではないだろうか」
気持ちはともかく理屈では、クリスが悪いわけでも残酷なわけでもないことを、ナナにはわかってもらえたと思う。それにエルキドから見てナナが、クリスとけんかしてからも、彼女を愛していることは明らかだ。だが、政治だの王室だの政府だのが絡んでくると、ナナには理解できない、あるいは耐え切れないことも出てくる。いくらクリスを愛していてもそんな世界にいるよりは、子供に囲まれて働いているほうが、彼女は幸せなのかもしれない。
エルキドとグラディアが帰国してから三日後、アルマティオスが国内に侵入した。それからの半日間における、これによる死者は、九千人強。
「ナナちゃん、ナナちゃん」
三人の園児を相手に絵本を読み聞かせているところへ、別の園児が声をかけてきた。
「どうしたの、とらびすくん」
「らいさちゃんとばれりいくんがけんかしてる」
ちょっと待っててね、と絵本を読み聞かせていた三人に声をかけて、とらびすについていく。現場では、泣いているばれりいに、らいさが何か怒鳴っている。らいさは乱暴なところがあって、よくほかの子を泣かせている。
「けんかしないで」
ナナは、泣いているばれりいの頭を撫でた。ばれりいはナナに抱きついて、泣き続けた。
「これらいさのだよ!」
ばれりいにともナナにともつかずにそう怒鳴ったらいさは、パンダのクッションを抱えている。ナナが作ったものだ。自分が作ったものを気に入ってくれているのは嬉しいが、それがけんかの種になっているのは悲しい。
「ねえらいさちゃん。それはみんなのだから、ばれりいくんにも貸してあげて」
「だめ。らいさの」
「それじゃあ……」
ナナは周りを見回した。近くに黄色いゴムボールが転がっていたので、それを取った。
「ナナとボール遊びしない?」
「する」
らいさは即答した。
「じゃあ、パンダさん、ばれりいくんに貸してあげていい?」
「いいよ」
らいさは、ばれりいにでなくナナにクッションを渡した。ナナはばれりいにクッションを差し出したが、ばれりいは受け取ろうとしない。
「どうしたの?」
「ナナちゃんとボールで遊ぶ」
泣き喚いていたばれりいは、ほとんど泣き止んでいた。
何かに執着する園児は、新しいものを提示するとそれに飛びつくことが多い。ナナとしては、らいさにボール、ばれりいにクッションを与えて収めたかったのだが、予定通りにならなかった。ならば三人で遊べばいいと思ったが、絵本を読み聞かせている途中の三人のことを放っておくわけにはいかない。
「じゃあ、三人で遊ぼっか」
ナナはこう言って、数回だけ三人でボールを投げ合った。
「そうだ。ナナちょっとご用があるから、二人で遊んでてくれる?」
「えー」
少しだけ、二人は渋った。しかしどちらもすでに機嫌は直っていて、お願い、と言うと、承諾してくれた。園児の機嫌の移り変わりが激しいのは、難しくもあるが、便利でもある。
ナナは、パンダのクッションを持っていこうとしたが、すでに置いたところにはなかった。周りを見ると、ほかの園児がクッションを持って走っているのが見えた。
「けんかしないでね」
ボールで遊ぶ二人にそう言って、ナナは待たせている三人のところへ戻って、絵本の音読を再会した。しばらく読んでいると、またナナを呼ぶ声が後ろから聞こえ、今度は同時にポニーテールを引っ張られた。
「髪の毛引っ張らないでよう、まるてなちゃん」
「こっち読んで」
まるてなは絵本を抱えていた。
「じゃあ、次に読んであげるから、らいとくんたちと一緒に聞いてね」
まるてなは手を上げて、はーい、と返事をして、絵本を聞いている三人に加わった。
「ナナ様」
また絵本を読み終わらないうちに、声をかけられる。今度は園児ではなく、さくら組担任のクラークだった。ナナがこの幼稚園を辞めてから入ってきた、新しい若い先生だ。彼は、さくら組に入ってきた瞬間から、数人の園児にまとわりつかれている。そのうちの一人は、彼の腕にぶら下がって大笑いしている。
「すみません。俺の組なのに、任せきりにしてしまって」
「任せていただけて感謝してます。私、もうここの先生じゃないのに」
ナナがここで園児たちと遊ぶことを許可してくれたのは園長だ。正式な職員でなくても、経験がある人が手伝ってくれるのはありがたい、と言ってくれた。だがナナとしては、自分が王妃であることもあり、気を遣わせてしまっている気がしている。
「こうやってまた子供たちと遊べるなんて思っていませんでした」
「そうおっしゃってもらえるとお願いしやすいな。実は、今度はアミカ先生が運動会の準備に忙しくなってしまって。できればもも組のほうをお願いしたいんですが」
幼稚園には運動会がある。小学生以上になると、運動能力の個人差が大きくなりすぎるために運動会は成立しないので、これは幼稚園特有の行事だ。
「もちろん構いませんが、絵本をあと一冊読む約束をしているので、それからでもいいですか?」
「もちろんです。約束破っちゃいけませんよね」
クラークとは知り合って数日にしかならないが、すごくいい先生だとナナは思う。子供の扱いが上手いだけでなく、ナナが苦手な、書類作成や行事などの計画を立てることにもそつがない。保護者とも上手くやっているようだ。義務でもないのに、細かく日記をつけているらしく、ほかの先生に過去の事を聞かれて、日記を確認して答えるところを見たことがある。幼稚園教員としてそれだけ優秀なのに加えて、ある程度戦闘までできるというのだから、幼稚園で重宝されているのがよくわかる。
行くあてのないナナは、幼稚園で遊ばせてもらえることになった際に、夜は一人で幼稚園に泊まる事を覚悟していた。だが教員時代に仲のよかったアミカがナナを泊めてくれた。泊まってもいい、ではなく、泊まってほしい、一緒に暮らしてくれたら嬉しい、と言ってくれた。
