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フェイタルアクション  作者: きりたんぽ
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生物兵器

 クリスからグラディアに、王宮に来てほしいという依頼があった。ラプラスの悪魔と対面した本人から詳しい話を聞きたいとのことだ。しかし今回は、グラディアは仕事の都合でパテルまで出向くのは不可能だった。代わりに、エルキドが行くことになった。

 王宮に着いたエルキドは、玉座のクリスと形式上の挨拶を交わし、それから彼女の執務室に案内された。

「客室でなくて申し訳ない。私はここのほうが落ち着くものだから。落ち着く場所で、あなたと二人きりで話がしたかった」

「構いませんよ」

 クリスに促され、テーブルを挟んで向かい合わせに置かれた長椅子に、エルキドは座った。向かいにクリスが座る。

「実は、グラディアさんのご都合が悪くて、私には好都合だった。私は個人的にあなたに興味があって、ゆっくりじっくりと話してみたかったんだ」

「それは光栄ですね」

「おや、失念していた。何かお飲みになるか? コーヒー、紅茶、緑茶とあるが」

「じゃあコーヒー……いや、お構いなく」

「ご遠慮なさるな」

 クリスは笑って、自らコーヒーを淹れた。

「インスタントで申し訳ないが」

 王が自らインスタントコーヒーを淹れて飲むという事実に、エルキド少しだけおどろいた。だが普段の彼女の言動から想像できる性格からして、不自然ではない行動ともいえる。どちらかといえば、王の執務室にインスタントコーヒーの存在を許している周囲の人間に不自然さを感じるが、クリスが欲しいとひとこと言えば成立する事実でもある。

「寝不足ですか?」

 エルキドの問いに、クリスはまぶたを押さえた。

「いや、今日はまぶたは痙攣してませんけど、表情や動きがそんな感じなので」

「やはり、恐ろしい洞察力をお持ちでいらっしゃる。その点から考えても、今回お話を伺うのは、エルキドさんでよかったのかもしれないな」

「話はおそらく、ノスコーラの件ですよね。母から報告がいっていると思いますが」

「うん。おどろいた……というのもあるが、正直半信半疑だ」

 無理もない。国と国とが戦いを始めるなんて、今の人類の知るかぎり、ないことなのだから。

「だがアルバート氏がラプラスの悪魔である可能性は、そもそもこちらが見出したことだ。彼に悪意がないかぎり、その言葉は本当なのだろう。確認するが、彼は、放っておけばノスコーラとの戦争になる、とおっしゃったのだな?」

「はい。確かにそう聞きました」

 グラディアから管理局に、管理局から保安省に、保安省からおそらく保安大臣を通じて王に伝わった、又聞きの又聞きの話だから、確認しておきたい気持ちはわかる。この話に間違いの可能性があるとすれば、ラプラスの悪魔の能力より、むしろその伝言ゲームを怪しむべきだろう。

「国が彼を殺そうとしたのにこんなことを申し上げるのは申し訳ない気がするのだが、彼と連絡は取れるだろうか。本人からお話を伺えれば一番確実だと思うのだが」

「連絡先は聞いていませんが、調べればわかりますよね。ただ、連絡しても意味はないと思います」

 クリスは首をかしげた。

「こちらが連絡を取りたいと思えば、向こうはわかるはずです。と言うより、こちらが連絡を取りたがることが、最初からわかっていたはずです。それで向こうから接触してこないなら、連絡を入れても応えてくれないかと」

「なるほど、そういうことになるのか……」

 クリスは少し考えてから、そう言った。

「それにおそらく彼は、必要以上に他人に干渉しないと思うんです」

 クリスはまた、首を傾げる。

「ラプラスの悪魔の知識と言うのは、絶大な力です。仮に自分がほとんど全能と言えるほどの力を持って暮らしていたらと考えたんですが、その力はなるべく行使しないようにすると思うんですよ」

「一国の王が、すべての権限を持ってわがままに振舞うようなことになるからだろうか」

 エルキドは少し間をおいてからうなずいた。

「しかし、たとえすべてを知っているとしても、ただ知っているだけのことで、王に匹敵するだけの影響を及ぼすものだろうか。アルフレアのみならず、各国の秘密を握っているなら、たしかにそれなりに恐ろしいとは思うが、権力を持つわけではないし、増して全能というのは……」

 ラプラスの悪魔の影響力は、王に匹敵するものではなく、王とは比較にならないほど絶大なものと思われる。それを説明するには少々難しい話をする必要があるが、聡明なクリスになら、話しても大丈夫だとエルキドは判断した。

「ラプラスの悪魔の最も驚異的な業は、我々が想像する知識ではたぶんありません。たとえば今回、アルがノスコーラとの戦争について警告してきました。彼は、戦争は絶対に避けたいと言って、母にその話をしに来た。そしてそれだけで帰っていった」

「そう言えばおかしいな。戦争を避けたいなら、その知識を使って、もっといろいろと働きかけてきそうなものだが」

「それは、彼がそれだけで十分だと判断した……というより、知っていたからでしょう。俺の家に話をしに来るというだけの些細な行動で、戦争を確実に防ぐことが、彼にはできるんです」

「それは、どういう……」

 クリスは難しい顔で、額に手を当てる。

「カオス理論って聞いたことはありますか」

 クリスは首を横に振る。

「我々の体を含むあらゆる物質が、細かい粒子から構成されていることは?」

「原子だの分子だのだろう。それくらいはさすがに存じている」

 クリスはむっとした表情を見せた。

「失礼しました。ではこの世界を、その無数の微小な粒子で構成されていることを想像してください。この世界は、たくさんのつぶつぶでできている」

「……うん、想像した」

 エルキドは自分の財布から、一キルクルス硬貨を数枚取り出した。このうちの二枚を、少し離して置く。

「この硬貨、世界を構成する粒子のうちの二個だと思ってください。今この粒子が、まっすぐお互いのほうに向かって一定の速度で動いているとします。この後、どうなるかわかりますか?」

「ぶつかるだろう」

「その後は?」

「止まる」

「止まるのは、下のテーブルとの摩擦や、空気抵抗のせいですよね。それらがないとすると?」

「ぶつかった後は、お互い反対の方向に動き始める」

 エルキドは、クリスの言葉に合わせてコインを動かした。

「今クリスさんは、二個の粒子の未来を正確に言い当てました。ラプラスの悪魔の能力というのは、こういう予測を、この宇宙のすべての粒子についてすることができる力なんです」

「イメージとずいぶん違うんだが……こんな簡単なことなのか?」

「理屈は簡単です」

 実は微小な世界の物体は、今エルキドが説明したような、日常の感覚で簡単に理解できる運動をしてくれるわけではない。だがそのことについて説明することは厄介だし、今必要なことではないので、割愛することにした。

「ただ、その情報量、計算量がすさまじい。今の例では未来の予測が簡単に立てられますが、この粒子が、三個四個と増えた場合、しかもそれらの動きがランダムな場合は、暗算で未来を予測するのは常人には非常に難しい。不可能といってもいい。ラプラスの悪魔は、宇宙に十の八十乗個程度あるといわれる素粒子すべてについて、そういう計算をすることができるのだそうです」

 エルキドは言いながら、一個ずつテーブルに硬貨を置き足していった。六個の硬貨が並ぶ。

「たった数個で暗算が難しくなってくるものを、それだけの個数の粒子についてすべて知り、計算する……桁違いという言葉すら生温いな」

「理論上、計算は可能ですが、その計算量が大きすぎる。一秒後の未来を予測するだけでも、最新のスーパーコンピュータを一億年稼動させても、到底歯が立たないような計算量ですね。このように、計算量が大きすぎるせいで予測ができないものを扱っているのが、カオス理論です」