アミカは半熟卵のオムライスを作ってくれた。卵の下は、それ単体でも十分に美味しいチキンライス。しかも卵の上には手作りのソースがかかっている。ケチャップをベースにして、たまねぎやまいたけがたっぷり入った、具だくさんのソース。
「たまには私にもお料理させてください。泊めていただいている上に何でもしてもらって、申し訳ないです」
「いいのいいの、好きでやってるんだから……ですから」
はにかんで口調を訂正する。
「すみません、王妃殿下に生意気な口のききかたして。いまいち慣れませんので」
「どうか、自然にお話しください。私が王妃になったって、アミカ先生が私の先輩であることは変わりません」
何度かそう訴えているが、アミカは、ナナを殿下と呼び、敬語を使うことをやめない。
「殿下のお気持ちに反してしまうことは、どうかお許しください。王室というのは、おそらく殿下がご認識なさっている以上に重いものなのです」
ナナは、過去の先輩が相手とはいえ、一般人を相手に敬語を遣うなと軽はずみに言ってしまう。相手からすればこれはかなり恐れ多いことらしい。ということは、ナナは王室の重さをきちんと認識できていないことになるのだろう。クラークがするように、名前で呼んでもらえるほうがナナは嬉しいが、様づけであっても、本来これはあまり好ましいことではないのだ。
「陛下と何があったか、伺ってもよろしいですか?」
園長を含む教員の何人かには、クリスとの間にトラブルがあって王宮を出てきたとだけは話してある。
「ごめんなさい。ちょっとそれは……」
誰が悪いわけでもないとはいえ、あまり人に聞かせたい話ではない。それに、正直に話してしまうことは、自分が悪者になってでも、キーラに国民の同情を向けようとしたクリスの意思に反する。
「事情がわかりませんので、お気持ちがわかるとまでは言えませんが、想像はできる気がします」
ナナは首をかしげて、目で問うた。
「保安大臣さんでしたっけ? 最近、ひどい罰を受けたじゃないですか。殺人未遂くらいであそこまでする必要はないんじゃないかって、みんな言ってます。もちろん今でも、陛下は名君だと思っていますが、あの件だけは、ちょっと納得いかないなって」
「キーラさんは、大臣を辞めるべきだと思われませんか?」
「あんな目に遭った上に辞めさせられるなんて、あまりにもあんまりです。陛下を悪く言いたくはありませんが、この上辞めさせるという話になったら、私はきっと陛下を信用できなくなります」
エルキドが説明してくれた、クリスの描いたシナリオが、そのまま実現している。アミカの意見は、おそらく大半の国民の意見なのだろう。これならキーラは大臣を辞める必要がない。
「クリス様にはクリス様のお考えがあるので、どうか悪く思わないで差し上げてください。詳しくは申し上げられませんが」
「そういうおっしゃり方をされるということは、陛下をお嫌いになって家出なさったというわけではないのですね」
アミカは安心したような表情を見せる。口調は敬語でも、表情はナナを心配してくれる先輩だ。
「まだ愛してらっしゃいますよね、陛下のこと?」
「愛してはいますが、一緒にいられる時間はあまりないんです。王宮では寂しい思いをする時間のほうが長いので、正直に申しますと、幼稚園で遊んでいる今や結婚前のほうが幸せなんだと思います」
これを口に出すことは怖いことだったが、言ってしまった。結婚なんかしなけりゃよかった、と言っているのに近い。
「寂しいなら、子供をお作りになれば? 同性なら選択の余地なく技術に頼ることになるから、子作りのために陛下の時間を割く、とかを気にする必要はないし」
異性なら、性交による自然妊娠か、万能細胞を用いて精子や卵子を作る技術に頼るかを選べるが、同性なら選択の余地はない。
「どの道、お世継ぎは必要でしょうし。私なんかがこんなことを申し上げるのは僭越に過ぎましょうが」
「とんでもないです。先輩のご意見、とてもありがたく存じます」
子作りについては、考えていなかったわけではないし、周りから促されてもいる。子供を作って、即位するまではその子供に相手をしてもらうのもありかな、と思う。子供が即位したら、退位したクリスに相手をしてもらえばいい。
その前に考えなくてはいけないのは、どんな顔をして王宮に戻るか、ということだ。それが決まるまでは、もうしばらく幼稚園やアミカのアパートで世話になろうと思った。
幼稚園の職員室のテレビで、恐ろしい報道がされているのを見た。少し前に、アルマティオスという凶悪な動物が国内に侵入したというニュースを聞いたが、これによる被害者がすさまじい数に上っているという。国内への侵入からのわずか十日間で、死者が四十一万人を超えたそうだ。これは、アルフレアの全国民の一パーセントにもなる数である。
さらに、アルマティオスが通過した付近の、有害鳥獣管理局の分局が、総力を挙げてこれを駆除しようとしたのだが、全滅させられてしまったらしい。
ニュースを聞いただけで、ナナは泣きそうになった。
「怖いですね、これは」
園長は唸った。国民の百人に一人が殺されているのだ。アルフレアの誰にとっても、もはや他人事ではない。アルマティオスの移動速度はすさまじいらしいので、いつ誰が殺されてもおかしくない。
「しばらく休園にしたほうがよくありませんか? もしここに来られたら、考えたくないですけど、子供たちがみんな……」
「アルマティオスというのは、建物の中にいる人間も建物ごと斬り刻むそうじゃないですか。外出を控えても、あまり変わらないのでは?」
アミカの意見を、クラークが否定した。それからクラークは、ニュースに怯えるナナに声をかける。
「ナナ様、大丈夫ですか?」
「ええ、なんとか」
辛そうに返事をする。
「お休みになっていても構いませんよ」
「私、外で子供たちと遊んできていいですか?」
今は自由時間で、園児たちは園の内外で好きに遊んでいる。
「そのほうが子供たちは喜ぶでしょうけど、大丈夫なんですか?」
「そうしたほうが、気が晴れると思うので」
ナナは職員たちに一礼し、園庭に出た。砂場で遊ぶ四人の園児に、何を作っているのか尋ねる。山を作っている園児たちは、アンデット山だよ、と答えた。アルフレアで一番高い山だ。
「アンデット山にとんねる掘るの」
作った山の両脇から、手で穴を掘る。
「アンデット山にとんねるなんて、すごいね」
「工事代、一億万キルクルスかかるんだよ」
「かかるよね、きっと」
工事がんばってね、と声をかけ、ナナは砂場を後にした。広場では、ボールで遊ぶ園児や、じゃんぐるじむやすべり台やぶらんこで遊ぶ園児や、鬼ごっこをする園児がいる。ナナは鬼ごっこをする園児を捕まえた。すでにナナと仲良くなっている、なでしこ組のりりだった。
「何、ナナちゃん? 急がないとつかまっちゃうんだけど」
「ナナも仲間に入れてくれないかな」
「鬼ごっこするの?」
「するする」
りりは、鬼ごっこの仲間を呼び集めてくれた。りりを含めて六人の園児が集まった。
「もういっかい、鬼決める?」
「後から来たから、ナナちゃんが鬼だよ」
「ちゃんとじゃんけんするの」
言い争いになってしまったので、ナナがなだめる。
「じゃあ、ナナが鬼やってもいいかな?」
何人かが、いいよ、と言った。反対する子はいない。鬼をやりたい子はいないようだ。
「じゃあ、十数えたら追いかけるからね」
ナナが数を数えようとしたところ、何人もの園児の悲鳴が聞こえた。一か所からでなく、いろいろな方向から聞こえてきた。号泣する園児もいる。園児たちを見ると、その注意や視線は同じ方向にあるようだった。それらを追って、ナナは後ろを振り向いた。
一見したところ、カマキリのようであった。ただし、カマキリとしてはとてつもなく巨大で、大きな尾を持っている。建物ほどではないが、じゃんぐるじむよりははるかに大きい。体色はカマキリのような鮮やかな緑でなく、黒がかった、あまりきれいでない桃色。ニュースで写真を見た、アルマティオスに違いなかった。
にげて、とナナは言ったつもりだったが、ほとんど声になっていなかった。
アルマティオスは、ナナのほうを見ているようであった。恐ろしい速度で走るというアルマティオスは、ゆっくりとナナのほうに近づいてきた。ある程度近づいてからアルマティオスは、鎌状の前足を少し持ち上げ、移動に使っている後ろの四本の脚で地面を踏み込んだ。来る、と直感したナナは、鬼ごっこの六人の園児を抱え込むようにして抱いた。
それから、一分にも感じられた約十秒が過ぎても、ナナは痛みを感じることはなかった。痛みを感じる間もなく殺されるとしても、意識がはっきりしていることを考えれば、まだ自分は無事らしい。恐るおそる振り返ってみると、アルマティオスは目前に迫っていた。声も出ない。息もできない。ナナへの殺意を持って振り上げられたはずの鎌は、ナナに届く前に静止していた。目が合っていたのは、五秒ほどだっただろうか。やがてアルマティオスはナナに届くことのなかった鎌を引き、少し後ずさった。直後に、爆風と砂ぼこりが起こり、ナナたちを包む。砂ぼこりがやんだ後には、アルマティオスの姿はどこにも見当たらなかった。周囲にたくさんの園児の泣き声が響く。
アルマティオスがパテル市方面に向かってくる可能性があるという情報を得て、クリスは市内に警戒態勢を敷いた。それからわずか三十分後に、アルマティオスの襲来が確実視され、市内全域に避難勧告を出す。国民の半数以上は、Sランク動物の出現による避難の経験がある。このため、アルマティオスの到達前に、避難は完了した。
避難が完了してから十分もしないうちに、王宮から一キロメートル程度離れた位置にアルマティオスを確認したという報告が入った。予定通り、保安大臣キーラの承認の下、軍隊を出動させる。空軍のほぼ総力を動員した。どんな機動力を持ってしてもアルマティオスの速度には敵わず、またどんな装甲を持ってしてもアルマティオスの鎌に対しては安全でない。このため、相手の攻撃が届かない空中から攻めるしか手はないのだ。空軍には撮影班もおり、戦況については、かなり不鮮明なものではあるが空中からのリアルタイムの映像を送ってもらえる。この映像を、エルキドとグラディアは、クリスたちと一緒に見た。可能なかぎり軍と兵器で駆除するつもりではいるのだが、不安材料は多い。やたらと敏捷なアルマティオスに対しては、どんな兵器も確実に当てることはできない。また、資料によると表皮はかなり頑丈なようで、徹甲弾ですら命中しても満足に傷つけられる保証はなかった。兵器でどうにかならなければ、Aランク以下の動物のように、人の手に頼るしかなくなってしまう。兵器で駆除できないものが人の手で処理できるかどうかはかなり怪しく、そうなってしまうと絶望的なのだが、この場合は戦闘に参加してほしいと、グラディアはクリスとキーラに頼まれてしまった。当然の依頼ではある。管理局で働く国家公務員として引き受けざるを得なかったが、今回戦いに行くことは、死にに行くことに近い。これまでの趣味のうちである戦闘や、少し危なかったライオンとの戦闘とは、全く違うものだ。
「私が戻れなくなったら、グレイスは怒るだろうな」
戦況を伝えるモニターをぼんやり見つめながら、グラディアは呟く。エルキドに向けた言葉だが、すぐそばにいるクリスの耳にも当然入り、その表情を曇らせることになった。
「怒るくらいで済めばいいよ。三日三晩泣き喚いてそのまま衰弱死、なんてこともありえる。そうなったら、俺はすごく困る」
戦闘機が、機関砲をこれでもかというほど撃ち込む。ある程度は命中しているようだが、案の定、致命傷どころか満足に傷つけることもできないようだ。しかしこれは予定通り。空軍の役割は、アルマティオスに通用する可能性のある唯一にして最終の兵器である、「弩級地雷」への誘導である。
「そのときは、なんとか慰めてやってくれ。エルならできるだろ」