「なるほど、勉強になるな。カオス理論についてはある程度理解した」

 エルキドはうなずいた。期待通り、クリスは頭の回転が速い。

「さて、さっきの二個の粒子に戻ります」

 エルキドはテーブルの硬貨を四枚右に寄せ、二個を中央に残した。

「この二個の粒子、さっきと同じ条件としましょう。このままでは二個は衝突する運命にあります。その運命を回避するには、どうすればいいでしょう」

「質問の意図がよく……衝突させたくないなら、一個取ってしまうとか」

 クリスは一枚の硬貨を手に取った。

「あるいは、二個のうちの一個を横から押して、進行方向を変えてしまうとか」

 クリスは取った硬貨を置き、一個の硬貨がその軌道を変えた場合の、二個の硬貨の動きをエルキドに見せた。硬貨は衝突しない。

「そういうことです。たとえば、衝突して反対の方向に動いた粒子の一個が、その先のたくさんの粒子と何度もぶつかる運命にあるとします」

 エルキドが言葉のとおりに動かしたコインの先には、さっき右に寄せた四枚のコインがある。この場合、この四枚すべてに影響を与えることになる。

「それがわかっている場合、衝突する前にたった一個の粒子の動きを変えるだけで、衝突後に何度もほかの粒子とぶつかる運命を変えてしまうことができます」

 二枚のコインが衝突しない場合、右から来たコインはそのまま左に通り過ぎ、右の四枚のコインに影響を与えることはない。

「たった一個の粒子をいじるだけで、ほかのいくつもの粒子の運命を変えてしまうわけか。……すると、いくつもの粒子の運命が変わったことでさらに大きな変化が?」

「そうです。ほんの些細な違いが、その後の大きな変化につながるわけですね。こういう性質を、初期値鋭敏性、と呼んでいます。これをアルは、理論上ではなく現実の世界で、どういう結果になるかを正確に計算した上で行ったと思われます」

 話をするという些細な操作で、戦争の回避という大きな結果を、おそらくは引き起こすことになる。

「それでは、ラプラスの悪魔は、どんなことでもできることになるのか?」

「だからさっき全能という言葉を使ったのですが、正直それは、ラプラスの悪魔でない我々には知りようがありません。今回アルには、話をすることで戦争を回避する、言わば『道』が見えていたのだと思われます。道さえ存在すれば、極端な話、石ころ一個を投げて一国を滅ぼすことも簡単でしょう。そういう道が、いくらでも存在するのか、それともけっこう限られているのか、我々には知りようがないんです」

 しばらく唸っていたクリスはやがて、待てよ、と言った。

「だとしたら、ラプラスの悪魔でなくても、偶然そういうことを引き起こしてしまうことも考えられるのではないか?」

「絶対にありえないとは言えないと思いますが、その確率はきわめて低いと思われます。たとえば石ころ一個を投げてノスコーラを滅ぼす道が、一億通りあるとしましょうか。数はかなり少なく見積もっています」

「少なく見積もって一億通りあるなら、たまたま当たることは十分考えられるのでは?」

「ただ、それ以外の道が、それとは比較にならないくらいあるんです。石を投げると言っても、いつ、どこから、どの方向に、どの石を、どの強さで投げるかという組み合わせを考えると、一億やそこらじゃきかないでしょう。考え方にもよりますが、組み合わせの数は無限大とも言えます。かなり少なく見積もって、仮に石の投げ方が一億の三乗通りくらいとすると、石ころを投げてたまたまノスコーラが滅びる確率は、一億の一億倍に一つ、ということになります。でも道を知っていれば、当然百パーセント狙った結果を引き起こせる」

 クリスの表情は固まっている。

「でも気づかないだけで、人がたまたまそういうことを引き起こしている可能性はあります。たとえば明日、俺が靴を右から履くか左から履くかの違いで、来月のドラゴンによる死亡者数が変わるかもしれない。常に未来は、そういう無数の原因が組み合わされた結果なんです。でもどの行動がどんな結果につながるかは知る術がない。ラプラスの悪魔の怖さは、意識して意図した結果を起こすことが可能であることなんです」

「それはまさに全知にして全能……キーラさんは、そこまで予想なさって、あのような行動を起こされたのだろうか」

「失礼ですが、予想できていなかったと思います。予想できていたら、母が何をしてもアルを殺すことは不可能だということも予想できていたはずですから。単に、政府や王宮の機密を握っていることを危険視してのことではないでしょうか。だとしても、動機としては十分ですけど」

「それとは比べ物にならない危険性を秘めたラプラスの悪魔を殺そうとしたのは、正当な行為だったと思われるか?」

 今になって迷うのだろうか。クリスは、キーラを罰するためではなく、彼女に大臣を続けさせるために、あの処分を決めたはずなのに。キーラの行為が正当だったかどうかなど、関係ないはずなのに。

「公開の身体刑は、俺やグレイスには辛かったです。無関係じゃないから、無視することもできなかったし。でもあれは、英断だったと思います」

「英断? 何のことだ?」

「国民の同情をあおって、キーラさんが大臣を続けても批判されにくいようにする、ですよね。お好きなのでしょう、キーラさんのことが」

 クリスは観念したように笑った。

「あなたに隠し事はできない、というわけだな」


 クリスはエルキドともう少し話がしたいと言い、王宮から歩いて十分ほどのホテルを用意してくれた。以前に用意してもらったのと同じホテルだった。

 翌日になって王宮に行くと、クリスの秘書官のマリという女性に、昨日と同じ執務室まで通された。執務室ではクリスが、机やテーブルに広げた大量の紙とにらめっこをしていた。

「お忙しそうですね」

「散らかっていて申し訳ない。作業に区切をつけるまで、少しだけそちらで待っていただけるだろうか」

 エルキドは、昨日座ったのと同じソファに腰を下ろした。目の前のテーブルに広げられた紙に、その気がなくても目がいってしまう。それが様々な政府関連機関についての資料だということはすぐにわかった。クリスの机に広げられているものも同様だろう。その量からして、国内すべての政府関連機関についての資料がこの部屋に存在している可能性もある。

「この資料、俺が見たらまずくないですか?」

 ほぼすべての資料の表紙の右上に、「機密レベル 一」とある。「機密レベル 二」と記されたものもいくつかある。

「本当はね。だが私としては、あなたにはむしろご覧いただきたい。一人でこれを仕分けるのはさすがに難儀だ」

 エルキドは資料を一部取って見た。表紙の上部に「独立行政法人 教員研修局」、下部左寄りに「教育文化省」とある。中は、この法人の概要、実態の報告、現状の予算と必要な予算、などなど。

 テーブルの資料に、見覚えのある法人名を見つけて、その資料を取った。表紙には、「独立行政法人 総合情報統制局」、所管は保安省。グラディアが言っていた、以前マックスが所属していたという法人だ。ざっと中を見てみると、大した業務のない、なくても困らないような法人だった。