アルマティオスと空軍は、交戦しながら移動を始めたようだ。予定通りの方向へ誘導できているらしい。
「当然そのときは最善を尽くすけど、考えたくもない。何人かの友人によると、俺はマザコンらしい。母さんを喪えばどうなるか、多少なりとも想像はつくだろ」
機関砲を撃ち込むほかに、爆弾の投下も行う。アルフレアで実用化されている中では最強の威力を持つ、理想爆薬と呼ばれる爆薬を用いた非常に強力な爆弾。小型ではあるが、至近距離で爆発させられれば確実に効果はあるはずだ。しかし素早いアルマティオスに対し、命中させることは困難だ。一発だけ、ある程度アルマティオスに近いところで爆発させ、その爆風を浴びせることができたものの、大した効果は得られなかった。
「母親はもう一人いる。私がいなくなっても、そっちに甘えればいい。もっとも、エルのほうが甘えられる機会が多かろうが」
アルマティオスに近づきすぎた戦闘機が一機、落とされた。アルマティオスの跳躍力が彼らの想像以上だったらしい。低空飛行している戦闘機の高さには達してしまうのだ。戦場ではありふれたことだし、仕方のないことでもあるのだが、一人の人間の死に、エルキドは歯を食いしばる。
「赤の他人が一人死んでも苦しいのに、母親が死ぬことに耐えられると思うか? もう一人いるからいいとか、そういう問題じゃない」
空軍とアルマティオスが、目的地付近に到達する。ここから、上手く地雷を踏ませることができるかどうかは、運が多少絡む。遠隔操作で地雷を発動させることも可能ではあるが、それを行う予定はない。踏ませて、至近距離からの爆風を浴びせなければ、効果は薄いだろうからだ。
「死ぬと決まったわけじゃないし、死ぬ気もない。そもそも、私たちが出ることになるかどうかも、まだわからないだろう。地雷さえ発動すれば……」
突然、モニターの映像が砂嵐に変わった。撮影班がアルマティオスに襲われた可能性もなくはないが、直前の映像から、それはないとエルキドは思った。映像が消えてから五秒以上経って、王宮の外から轟音が鳴り響いた。その場の人間の多くが思わず耳を塞ぐほどだった。
地雷の爆音に違いなかった。映像が消えたのは、撮影班のカメラが爆発の影響で動かなくなったか、あるいは撮影班を含むいくつかの機体が、爆発に巻き込まれてしまったのかもしれない。
数分後、連絡が入った。地雷は発動したが、アルマティオスはまだ生きており、しかも王宮の方向に向かったということだ。
グラディアを含む、全国から集められた選りすぐりの精鋭たちがアルマティオスの元に向かった直後には、アルマティオスは王宮から目視できる距離まで迫っていた。アルマティオスの力なら強固な王宮すらも全壊させられるおそれがあり、エルキドたちも避難の必要に迫られた。しかし、アルマティオスが見える距離まで近づいてから、焦って大勢で王宮から出たのは失敗だった。とにかく多くの人間を殺す本能を持ったアルマティオスは、グラディアたちよりも数の多い、避難する者たちのほうに向かってきた。クリスは剣を抜きつつ、戦えない者たちに避難を促す。ほかにも何人かが武器を構えたが、唯一エルキドだけ、剣を構えたうえでクリスの前に出た。
「エルキドさん」
「クリスさんは戦ってはいけない。死んではいけない」
クリスだって、自分が死ぬことの意味をわかっていないわけではない。彼女は歯を食いしばりながらも剣を納めた。
「あなたが死んだら、私は……」
エルキドは思わず笑みをこぼした。
「わかっていらっしゃるのか。あなたは私の、唯一の」
「親友です」
「死ぬな」
「はい」
エルキドは即答した。守れないかもしれない、それどころか守れる可能性のほうが低い約束を交わしてしまうことは、初めてかもしれない。
アルマティオスはエルキドたちのほうに向かってくる。アルマティオスに無視されたかたちのグラディアたち精鋭が、これを追って向かってくる。無論アルマティオスの速度のほうが圧倒的に上で、エルキドと、精鋭とは言えない者たちだけで迎え撃たなくてはならなくなった。
理想爆薬を大量に用いた弩級地雷を踏んで生きていられる動物は、これまでに確認されている動物の中には、おそらく存在しない。アルマティオスが生きていることはまさに驚異的なのだが、それほどの地雷であるだけに、その効果は確実にあった。アルマティオスは左の鎌と、移動に使う四本の脚のうちの右前の一本を、失っていた。尻尾の先も欠けている。その影響で、移動速度は確実に落ちており、運動する際のバランスもおかしくなっている。エルキドの能力なら、そんな状態のアルマティオスの攻撃を避けることは難しくはない。ただし、ただ避けるだけでは、エルキドの元を通り過ぎ、避難する大勢の人間のほうへ向かってしまうかもしれない。それを避けるためには、少なくとも一撃を加え、自分に注意を向ける必要があった。
エルキドは、向かってくるアルマティオスをよく観察した。動きを把握、予測しつつ、守りが薄いであろう部分、硬い外骨格の隙間がある間接部分に目をつける。すれ違いざまに、左前の足の間接を狙って、剣を突き刺した。刺した剣はそのまま持っていかれる。左前足に剣が刺さったままのアルマティオスは、エルキドとすれ違ってから少しだけ通り過ぎ、バランスを崩して倒れこんだ。周囲から歓声が上がる。
「剣を貸してくれ」
エルキドは周囲の一人から半ば無理やり剣を奪い、アルマティオスに向かった。剣が刺さったということは剣が通るということだ。左前の足を、剣が刺さった部分から切り落としてしまえれば理想的だ。そう思ったが、エルキドが近づく前に、アルマティオスは再び立ち上がる。今度はエルキドに、注意どころか殺意を向けている。立ち上がったアルマティオスは、胸部に開いている数十の小さな穴から針を飛ばしてきた。アルマティオスは毒針を飛ばすという前情報を得ていたため、エルキドはこれを避けることができたが、近くにいた一人が右腕に針を二本受けてしまう。
「腕を切り落とす」
エルキドは、針を受けてしまった男性に言った。
「そんな……」
「その針に含まれる毒は大人一人を容易に殺す。耐えてくれ」
男性は、震えながら小刻みに首を横に振る。了解を得ている暇はなかった。彼が決心するのを待っている間に、毒が回ってしまう。エルキドは強引に男性の腕を切り落とした。彼は、地面に落ちた自分の腕を呆然と見つめる。
「止血、頼む」
エルキドは近くにいた女性に言った。それから、周囲の全員に向かって言った。
「みんな、避難してくれ」
「だけど、君一人で……」
「彼を見ろ」
右腕を失った男性を指す。
「人を斬ったのは初めてで、気が狂いそうなんだ。悪いが、周りの面倒を見ている余裕はない。よほど自信がある奴か、命を捨てて俺を邪魔したい奴以外は、さっさと行ってくれ」
一時的にではあろうが、アルマティオスの殺意はエルキド一人に向いている。周囲に人がいなければ、ある程度の時間は持ちこたえられるだろう。周囲の者たちは、エルキド一人を残していくことに抵抗を見せたが、アルマティオスに多少なりとも対抗できるのは彼だけだということを悟り、避難を始めた。
アルマティオスの攻撃をやり過ごして十数秒ほど時間を稼ぐと、アルマティオスに無視された精鋭たちが追いついてきた。彼らのうちの三人が、機関銃による射撃を始めるが、戦闘機の機関砲を弾く外骨格には効果が薄い。たまたま傷口に入り込んだ銃弾は、ある程度の効果があるようだ。グラディアはエルキドのほうに走ってきた。
「エル、無事か?」
「怪我は……してない」
「そうか、よかった」
グラディアには言えなかったし、わざわざ言っている暇もなかったが、人の腕を切り落としたことは、多少の怪我をする以上に痛かった。
「理想爆薬というのはすごいんだな。殺すことはできなかったが、相当の重傷を負わせた」
「うん」
「私たちは理想爆薬を使った手榴弾を二個ずつ渡されているんだが、これを使えば止めを刺せるだろうか」
グラディアは手榴弾を取り出して見せる。
「いくら理想爆薬でもこの大きさじゃ、普通に使ってもたぶんだめだ。体内で爆発でもさせないと」
「体内?」
「レバーを外して爆発待ちにした状態で、口にでも突っ込めれば。あるいは、胴体部分を剣か何かで斬って、その傷口に深く埋め込むとか」
「難儀だな、それは……」
悲鳴や叫び声が聞こえた。機関銃で撃っていた三人のうちの一人が、二箇所に倒れていた。一箇所に上半身、もう一箇所に下半身。間もなく、残りの二人も鎌の餌食になる。剣や槍で戦う者たちも、次々に倒れていく。手榴弾を投げた者もおり、何度かその大きさに似合わない大爆発を起こしたが、エルキドの予想通り、致命傷にはなっていない。残りの人数が、エルキドとグラディアを含めても十人を切ってしまい、やがてアルマティオスの殺意は、グラディアに、そして再びエルキドにも向いた。
「いかん、来るぞ。……エル?」
座り込んでしまっていたエルキドは動けなかった。目の前で何人もの人間が死んだせいだ。
「しっかりしろ、逃げるんだ!」
グラディアはエルキドを強く揺さぶったが、エルキドは立ち上がることすらできない。アルマティオスは二人の状況に頓着するはずもなく襲ってくる。その胸部の穴から無数の針が飛んでくるのを見て、グラディアは反射的にエルキドを庇うように抱きかかえた。グラディアの表情が歪む。
「母さん……」
「エル、私は幸せだった。ありがとう。グレイスにもそう言っておいてくれ」
不自然な笑顔。彼女の背中を見る。無数の毒針が刺さっている。
「グレイスとミイのこと、頼むぞ。ごめんな、エルキド」
グラディアは動けないエルキドを残してアルマティオスに向かって全力で走った。走りながら、手榴弾のレバーを外す。それから跳び上がって、手榴弾を持った腕を、アルマティオスの口の中に突っ込んだ。腕ごと突っ込んだのは、確実に体内に投入するためだ。その代償に、グラディアは右腕を噛み千切られ失ってしまったが、今の彼女にとって大した損失ではなかった。グラディアの体が鎌によって大きく切り裂かれてしまったのが、手榴弾を投入した後だったことは彼女には幸いだったろうが、エルキドにとってはこの上もない悲劇だった。
斬られたグラディアが地面に叩きつけられた直後、アルマティオスの胸部から鈍い爆発音が響き、アルマティオスは倒れ込んだ。十秒ほど、倒れたグラディアとアルマティオスを呆然と眺めていたエルキドは、やがて剣を取って立ち上がった。剣を引きずってふらふらと歩くエルキドは、グラディアの横を通り過ぎ、倒れたアルマティオスの頭部の横で止まった。まだ動いているアルマティオスの首を何度も剣で突き、それから切り落とす。エルキドは剣を手放し、すでに遺体と化しているグラディアの元へふらふらと歩み寄ると、そのまま倒れて気を失った。
目を開けたエルキドは、見慣れない部屋のベッドにいた。王宮内であることは間違いなさそうだが、ベッドがあるのに医務室ではない。ベッドは隣にもう一台あった。
「もう、目を覚まされないかと思った」
クリスの言葉と体のだるさから、相当な時間眠り込んでいたことが想像できた。丸一日以上、眠っていたのかもしれない。
「この部屋……このベッドって……」
「ナナちゃんの、だ」
国王婦々の寝室に入ることだけでも、おそらく国王婦々と、寝室の掃除などの世話をする人間以外の誰にも、めったに許されないことだろう。増して王妃のベッドを使わせるなど、クリスの行動は常軌を逸している。
憔悴したエルキドはそれに気づくのが遅れたが、クリスはこの上なく落ち込んでいた。アルマティオスによる被害のせいというのはあるだろう。だがそれは今に始まったことではない。今のクリスには、前に会った時点にはなかった悲しみが見てとれた。エルキドが眠っている間に、何かがあったのだ。それはおそらく、ナナに関することだ。彼女の名を口にした際のクリスは、痛いくらいに辛そうだった。