「仕分けるっていうのは、必要な事業とそうでない事業を仕分けるんですよね?」

「おや、よくご存知で……まあ、ニュースで多少はやっているから、あなたなら当然ご存知か」

「クリスさん一人でやってるんですか?」

「周囲に下見をしてもらったり、ざっと判断してもらったり、ある程度仕分けてもらったりはするが、最終判断は私だから、すべてに目を通さなくてはならない」

 目の前のテーブルとクリスの机の大量の資料を見て彼女の手間を考えると、それだけでため息が出てくる。

「私では情報の見落としや、判断の誤りのおそれがないとは言えないからな。もしお時間が許すなら、一緒に仕分けていただけないだろうか」

「俺、王でも政治家でも官僚でもないですよ」

「だが、私が知っているどんな王や政治家や官僚にも劣らぬ知識や判断力を持っていらっしゃる」

 尊敬し、憧れていると言ってもいい王に、ここまで言われるのはうれしい。さすがに照れを隠すことはできなかった。

 クリスの机の資料もざっと見せてもらったところ、馴染み深い法人の資料を見つけた。ほかの資料と比べて、明らかに厚みがある。表紙には「独立行政法人 有害鳥獣管理局」と書かれている。

「特定独立行政法人の資料もあるんですか?」

 クリスはエルキドの視線を追って、管理局の資料を取って渡してくれた。中を見てみる。

「いちおう、すべての政府関連企業について見ている。さすがに、特定と銘打ってあるものに、その存在価値が疑われるものはないようだが」

 エルキドは、一分間くらいその資料を黙って見た後に、言った。

「ナナさんと、けんかしたんですか?」

 え、とクリスは声を漏らす。

「どうして」

「テレビでお二人を見てればわかりますよ。いつもよりお二人の間に距離があるし、一度も目を合わせないし。言ってしまえば、いつもみたいにいちゃついてない」

 クリスは言葉を返さない。

「初めてですよね、お二人の本気のけんか。最近の出来事を考えると、キーラさんの件が原因ですか。ナナさんが、クリスさんの考えに納得してくれなかったんでしょうかね」

「以前お会いしたときに思ったのだが、エルキドさんは、読心の異能者でいらっしゃったりするのだろうか」

「そんなふうに感じましたか」

「うろ覚えだが、読心の異能が科学的にありえるという話を聞いたことがあってな。もしそうでも、正直におっしゃることはできないのだろうな」

「読心の異能の可能性は考察されていますけど、仮定の多い話で、俺はどちらかと言うと実在はしないと思っています。ざっと言うと、人が物を考えているときに特有の波動が脳から出ていると仮定して、その波動を感じて、かつその情報を無意識にでもいいから解析することができる人間がいると仮定すれば、その人間は相手の考えを読める、という話ですね」

 クリスはうなずきながら聞いた。

「うん、そういう話だったな」

「もちろん絶対に実在しないとは言いません。ラプラスの悪魔に比べれば、なんてことのない力ですし。ただ、俺は読心の力は持っていない。証明はできませんけど、今までの俺の発言が、読心によるものでなくても可能であることは説明できます。けんかしたことは様子を見ればわかるし、ナナさんの性格を考えれば、臣下に残酷な刑罰を与えることは、たとえ本人のためであっても納得しそうにない。これくらいなら、国民の何人かは見抜いてますよ」

 クリスは不安そうな表情を見せた。秘密にしていることは、思ったよりも流出してしまう。

「まあ、俺はラプラスの悪魔の件を知っているから、クリスさんがどういうつもりでああいう決定をしたかが想像できましたけど、そうでない多くの国民は、クリスさんに酷いことされたキーラさんがかわいそうって思ってくれますよ」

 ノックの音がした。失礼します、と入ってきたのは話に出てきたキーラだった。彼女の姿を見て、エルキドは顔をしかめてしまう。背や尻に刻まれているはずのすさまじい傷は包帯に覆われているはずであり、その包帯もスーツに隠れてほとんど見えない。だが表情だけで傷の痛みは読み取れた。また傷だけでなく発汗もあり、それに声や表情や顔色から、少なくとも三十九度の熱があることがわかった。外傷による発熱が、まだ引いていないのだ。

 クリスはやや慌ててキーラのほうに歩み寄った。

「もうよろしいのか。顔色が優れないようだが」

「ご挨拶が遅れて失礼いたしました。二日以上寝込んでしまい、目を覚ましてからも数日動けませんでしたので」

「まだ体調が回復しているようには見えない」

「動けるようにはなりましたので、ご挨拶を。私が陛下を些かもお恨み申し上げていない旨、それどころか感謝しております旨、一刻も早くお伝えしたかったので」

 エルキドはキーラが急いだことに納得した。おそらくキーラは、元々了解の上で刑を受け入れたのだろう。だが想像を絶するであろう鞭の苦痛を味わった後では、自分がクリスを恨むようになる可能性があると、キーラは思っていた。その可能性は、クリスも考えていたはずだ。だから、受刑を終えてもクリスを恨んでいないことを、受刑後できるだけ早くに伝えておきたかったのだ。

「あなたのお気持ちはわかったから、早く帰ってお休みになっていただけないか」

「はい。……あの、そちらの方は?」

 キーラはエルキドを示して尋ねた。

「ああそうだ、キーラさんと無関係ではない。グラディアさんのご子息だ」

「エルキドです」

 はじめまして、とお互いに頭を下げる。

「お母様にはご迷惑をおかけして、本当に申し訳なく思っています」

「いえ、母が咎めを受けるわけではないので、気にしないでください」

 正直に言うと、キーラが傷つく場面を見せつけられたのが最大の迷惑なのだが、そんなことを言うわけにはいかない。

「今日はすぐにお帰りになるのだよな?」

 クリスが念を押す。

「ええ、そのつもりです」

「間違っても無理して復帰しようとはなさるな。保安省が火を噴いていることはお聞きだとは思うが」

 火を噴く、というのは、極端に忙しいことを表す業界用語だ。管理局でも使われる言葉なので、エルキドも知っている。

 保安省は、ほかの省と比べて、いつも忙しいところだ。それに加えて、ノスコーラが戦争を仕掛けてこようとしているという情報が入って、その対応に追われているのだろう。しかも大臣が不在というのはまさに火を噴く状況であり、できればそのことは今のキーラに知られたくはないのだろうが、すでに知っていると思ったほうがいい。今知らなくても、すぐに誰かから聞くことになるだろう。

「こんな状態で出ても迷惑なことはわかっております。一刻も早く体調を回復させることに専念します」

「うん」

 帰ろうとするキーラに、すみません、とエルキドが声をかけた。

「体調が悪いところを本当に申し訳ないんですけど、少しだけナナさんに会っていってもらえませんか?」

 キーラもクリスも、問うようにエルキドを見る。

「聞いているかもしれませんが、クリスさんとナナさん、けんか中なんですよ。キーラさんにひどいことしたって、ナナさんが怒ってます」

「私のせいで……」

「誰かが悪いわけじゃないと思います。ナナさんは、クリスさんの考えに納得がいかなかったから怒ってるんですけど、刑を受けた本人の口から、クリスさんを恨んでないと聞けば、ナナさんの気持ちも多少和らぐんじゃないかと思って」

「そういうことでしたら、ぜひお会いしてお話させていただきたいです。よろしいでしょうか、陛下?」

 クリスは、戸惑いながらうなずいた。

「肩、貸しますよ」

 歩くのも辛そうなキーラに、エルキドは言った。そうは言ったもののエルキドよりずっと背が低い彼女に肩を貸すのは難しく、エルキドは彼女を背負っていくことにした。こちらのほうがお互いに楽だ。