「ナナさんに、何かあったんですか?」
クリスは少しだけ、目を見開いた。それからふっと、鼻で笑う。
「あなたに隠し事はできないな」
「無理に言わなくてもいいですけど」
「ナナちゃんが死んだ」
予想できていたわけではないが、エルキドはあまりおどろかなかった。いつ、どこで、誰が死んでもおかしくはない。特にここ十日ほどの間は、アルマティオスが国民の一パーセントを殺して回っていたのだ。単独で行動していた彼女が、その一パーセントに含まれていることは、ありえなくはない。
おどろかなかったが、辛かった。ただただ辛かった。
「アルマティオスですか?」
「ナナちゃんが世話になっていた幼稚園に、アルマティオスが出たそうだ。だがそこの教員の話によると、ナナちゃんを襲おうとしたアルマティオスは、彼女を殺さずに立ち去ったらしい。幼稚園に被害はなかった」
これにはエルキドもおどろいた。人を見たら可能なかぎり殺そうとするアルマティオスには、基本的にありえない話だ。だがクリスはそこを軽く流して話を進める。不自然だった。
「彼女を殺したのは、ノスコーラの諜報員だ。自国の状況を知らずに、戦争のための作戦を続けていたらしい。王妃を殺して、王や国民の気力を削ごうと、下らんことを考えていたようだ。私が自分で、丁寧に質問したら全部教えてくれたよ。口の軽い男だ」
クリスは顔だけで笑っていた。
「その諜報員、どうするんですか?」
「言わずもがな。まさか許してやれなどと、この期に及んでおっしゃるわけではあるまいな。どうせもう五体満足ではない。生かしておくほうが気の毒だ。丁重に慈悲をくれてやる。ゆっくりと時間をかけてな」
エルキドの表情が曇る。
「申し訳ない。傷心のあなたに話すべきことではなかったな」
仕方のないことだ。一国の王妃を殺したのだから。ただその諜報員は、絶対に逆らえない命令によってナナを手にかけたのかもしれない。ノスコーラはおそらくそういう国だった。
「俺、どれくらい寝てました?」
「丸二日近くになるな。無理もないと思う」
「グレイスに連絡いってますか? グラディアのこと」
「いや」
死者はグラディアだけではないから、無理もない。
「電話、貸していただけますか?」
クリスは自分の、私用のほうの携帯電話を渡してくれた。そういうつもりではなかったのでエルキドは少し戸惑う。彼女の性格や普段の行動から予測できる行動ではあるが、今のエルキドは頭の働きが鈍っているようだ。
自宅に電話をかける。不機嫌な声で電話に出たグレイスは、エルキドの声を確認すると喚き始めた。
「今まで何やってたの。いきなりしばらく留守にするって出て行って、それだけでもありえないのにこんなに留守にするなんて、私が今までどんなに……どんなに……」
グレイスは泣いていた。彼女にとって、二十日以上放っておかれることがどんなに辛いかを、エルキドは理解している。とはいえ二人とも無事に帰るつもりでいたから、出て行くときは比較的気楽なものだった。こんなことになるとは思っていなかったから。
「ママさん、今一人?」
「お友達と一緒だけど」
「その人、戦える?」
「強いよ。グラディア様ほどじゃないけど」
「じゃあその人に送ってもらって、こっちまで来てもらえるかな。王宮だから、場所を覚えてなくても、パテルまで来てその辺の人に聞けばわかるから」
グレイスは、数回行った場所に行く場合でも迷うことが珍しくない。一人だったらパテルまで来ることも難しいだろうが、「お友達」がグレイス並の変人でもないかぎり大丈夫だろう。
「どうしていまさら? それだったら最初から連れて行ってくれればよかったのに。どうして私だけ仲間はずれになるの? この前だって……」
「母さん、死んだんだ」
言ってから少し待ってみたが、反応はない。
「だから、母さんに会いに来てほしい。来られる?」
「わかった。行く」
声からグレイスの心中を推し量ることはできなかった。
アルマティオスの駆除成功にあたり、被害状況の確認や一般に公開する情報の選別などについて、会議が開かれた。クリスを含む、以前に王宮で会った人間を坊主頭でおどろかせたグレイスは、昨夜からずっと、地下に置かれたグラディアの遺体にくっついており、まだ戻ってこない。会議には、クリスはもちろんエルキドも参加するが、二人とも上の空だった。会議の途中でクリスは、ちょっとすまない、と席を外す。普段はクリスに対しても遠慮せずにものを言うアダムは何も言わない。一人にしてあげるべきかエルキドは少し迷ったが、似た傷を持つ者同士だ。クリスを追うことにした。彼女と同様にして、会議室を抜ける。
会議室を出てクリスがどちらの方向へ行ったかは足音でわかったし、彼女が求めているのは泣き場所であることもわかっている。少し探せば見つかった。廊下の途中にある、少し広くなった空間に備えてある長椅子に座って、クリスは頭を抱えていた。
「まだ泣いてなかったんですか」
エルキドはクリスの隣に座った。
「立場上、人前で泣けないのはわかりますけど、こういうときは涙を流しておかないと、体に毒ですよ」
「一人のときに、もう泣いた」
嘘を完全に見抜かれることはわかっているのに、クリスは言った。言ってから体を震わせる。それからようやく、涙が彼女の頬に筋を作る。少しの間すすり泣いたクリスは、エルキドの胸にすがり付き、号泣した。
「王配になってほしい」
ひとしきり泣いて落ち着いてから、クリスは言った。ひどく潰れた声だ。
「クリスさんは俺に、異性に恋愛感情を持たないでしょう」
「あなたほどの方が、結婚は恋愛のためだけにするものとお考えか?」
「人が結婚する理由は様々ですが、クリスさんはナナさんと恋愛の末結婚した。それからのクリスさんの仕事ぶりを見て、それでよかったと思ったんです。クリスさんには、結婚くらいは自分のためにしてもらいたい」