「……エルキドさん」

 キーラを背負って執務室を出ようとするエルキドの背中に、クリスは声をかけた。

「ありがとう」


 ナナはキーラの顔を見ると、慌てて寄ってきた。エルキドはキーラを降ろした。

「もう、よろしいのですか」

 ナナは勢い余ってキーラの体に触れた。キーラは顔をゆがめ、うめき声を上げてしまう。

「ご、ごめんなさい。……まだ傷が?」

「いえ、大丈夫です。ご心配をおかけして、申し訳ございません」

「私などに気を遣わないで、すぐに帰ってお休みになってください。いえ、ここで横になってください。すぐにお医者さんを呼びます」

 ナナは泣きそうな顔で捲くし立てた。キーラは彼女を安心させようと、無理に笑う。

「すぐに失礼しますので。ただ、一つだけお願いというか、わかっていただきたいことが」

「なんでしょう」

「私は今回の件で陛下をお恨み申し上げるどころか、感謝しております。今でも信頼し、尊敬しております。私が原因でお二人が仲違いされるようなことには、決してならないでいただきたいのです」

「わかりません。どうしてこのような目に遭わされて、感謝だなんて」

「それは」

 辛そうに話すキーラに、エルキドが声をかける。

「事情は俺から説明しておくので、キーラさんはもう帰って休んだほうが」

 クリスを恨んでいないことを、本人の口から伝えてくれれば、それで十分だった。

「すみません、よろしくお願いします」

 辛そうに立つキーラが帰ろうとするのを見て、ナナは人を呼び、キーラの歩行を支えさせた。彼女たちが去って、部屋のドアは開けっ放しになっている。

「少しだけお話してもよろしいですか」

 エルキドはいちおう確認した。王妃が一度会っただけの一般の高校生と二人きりで部屋にいるというのは、体裁が悪いどころか問題にもなりかねないから。ナナがうなずく。

「申し訳ありませんが、ドアは開けたままで。決まりですので」

 王妃が他人と二人でいるときの決まりだろう。

「ナナさんは、キーラさんの受刑をご覧になったんですか?」

 ナナはうなずいた。

「ここのテレビで、たまたま」

 たまたま、ということは、そのときまでキーラの受刑について聞かされていなかったということだ。

「そういうのを見るのって、かなり辛いですか?」

「誰かが傷つくところを見るのは辛いです。それが動物であっても、傷つくところや死ぬところを見たくありません。そういう人は、ほかにあまりいないようなのですが」

 そうではないかと思っていた。そうでなければ、ナナとクリスが深刻なけんかをすることは考えにくいから。

「すごく珍しいと思いますが、実は俺と、母のグレイスもそうなんです」

 ナナは目を見開いた。

「もう一人の母が関わった事件だから無視できずに見ていましたが、見ていて辛かった」

「私だけではなかったのですね。ひどいと思われますよね?」

 エルキドは首を振る。それからゆっくりと事情を説明した。アルに罪がなくても、彼がラプラスの悪魔であるというだけで、キーラは彼を殺そうとせざるを得なかったこと。クリスはキーラの気持ちはわかるものの、王として彼女を罰しないわけにはいかなかったこと。その罰をわざと残酷なものにして国民の同情をあおることで、自分が悪者になってでも、キーラに大臣を続けさせようとしたこと。

「あれは、キーラさん自身のためだったとおっしゃるのですか?」

「キーラさんのためでもあるし、クリスさんのためでもあるでしょう。クリスさんはキーラさんに、臣下として働き続けてほしかったのだろうから。すごく簡単に言えば、クリスさんはキーラさんが好きだからああしたんです」

 こういう言い方をしてしまえば、ナナが文句を言うのは難しくなる。それでもナナの表情は納得のいくものではなかった。理屈はともかく、鞭打ちの刑が()として記憶に焼き付けられているために、どうしてもすっきりしないのだろう。それはエルキドも同様なので、気持ちはよくわかる。

 クリスとキーラの間には、些かの問題も存在しないのだ。それでもエルキドやナナの気持ちがよくないのは、二人が傷や痛みに弱いせいだろう。

 どうして自分たちはこんなにも弱いのだろうかと、エルキドは思う。


 王宮から帰る前にエルキドは、クリスから、彼女の二台ある携帯電話のうち、私用のほうの電話の番号を教えてもらった。可能なかぎり話を聞くので、何かあったら電話してほしい、とのことだ。どちらかと言えば、自分がエルキドの知恵を借りたい場面のほうが多いと思う、とも言った。エルキドは、ナナと仲直りしてほしいと話し、クリスと別れた。



 マックスが突然謹慎処分を受けた。グラディアから見れば突然のことだったが、統括によれば、前々から保安省に何らかの警告を受けていたとのことだ。だがその統括も、事情はよくわからないらしい。管理局の運営について、保安省がこんなにもあからさまに直接に関わってくることは、初めてではないかと言う。よくわからないが、とりあえず厄介なのがいなくて助かる、と二人で笑う。

 家に帰って、マックスのことを話題に出す。エルキドもマックスが謹慎処分を受けたことは知っていた。理由は単純な職務怠慢だろう、と彼は言う。多くの職員が深夜まで残業したり、泊まりや徹夜で仕事したり、休日出勤したりする中でも、マックスは特に事情もなく午後に出社したり定時前に退社したり出社しなかったりということが珍しくなかった。仕事は部下に押し付けているか、あるいはもっとひどくて、自分に回ってこないような体制を作り上げているのかもしれない。以前までは、少なくとも管理局では、理事に対して制裁を加えることは不可能だったようだ。常務理事の上には専務理事がいるが、専務が常務を処分するということは今も昔もないらしい。管理局の理事を咎める者はいなかったのだが、最近になってこの役を、どうやら保安省が行うことになったようなのだ。理事の仕事ぶりに対しては保安省からのチェックが入るようになった、とクレオが言っていたらしい。ただでさえ忙しい保安省が、所管の企業すべてについて細かいチェックを行うことは不可能だが、マックスほど極端な給料泥棒なら、簡単なチェックに引っかかるのも当然だ。


 夕食後、エルキドはいつものように部屋にこもって勉強だか調べ物だかを始めたようだ。グラディアがグレイスとテレビを観ている幸福な時間を、振動する携帯電話がテーブルを激しく打ちつける音が邪魔をした。マックスからの着信であることを確認し、顔をしかめる。無視したいところだがいちおう上司なので、出ざるを得ない。テレビを観るグレイスの邪魔にならないよう、携帯電話を持って部屋を出る。

「もしもし」

 グラディアは、感情を込めないように意識して言った。

「グラディア君かね。マックスだが」

 声に元気がない。謹慎処分が応えているのだろうか。

「何でしょうか。こちらは忙しいので、手短に願います」

「忙しい? まだ仕事中だったか?」

「用件だけおっしゃっていただけますか」

「用件というほどでは……ただ、どうしているかと思って」

 軽く歯を噛み締める。用もないのに電話で話すような関係ではないのに、と。

「妻とテレビを観ています。用件はそれだけですか」

「いや、少し話を聞いてほしい」

 元気がないながらもその傲慢さは健在で、彼は自分の都合で話を始めた。彼の処分は謹慎だけでは済みそうになく、少なくとも降格、もしかしたら解雇されるかもしれない、ということだけはグラディアにとってまあまあの話だったが、あとはつまらない内容だった。これまでは社会的に高い立場であるということで、かろうじて家庭内で権威を保ってきたのだが、今回のことをきっかけに家族に軽視されるようになったという。これまでも良好とはいえない雰囲気だったのが、きっかけがあったことで一気に悪化してしまったようだ。