「これも自分のためだ。王としてでもあるが、一人の人間としても、あなたをそばに置きたい。恋人としてナナちゃんに代わる人物が、この先現れるとは思えないが、王配としては、あなたはナナちゃん以上だと思う」
王配として、というあたり、やはり自分自身よりも国のことを意識しているのが伺える。だがそもそもクリスにとって、国を思うことが人生そのものだ。そんな彼女にとっては、国のためというのがすなわち自分のためなのかもしれない。
エルキドは、政治の世界に漬かることも、結婚することも、多くの人の上に立つことも、一生ないと思っていた。そうしたいという気も、毛頭なかった。だが自分と似た傷を持つ親友を助けられるのなら、それもありかもしれないと、今では思う。王配に政権はないが、王配になればクリスは、今以上に積極的に意見を聞いてくれるだろう。と言うより、政治を行ううえで意見がほしいとか、相談相手になってほしいというのが、求婚の大きな理由のひとつだろう。それなら彼女と結婚すれば、エルキドの望む国が作れるかもしれない。人が殺されない国が。
「考えさせてください」
エルキドさんは未来の王配だからナナちゃんのベッドを使うといい、などとわけのわからないことを言い、クリスは引き続き自分たちの寝室を使わせた。グレイスのことを考えると、早く家に帰って休ませてあげたかったのだが、アルマティオス駆除の現場にいて、しかも止めを刺したエルキドは、しばらく会議などの後処理に付き合わなくてはならなかった。
クリスの就寝はエルキドよりもずっと遅い。すでに夫婦であるかのように同じ部屋で眠る最初の夜にエルキドは、彼女が寝室に来るのを、しばらく寝ずに待っていた。
「まだ起きていらしたのか。待っていただいても、ベッドで特別なことをする気はないぞ」
「俺もありません。話がしたかっただけです」
「先ほどは無茶を申し上げたかもしれない。あなたにも将来的に結婚なさりたい方がいらっしゃる可能性、あるいはそういう方が現れるであろうことを、考えなければならなかった」
「その可能性は薄いので、考えなくていいです。俺は恋愛や性交渉をしない、いわゆる無性愛者です」
「そうだったのか。珍しいな」
その存在を認識していない人が多い無性愛者だが、一国の君主であればさすがに知っている。
「お歳に似合わぬ知識や知恵といい、異能といい、あなたには特異点が多いな」
「特異な点、ですね。特異点は物理や数学の用語です」
「そうだったか。これはお恥ずかしい」
「多くの人は一生触れない話なので、べつに気にしなくていいです。俺はその聡明さにおいても、クリスさんを尊敬していますよ」
クリスは照れたように笑ってから、自分のベッドに腰掛けた。
「わざわざ待っていただいて申し訳ないのだが、眠ってもよろしいだろうか。最近、満足な睡眠時間が取れなくて。こんな感じでナナちゃんにもあまり構ってあげられなかったことは悔いているのだが、特に最近はいろいろありすぎたから……」
「ああ、話というのは、べつに雑談がしたかったわけじゃないんです。そのナナさんのことで、ひとつだけ聞きたいことが」
「なんだろう」
「彼女が、アルマティオスに襲われなかった理由です。クリスさんはご存知なんですよね」
先ほどの不自然な態度から、彼女が知っていることは明らかだった。
「うまくごまかしたつもりだったが、やはりエルキドさんだな。まあ、求婚をした相手に隠し事をしているというのも不誠実か」
どんな関係でも、ある程度の隠し事があることは当然だとエルキドは考えるが、それは言わないでおく。
「あなたも、人生に関わる重大な秘密を打ち明けて下さったし、それに応える意味でもお話ししよう。無論だが、口外無用に願う」
「はい」
「本人は知らなかったのだが、ナナちゃんも実は異能者でな。ラプラスの悪魔と同等か、それ以上に珍しい能力かもしれない。心の洗濯、とそれを私たちは呼ぶことにした」
心の洗濯、という言葉を、エルキドは口の中で転がした。
「ナナちゃんが関わった人間からは、憎しみとか攻撃性とか、そういった悪意が消えていってしまうんだ。効果が現れるまではある程度時間がかかるため、気づくのに時間がかかった。能力の存在が確実視されたのは、結婚から二年ほど経ったころだったな」
「ナナさんが芸能活動を始めたころですね」
「もう気づかれたか。さすがだな。そう、私たちはその能力を全国民に適用しようと考えて、彼女をアイドルに仕立てた。テレビなどの媒体を通しても、直接会って話すほどではないものの確実に効果があることはわかっていたからな。人と動物が殺し合うことは自然の摂理だが、そんな中で人間同士が憎み合うようなことはなくなってほしいと願ってのことだ」
人から憎しみの心が消える。それは一見すばらしいことのようだが、それが正しいことなのか、エルキドから見ればかなり怪しい。
「人の心をいじってしまうというのはどうなんでしょう。それも、国が国民に断りもなく。憎しみの心だって、存在している以上は意味があるんですよ。自分の敵を憎まないことは、自分を脅かす。憎しみは、愛と同様に、種の存続に有用な機能です」
「無論、反対意見はあった。憎しみの存在意義について、そのように的確な意見をくれた者はいなかったが。だが憎しみと同様に、ナナちゃんの能力が存在していることにも、意味があるのではないか? 私が惚れた女性がそういう能力を持っていることに、ある種の運命を感じた。彼女は王の妻になるべき人間だったのだと、私は思った」
その気持ちはわからなくはない。ナナの力を国のために役立てることは自分の使命だと、クリスは思ったことだろう。
「その力が、動物に対しても有効だったということですか? アルマティオスの、ナナさんに対する殺意を消してしまったと」