 そんなことを私に話して何になる、と言ってしまいたかったが言わなかった。今のところはいちおう上司だということもあるが、気の毒だという気持ちもあるからだ。

「君にこんなことを話すのは筋が違うのかもしれんが」

 それはわかっているらしい。

「この前くれたアドバイスのことを考えてな、君は頼りになると思ったんだ。なんとかしてくれとまでは言わないが、話だけでも聞いてほしかった」

 どんなアドバイスをしたのだったか、思い出してみる。

「家族に対して感謝の気持ちを持つべきだと言いましたね、たしか。そうしたんですか?」

「そうしようと思ったんだが、それをどう表していいかわからなかった」

 感謝し慣れていない人間というのは、かなりタチが悪い。今まで傲慢だった人間が急に感謝の気持ちを持っても、周りにそれを認めてもらうのが困難だということもあるだろう。

「まず、仕事をまじめにやったらどうですか。今まで自分が不当な報酬をもらっていたことは、もうわかってますよね?」

 それで謹慎処分を受け、さらには降格か解雇までされようとしているのだから、わかっていないというのはいくらなんでも異常だ。

「解雇されたら、もう元事務次官のコネとか権力とか使わないでまじめに再就職する。降格で済んだら、その後にさらに一般職まで自主降格して一からスタートしたほうがいい。今のあなたには、人の上に立つ器も能力もありませんよ。昔は優秀な官僚だったかもしれないが、楽して稼ぐことに慣れすぎたんだ、あなたは」

「そこまでする必要があるかね」

「私のアドバイスが参考になると思ってくれたんでしょう。ならばあなたの意思で私の言うとおりにしてくれるのではないのですか。それがいやならべつにいい。単にあなたにとって私の言葉に価値がないというだけのことだ。無視してけっこう」

 グラディアは、マックスの地位を奪いたくてこう言ったわけではなかった。今のマックスが人の上に立ち続けるのは、本人にとっても危険だと、本気で思ったのだ。職務怠慢に対して処分を受けたからと言って、すぐに管理職として相応しくなれるとは、どうしても思えない。



「エルちゃん、クリスちゃんからお電話」

 電話に出たグレイスはエルキドに、受話器を押さえもせずに言った。クリスちゃんて誰だと一秒弱ほど考え、それがこの国の王の名であることに気づいて少し慌てる。

「クリスちゃんはないだろ」

「だってもうお友達でしょ? こうやって電話してくるんだから」

「せめてクリスさんにしてくれ」

 エルキドはグレイスから受話器をひったくるようにして取り、もしもし、と声をかけた。押し殺すような笑い声が聞こえた。

「クリスちゃんで構わない」

「すみません」

「グレイスさんがどういう方かはもう十分に存じ上げているのでお気になさらないでいただきたい。あなたも、私と彼女が話すたびに謝るのは大変だろう」

 クリスはまだ笑いが止まらないらしく、言葉のところどころに笑い声が含まれていた。

「そうだ、笑っている場合ではないんだ」

 声が急にまじめになる。

「グラディアさんとあなたがライオンに遭遇する直前に、グラディアさんが狙撃を受けたというお話を伺ったが」

 グラディアが、アルを殺せなかったことを報告した際に、一緒にそれを話している。

「もしかしたらライオンと狙撃犯人は無関係でないかもしれないと考え、ほかにライオンが出現した付近を捜索したところ、引っかかった」

「母を撃った犯人が捕まったんですか?」

「グラディアさんを撃った犯人かはわからないが、その犯人と同様にライオンを連れ、FQの高いアルフレア人を殺して回っていたことを白状した。アルバート氏の情報どおり、ノスコーラの者だった」

「よく、素直に白状しましたね」

 エルキドは自分の想像した内容に嫌悪感を抱き、声が沈んだ。

「大きな声では言えないどころか極秘なんだが、拷問を行った」

 嫌悪感むき出しの声を伴ったため息が、喉から漏れてしまう。

「自ら作った法を犯したことは恥じ入るが、あなたが気に入らない理由は、そういうことではないのだよな?」

「ご存知なんですか?」

「ナナちゃんから聞いた。あなたとグレイスさんも、彼女と同様だと」

 クリスとナナはけんか中だが、全く会話がないわけではないようだ。そう思って、エルキドは少しだけ安心した。

「だが、必要悪であったこと、あなたにならご理解いただけると思う。早急に事情を究明し対策を講じなければ、さらに何人もの国民が犠牲に……」

 わかってます、とエルキドは、クリスの言葉を遮った。

「問題ありません。不快なのは俺の気持ちの問題だし、そもそもその拷問は違法ですらない。クリスさんの作った法律は、いかなる理由があっても国民に拷問を加えてはならない、というものだった。外国人は対象外だ」

「屁理屈になると思いそれは申し上げなかったが……ご理解、感謝する」

 まとわりつく不快な想像を振り払うように、エルキドは首を振る。

「戦争を企んでいるという証言は取れたのですか?」

「そこだけは頑なに口を閉ざしていたが、それ以外のすべてがアルバート氏の予言と一致するし、こちらはすでに戦争を想定して軍備を整え始めている」

 アルの言動から考えて、戦争は起こらないはずだ。だがアルフレアが戦争に向かって進んでいるように見え、エルキドは不安になる。

「だが未曾有の事態なだけに、どうしていいかわからないことも多い。若輩の私にわからないことは、アダムさんたちに判断や意見を仰ぐことが常なのだが、今回ばかりは周囲の誰にも判断がつかない事項が多すぎる。お恥ずかしい話だが、そういうことも、もしかしたらエルキドさんならと思って、苦し紛れにお電話させていただいた」

「意見くらいは言いますけど、飽くまで参考程度にしてくださいよ」

「無論、あなたに責任を負っていただくことは一切ない。あなたの判断を採用するかどうかは、すべて私の責任だ」

 エルキドはものを考えることは大好きだが、責任ある判断を任されることは避けたい。クリスはこれを当然のことと踏まえた上で、いくつかの質問をした。

「まず、ライオンを連れたノスコーラ人が、戦闘のできるアルフレア人を殺して回っていること、加えてそれが戦争の準備であるらしく、ノスコーラに攻めて来られる可能性があることを、国民に発表するべきだろうか。発表して注意を促して、少しでも被害者を減らしたいのだが、そうすれば混乱は必至だろう?」

「人命を優先するなら、混乱を押しても発表するべきでしょう。ただ、戦争については確証を得られていないわけだし、知らせたところで無駄な混乱を招くだけなので、言う必要はないかもしれませんね。ライオンを連れた刺客に気をつけろ、とだけ言えばいいと思います」

 なるほど……と少し考えてから、次の相談。

「ノスコーラに対しては、こちらから攻めたほうがいいのだろうか。同国が戦争を企んでいるということの判断材料は、アルバート氏の証言のみで、しかも私たちは又聞きしたに過ぎないので、なんとも判断しかねる」

「アルの能力は本物だと俺は判断しましたが、万に一つそうではない可能性、そうだとしても彼が何らかの理由で嘘をついている可能性もないとは言い切れないので、間違いだった場合を考えると、こちらから攻めるべきではないと思います。本音を言うと、クリスさんにはそういうことをしてほしくないと、個人的に思います」

「では、ノスコーラが戦争を企んでいる事を確信するためにはどうすればいいだろう。現在どの程度の軍や兵器を備えているのか、知る方法はないだろうか」

「それは……実際にノスコーラに行ってみないことには」

 エルキドにも、クリスに聞きたいことがあった。

「実のところアルフレアとノスコーラはどの程度関わりがあるんですか? 俺たち国民は全くないと認識していますが、実はひそかに国交があったりはしないんですか」

「いや、それはない」

「ノスコーラに在住しているアルフレア人が少しでもいるとか、アルフレアの誰かとノスコーラの誰かが少しでも何らかの情報のやり取りをしているとか、王室や政府でノスコーラの何らかの情報を持っているとか」

「まったくないことはないが、本当にごくわずかだ。向こうのおおよその人口すら、私は知らない」

 声の調子から判断して、クリスが嘘をついている可能性は低い。顔を見て話せれば嘘はほぼ確実に見破れるが、わざわざ彼女から相談してきていることを考えれば、ここで嘘をつくことは考えにくい。持てるかぎりの正しい情報を提供しなければ、エルキドが最適な判断を下せないことくらい、容易にわかることだ。

「それなら、やはりノスコーラに諜報員を送って情報を仕入れるべきなのかもしれない。危険なので強くは勧められませんけど」

「エルキドさんも、そう思われるか」

 エルキドはノスコーラの状況について、少し考えてみた。

「国どうしの戦争というものを俺は知らないので、これは想像でしかないんですが」

「うん」

「ノスコーラの国民がみんな、アルフレアを攻めることに賛成するとは、どうしても思えないんですよ。国民性というのはあるんでしょうけど、それにしても同じ人間なのに、アルフレアにめったにいないような暴力的な人間が、ノスコーラにひしめいているということは、ちょっと考えにくい」

「つまり、どういうことだ?」

「戦争は、ノスコーラ人のごく一部がやりたがっているだけなんじゃないかなって。それを実行に移そうというんだから、そういう権力の持ち主、普通に考えれば皇帝でしょうね。皇帝一人かもしれませんし、それに政府高官の何人かが加わるかもしれませんけど、その戦争をやりたがっている者だけを何とかして……最悪殺してしまえば、戦争は防げるのかなって」

 人を殺す提案をするのは辛い。

「なるほど、そうかもしれない」

「ただ、これは自信ないです。こっちからノスコーラの誰かに危害を加えれば、今度はそれをきっかけに戦争になるかもしれないし、なんとも言えません」

「それについては、こちらで十分に検討する。あなたに一切の責任はないので、どうかご心配なさらないでほしい」



 新しく捕らえたノスコーラ人と思われる者が、アルフレアの状況についてある程度本国に報告していることを白状した。ノスコーラに対するこちらの戦力など、いろいろなことが伝わってしまっただろう。彼女は最初に捕らえたノスコーラ人と同様に、ライオンを連れてアルフレア人の戦士を何人か殺しているようで、少なくとも諜報と暗殺の任務を負っているものと思われる。

 アルフレアの情報がノスコーラに知られてしまったことは痛いが、捕らえた二人を別々に拷問することで、こちらもかなりの情報を手に入れることができた。エルキドの話を参考に拷問し、戦争に積極的なのは皇帝を中心としたごく一部のノスコーラ人のみであることもわかった。ここまではエルキドの想像通りだ。互いの被害を最小限に抑えられるかもしれないので、ノスコーラの皇帝を含む何人かを暗殺することを本気で考えてみる。

 二人のノスコーラ人の拷問に三十分ほど立ち会ったクリスは、慣れない拷問を担当する役人たちに引き続き頼むと声をかけ、玉座に戻った。玉座の横では、アダムとキーラを含む四人の大臣や副大臣が立ち話をしている。表情から雑談でないことはわかる。少し離れてマリが立っている。クリスの戻りを待っていたのだ。クリスは彼らに、お疲れさま、と声をかけた。

「お疲れさまです、陛下」

 ばらばらにだが、全員が挨拶を返す。クリスは玉座に着いて深くため息をついた。

「本当にお疲れのようですね」

 アダムが声をかけてくる。

「慣れないことが続いたからな」

「だから拷問は面白いものじゃないってご忠告申し上げたのに」

「そして私は趣味の類で立ち会うわけではないと申し上げた」

 拷問を見たのはクリスには初めてのことだった。クリスは疲れてしまう程度で済んだが、これがナナだったらまた大騒ぎになるだろう。彼女には、拷問が行われている事実自体隠しておかなければならない。知られれば、キーラの件でこじれた現状が、決定的に悪化することは必至だ。

「ナナちゃんは?」

 マリに尋ねる。物騒な話が続くので、彼女にうっかり話を聞かれることは避けなければならない。

「お部屋にいらっしゃいます。ずっとこもりきりでいらっしゃるようで」

「食事は?」

「きちんと取っておられます。健康状態には別段問題はないかと」

 それならとりあえずはいいだろう。今は彼女との仲直りについて考えている余裕はない。

「とりあえずこの場にいらっしゃる方にだけでも聞いていただきたいのだが、戦争を望んでいるのは、ノスコーラの中でも皇帝を中心とした一部の人間だけだということがわかった。エルキドさんがご想像なさったとおりだった」

「よく聞きだせましたね。口が固そうだったうえに言葉も違うのに」

「過去の拷問のノウハウが残っていたからな。言語はそれなりに問題だが、不完全な通訳でも証言くらいは取れる」

「では次は、ノスコーラの戦争肯定派の暗殺ですか?」

 キーラが言った。

「陛下が絶対の信頼をお寄せになっているエルキド君を信用しないわけではありませんが、すべて彼の言うとおりにというのは、些か……」

「無論、彼の言葉を鵜呑みにするつもりはない。第一、このことについては彼も自信がないようだった。そうでなくても、このまま暗殺に踏み切るのは勇み足になりかねない」

「とは言え、平和的に解決するのも難しそうですよね」

 ノスコーラの皇帝か、政府の有力者に直接会って話を聞きたいが、向こうはこれに応じる気が毛頭ないようだった。それどころか、電話、書簡、電子メールなどの方法で連絡を取ろうとしても、満足な応答すら得られない。

「暗殺の如何を問わず、こちらからも人を送る必要はあるだろうな」

「向こうから送ってきたような、諜報員兼暗殺者をこちらからも、ということですか?」

 アダムが言った。

「そんな危険な仕事、引き受けてくれる人がいるかなあ」

「私は陛下のご命令なら、この命、喜んで差し上げます」

「こんな身近にいましたか」

 クリスは首を振った。苦労して自分の下で働き続けてもらえるようにしたキーラの命を危険にさらすようなことは、クリスは個人的にしたくない。

「これは政治家の、増して大臣の仕事ではない」

 幸い言い訳には事欠かない。

「官吏から有志を募る。報酬を弾めば誰かが手を挙げてくれるさ。問題は暗殺までやってもらうかどうかだな」



 ノスコーラに諜報員を送ってから四日後、その諜報員からの電話連絡が入った。先に話をしたアダムから、クリスが受話器を受け取る。

「盗聴に気をつけてくださいね」

「わかっている」

 ノスコーラの電話回線を経由して連絡してきているはずなので、そのおそれは小さいとはいえ、盗聴されていることを前提に話す必要がある。

「クリスだ。何かわかったか?」

「それが……」

 諜報員は口ごもった。あまり長く電話をしたくないクリスは、そのことにすら少し焦る。

「どのような内容でも構わないが、簡潔に話していただけるか」

「対アルフレア用に整えられた軍が、次々に壊滅しているようです」

 壊滅、とクリスは口の中だけで呟いた。話を滞らせたくはなかったので、それで、と促す。壊滅するには何らかの理由があるはずなので、話には続きがあるはずだ。

「すべてを確認したわけではありませんが、何者かに殺害された兵士を私も目撃しましたので、間違いありません。その原因についてはいろいろな噂があるようですが、人間でない謎の生物に滅ぼされた、という説が濃厚です」