「そういうことだと思う。ナナちゃんには、芸能関係の交渉と戦闘をこなす有能な従者をつけていたのだが、襲ってきた動物が彼と戦闘になる前に、戦意をなくして立ち去ることが何度かあった。ただ、効果が出るまでに時間のかかる彼女の能力が、動物に対して一瞬で作用する理由が不明なのだが」
「人間と比べて思考が単純な動物には作用しやすいとか、あるいは命の危険に遭ったナナさんが自身を守るために、一時的に異能を最大限に開放した火事場の馬鹿力のようなものであったとか、そんなところじゃないでしょうか」
「なるほど。そのどちらか、あるいは両方と考えれば得心がいく。しかし仮説とは言え、よく一瞬でそういうことが思いつくな。私たちがしばらく考えてもそういう考えには至らなかったが……」
「ナナさんは、最後に幼稚園で、子供たちを守ったんですね」
クリスは微笑んでうなずいた。寂しそうで悲しそうながらも、満足そうな笑みだった。
「私、ナナちゃんの子を産もうと思っている」
「どうやって?」
「ナナちゃんの遺体は戻ってきている。細胞から精子を作らせて……」
「そうじゃなくて、そんな暇あるのかって話ですよ」
二人の子は、ナナが産むつもりだったはずだ。細かい事情はエルキドの知るところではないが、そのうちにと思って先延ばしにしているうちに、こういうことになってしまったのだろう。ナナが産むのなら問題はなかったはずだが、クリスが産むとなるとそうはいかない。周りは全力でサポートしてくれるはずだが、クリス自身がそれに甘んじることができるかはかなり怪しい。ほんの数日でも仕事を休もうとしないクリスが妊娠すれば、ぎりぎりまで無理をして仕事をして子供どころか母体まで……などということになりかねない。
「さすがにそのときにはゆっくり休むさ。私がナナちゃんの子を宿せば、その子を無事に産むことを最優先すると、あなたも思われるのでは?」
すんなりと肯定することはできなかった。クリスのナナへの思いも、ヒトの女性の母性の強さも、エルキドは十分に理解しているが、クリスの仕事への思い、つまり国への思いや父親への反発心が、それらに容易には負けないこともわかっている。
隣のベッドで眠っているクリスとは違う人物の気配を感じ、エルキドは目を覚ました。その歩調にしても呼吸にしても、彼のものはどこか独特で、エルキドは顔を見なくても声を聞かなくても、それがクレオであることがわかった。
「何しに来たんだ、こんなところへ」
ここへ来た目的以前に、ここに入って来られたこと自体がおかしいのであるが、そのことを問うても意味がないような気がした。クレオはほかの人物とは何かが違う。そして彼は現実にここにいる。どうやったかは、エルキドにとって問題ではない。
「何か悲しいことでもあったのか?」
微笑んでいるクレオに、エルキドは尋ねた。
「度重なる君の苦痛を見兼ねた。最近の君は動物を殺すことが多かっただろう。しかもたくさんの死を見せつけられ、挙句に大好きなお母さんを目の前で殺されて……君の傷が広がっていくのを見ていられない」
確かに最近は辛いことが重なった。重なりすぎて感覚が鈍くなり、自分がどれだけ傷ついているかを正確に判断することが困難になっている。それをいいことに、エルキドは自分がどれだけ傷ついているか、疲れているかを、あまり考えないようにしていた。つまりエルキド自身ですら把握していないエルキドの状況を、クレオはかなり正確につかんでいるらしい。
「つまらない質問かもしれないが、あんたはラプラスの悪魔か?」
「うん」
クレオは躊躇なく即答する。
「理由はわからないが、俺のことはラプラスの悪魔でもすべては知りえないとのことだった」
「すべては、だろ。特に遠い未来についてはそうだけど、現在のことについては、それなりのことがわかる。その中には君自身が知らないことも含まれている」
「俺が傷ついていることがわかったから、同情して慰めに来てくれたのか」
クレオはうなずいた。
「一つ、権限を解放しておいた。今後君は、任意の相手の恋愛感情を自由に操作することができる。クリスさんでも、ほかの意中の誰かでもいい。君を好きになるようにして、その人と幸せに暮らしなよ」
「あんたでもいいのか」
「僕はだめだ。例外的にできないようになっている」
おかしな話だ。任意の相手、と言ったばかりなのにそう言った本人が例外だなんて。これではほかにもたくさん例外があってもおかしくない。だがそれ以上におかしいのは、クレオが慰めとしてこんな無意味な能力を与えたと言い出したことだ。
「ラプラスの悪魔とは、俺が恋愛をしないことすら知らないほど無知なのか」
「恋は誰でもできると、僕は思う。異性愛者の同性に対する恋心も、同性愛者の異性に対する恋心も、すごく小さいから見えないだけで、きっと存在するものなんだよ。君にもきっとある。恋はいい。きっと傷をやさしく洗い流してくれる」
ラプラスの悪魔にしては、断言しない表現が目立つ。
「恋愛論については比較的興味が薄くてな。どうしても語りたいなら、もう少し科学的に頼む。あんたがそう主張する根拠を提示してくれ」
「形而上的なことは苦手なんだ。君も認識しているとおり、物理的な観測でわからないことは、ラプラスの悪魔でもわからない」
クレオがラプラスの悪魔であることが嘘でないのなら、おそらくとぼけている。決定論に従うかぎり、たとえば異性愛者が同性に対する小さな恋心を持っているかどうかは、物理的な観測でわかるはずだからだ。ラプラスの悪魔でも苦手とする形而上的なことというのは、たとえば、なぜ人は恋をするのか。エルキドが考え続けている、「なぜ」という基本にして究極の問いが、おそらくラプラスの悪魔の盲点だ。
「俺の中に小さな恋心が仮に存在するとしても、それを掬い上げることに、俺は興味がない。俺にくれたという力は、俺にとってまったく魅力的ではない」
返事はない。クレオは姿を消していた。
「無礼者め」
エルキドはそう吐き捨て、再び眠りに就いた。