「軍隊を滅ぼすような生物がいるというのか?」

 Sランク動物の戦闘能力を持ってすれば、ノスコーラ軍の状況によってはそれも可能かもしれないが、可能だというだけで、そういうことを実際にやる動物がいるとは思えない。動物はそんなに積極的に人間を襲うものではないのだ。

「ノスコーラは被害者の遺体を長期間放置することが珍しくないようで、そのおかげで遺体を調べることができました。ざっと見たところ、生物の毒針のようなものと、刃物で斬られたような傷が確認できました」

「針だけがその場に?」

「はい。吹き矢のように」

 かなり珍しいが、毒針を飛ばして刺す動物は、ほかにもいたはずだ。動物が飛ばした針なら、その針は動物の体の一部のはずである。

「その針だが、回収してこられるだろうか。こちらで調べさせたい」

「すでに回収済みです。いちおう、遺体の写真も撮っておきました」

「よくやってくれた。では、直ちに帰国していただけるか」

 ノスコーラ皇帝たちの暗殺については、諜報員の報告を元に、実行させるかどうか決めることにしていた。このような事態であれば、暗殺よりもその謎の生物について少しでも知ることを優先したほうがいい。



 授業中に校内放送が流れ、エルキドの名が呼ばれた。電話がかかってきているので職員室まで来いという。初めてのことだが、電話をしてくるならママさんだろうか、と考えて職員室へ向かう。

 職員室で電話を取った教師はかなり慌てていた。一瞬、グレイスにとんでもないことを言われたのかと思ったが、それにしては少々慌て方が妙だった。教師の持つ受話器が、まるで高価な割れ物のようだった。クリスさんかな、と思って受話器を受け取る。もしもし、という声は、彼女の妻のものだった。

「ごめんなさい、授業中だということで。お宅に電話したら、グレイスさんが電話番号を教えてくださったので電話したのですが、学校だったのですね」

 グレイスは、学校のものだと言わずに、電話番号を教えたらしい。ナナにしても、高校生のエルキドが、平日の昼間に授業を受けていることを想像できなかったのだろうか。元々一般の人間である彼女にその程度の常識がないとは思えないので、何らかの理由でそこに考えが至らなかったものと思われる。それなら気分が不安定なのかもしれない。そう考えると、クリスとけんか中だということを差し引いても、声に元気がない。

「ナナさんから電話だってことならうちの先生も文句は言わないだろうし、授業に退屈してたのでちょうどよかったですよ。それで、何かありました?」

「エルキドさんにお尋ねするのは違うのかもしれないと思ったのですが、ほかに頼れる方がいなくて。クリス様たち、何か大きな問題を抱えてしまったように見えるんです」

 ノスコーラのことだ、と思った。ナナがエルキドと同様に、他人の傷や痛みに弱いことを考えると、けんか中でなくても、クリスが物騒な話をナナに内緒にしようとするのは当然だ。キーラのときのように、うっかり知られて話がこじれないかが不安なところだ。

「しばらくクリス様とはまともに口をきいていないので、お尋ねすることができないということもありますが、そうでなくても私は、大事なことを知らせてもらえないことが多いんです。クリス様以外にお聞きしても隠されているようで。もしかしたらエルキドさんなら事情をご存知で、教えてくださるかもしれないと思って」

「残念ながら、俺は知りません」

 エルキドは嘘をついた。極力嘘はつきたくないのだが、必要な嘘だった。

「ただ、知っていても言うべきではないと思うんです」

「なぜですか」

「けんか中であっても、クリスさんはナナさんのことをすごく大事にしています。そんなクリスさんがナナさんに隠すということは、それはナナさんが知るべきでないとクリスさんが判断したということです。ナナさんのための判断です」

「私のために内緒にしていらっしゃると?」

「けんかしてるからいやがらせのために内緒にしてるとして、そんなくだらないことに周りが協力しますか?」

「なるほど」

 すっきりはしていないようだが、ある程度は納得してくれたような声だった。

「機会があれば、ナナさんにできるだけ話すようにクリスさんに頼んでおきますから、ナナさんは、クリスさんと仲直りするように頑張ってもらえませんか。お二人がけんかというのは、一国民として、辛いです」

「努力します。ありがとうございました」

 受話器を持って頭を下げるナナの姿が目に浮かぶようだった。



 ナナから電話があってから、エルキドは二度クリスに電話したが、彼女は出なかった。それから少しして、クリスのほうから電話があった。着信履歴を見て電話してくれたのかと思ったら、そういうわけではないようだった。

「ノスコーラに人を送って調査させたのだが、全く想定外の事態になっていた」

 挨拶もそこそこに、クリスは一方的に話し始めた。

 ノスコーラの戦力状況などを探るために諜報員を送ったのだが、その戦力が壊滅状態にあった。その原因になったのが未確認の動物らしく、その動物の一部と見られる毒針を回収して調べてみたという。

「針はこれまで見つかっているどの動物のものでもないそうだ。現場にかなりの数残っていて、その一本一本に、人間の大人を優に殺せる毒が含まれているらしい」

「今、分析結果か何かの資料を見て話してますか?」

 受話器の向こうから紙をめくる音が聞こえたので、そうだと思った。ああ、とクリスは答える。

「資料に、毒の強さの記述はありますか? 具体的な数字で」

「数字? えっと……」

 少しの間、クリスは資料の中を探したようだが、わからないらしい。

「LD五十、あるいは半数致死量という項目がありますか?」

「LD……これかな? 五十は小さな数字で書いてある」

「それですね」

「〇・五から一・二ミリグラム毎キログラム。括弧書きで、注射、とある。おわかりか?」

「かなり強い毒ですね。確かに針一本で死に至りそうだ。俺の知るかぎり、その強さの毒を持った動物は存在しません。確かに、未知の動物の可能性が高いですね」

 クリスの唸り声が聞こえた。

「さらにその動物、非常に強力な刃物を持っていると思われる。大きく斬られた傷のある遺体、真っ二つにされた遺体もあったそうだ。……すまない、こんな話をして大丈夫だろうか」

「なんとか」

 想像はしてしまったが、話を続けられないほどではない。

「さらに、鋼鉄製の戦車などもかなり鮮やかに斬られていたそうだ。そんな刃物を持つ動物は聞いたことがない」

「俺もないですね」

「そして被害者の人数だが……よろしいだろうか」

 どうぞ、とエルキドは促す。

「情報が少ないのでかなり誤差はあるだろうが、ノスコーラで百万単位の死者が出ていると考えて間違いないそうだ」

 エルキドは気持ち悪くなった。気のせいか、吐き気すら感じる。

「被害に遭った、人間以外の動物はどの程度かわかりますか?」

「わからないが、多くの動物が殺された旨の報告は受けていないな。なぜだ?」

「未確認動物は、もしかしたら、人間だけを狙っているのかと想像してしまって。被害者の数を聞くまでもなく、軍を壊滅させたという時点で、普通の動物にはありえない話です」

「それは私も考えた。どんなに危険な有害鳥獣でも、人を襲うのは捕食や防衛のためだ。人間を殺すこと自体を目的にしている動物なんて、一種たりともない……はず」

 クリスは自身なさそうに言った。事実それは断言できることではなく、これの例外と言えそうな動物を、エルキドは知っている。

「被害の規模は違いますが、ライオンは、人を殺すこと自体を目的にしているみたいでした。ノスコーラ人に指示されているからではあるらしいけど」

「ライオンは、ノスコーラが造った生物兵器だったな。だから人を襲うことを目的としている……ということは」

「件の動物も、ノスコーラが造った兵器なのかもしれない」

 いや、まさか、そんな、といった言葉を、何度かクリスは呟いた。

「だが、だとしたらなぜノスコーラで暴れている?」

「アルによると、ノスコーラの技術では、遺伝子を操作してもどんな生物になるかはわからないそうです。想定外の怪物を造り出して、それが暴走してしまった、と考えるのが妥当では?」

「制御不能の未知の怪物が、隣の国で暴れているというのか……?」

 それは、その怪物がいつアルフレアに侵入してもおかしくないということだ。王にとってこれほど脅威なことはないだろう。

 クリスがこわばった声で礼を言ってから電話を切った後、ナナのことを話しそびれた、とエルキドは思った。とても話している雰囲気でも場合でもなかった。



 クリスや政府は、これまで混乱を恐れてライオンについて発表することを控えていた。だがついに発表に踏み切り、クリス自らテレビで説明をした。ライオンは英雄グラディアですら苦戦するほどで、強い者が狙われているようなので、戦闘に自信がある人ほど気をつけてほしいことを強調する。ライオンと遭遇しても安全に対処できるFQの基準は、百六十とされた。グラディアを大きく上回る、かなり無茶な数字だ。同時に、ノスコーラで謎の動物が暴れている旨も伝える。



 学校から家に帰ると、掃除機の駆動音が聞こえた。それに交じって、グレイスとミイの叫び声が聞こえてくる。またか、とエルキドは思った。普段おとなしいミイは、掃除機やドライヤーのような、うるさく唸る機械に対しては、殺意と言っていいほどの敵意を露わにする。起動させた掃除機に対しては、シャーッと威嚇したり本気の猫パンチを繰り出したりするので、グレイスは本気で困っている。ミイの横で掃除機を使えばどうなるかは明らかなのだが、グレイスは事前にミイを外に追い出すなどの措置を取らない。もしかして、そうすればいいことを思いつきもしないのだろうか、といまさらながらエルキドは思った。

 グレイスがミイと格闘しながら掃除をしている居間を覗く。

「誰だよ……」

 誰なのかは状況からもその顔からも明らかではあるのに、エルキドは思わず呟いてしまった。呟きは掃除機の音にかき消される。

 ミイと闘いながら掃除機を動かすグレイスには、髪の毛がない。スキンヘッドと言っていいくらいの丸刈りだ。グレイスはエルキドに気づくと、一度掃除機を止めた。ミイは、静かになった掃除機にも、激しい威嚇や攻撃を続ける。

「エルちゃん、何とかして。ミイちゃんが怖い」

「あの……髪の毛、どうしたのかな」

「髪の毛?」

 エルキドの見たところ、とぼけているような言い方や表情ではなかった。一瞬ではあるが本当に何の話かわからないようなそぶりを見せ、直後に自分の頭のことだと気づいた。

「切った」

「なんで?」

「なんでって……邪魔だったから」

 嘘をついたりごまかしたりしているようには見えなかったが、それが本当かどうか、エルキドには判断ができなかった。普段から、グレイスが相手ではその心中を読むことが困難なのだが、今日はいちだんとわけがわからない。

 ただでさえ、女性にとって髪の毛というのは軽んずることのできないものだ。増して黒い長髪であれば、命と同等の価値を持つものであってもおかしくはない。そんな髪の毛が、しかも長年付き合ってきたはずの髪の毛が、今になって邪魔になったということがありえるのだろうか。確かに今まで、誰もが憧れる黒の長髪を、見ているほうが怖くなるくらい無造作に扱ったり邪魔そうにしたりしているところを見てきてはいるが、まさかばっさり切ってしまうとは、エルキドでも想像もしていなかった。

「美容院の人、すんなり切ってくれた?」

 そんなわけない、と思いながらも聞いてみる。

「なんかいろいろ言われたり聞かれたりして、すぐ切ってくれなかった。床屋さんて、あんなに面倒くさかったっけ?」

 美容院、ではなく床屋の店員が気の毒になった。尻の下まで届くほどの黒い長髪を丸坊主にするという、恐ろしい仕事をいきなり押し付けられる心労は、察するに余りある。

「でもなんか、ただにしてくれたから得しちゃったけど」

「ただ?」

「切った髪の毛は持ち帰りますよねって聞かれたの。持ち帰るわけないじゃない、普通? だからいらないって答えたら、お代はいりませんって。よくわかんないけど」

 それは損しているんだよ、とは言わないでおいた。その髪の毛が数万キルクルスの価値を持っていることを説明するのには苦労するだろうから。

 ミイは、静かになった掃除機に、依然として敵愾心をむき出しにしている。エルちゃん、と泣きそうな顔ですがってくる丸刈り頭は、新鮮で滑稽だった。


 帰宅してグレイスを目にしたグラディアは、口を開けてしばらく立ち尽くした。声も出ないようだった。グレイスと違ってグラディアはわかりやすい。

「お帰りなさい」

「ああ」

屈託ない笑顔で迎えたグレイスに、かろうじて絞り出した声で答えることしかできない。

「どうかなさいました?」

そんなグラディアの様子がおかしいということくらいは思ったようで、グレイスはそう尋ねた。

「いや、べつに」

 なんとかそう答えて、グラディアはエルキドの服の袖を引っ張り、グレイスから少し離れたところに引き寄せた。

「どういうことだ、あれは? 私、何かしたか?」

「怒ってるわけじゃないと思うけど」

「思うというのはわからないということだろ? エルだって、グレイスのことだけはよくわからないって、普段から言ってるじゃないか」

 確かにその通りだが、それでも今のグレイスが何かに怒っているとはとても思えない。

「怒らせるような心当たりでも?」

「それは……」

 あれかな、いや、まさか、などと、グラディアはしばらく考え込んだ。

「私が昔、縮胸手術をしたと、いつか話したよな」

 エルキドはうなずいた。成人した際に、戦闘に邪魔な胸の脂肪を取ってしまったと、以前グラディアが話していた。

「グレイスには猛反対された」

「いつの話だよ」

「昔の話だからって、それを理由にグレイスが怒ることがないって、言い切れるか? 言い切れるのか?」

 そう言われると自信がなくなってくる。

「内緒話ですか?」

 そう言ってこちらを覗き込むグレイスは、少しだけ不機嫌さを露わにしている。この程度で不機嫌さを見せてくれるのに、丸刈りにするほどの怒りを隠しているとは、やはり思えない。

「いやその、グレイスさ」

 グラディアの表情は引きつっている。

「はい?」

「髪の毛、どうしたのかな?」

 グレイスの頭を指すグラディアの指は震えている。

「切りました」

「なんでかな?」

「邪魔だったからです。エルちゃんにも同じこと聞かれましたけど」

 グラディアはエルキドの顔を見た。エルキドはうなずく。

「最近、何か腹の立つことがあったか?」

 数秒、首をかしげて考える様子を見せる。考えている、という時点で、そんなに大きなことはなかったはずだ。……普通なら。

「……ありました」

「どんなことだ?」

「四十年目の青春のミランダが、すごく勝手な人なんです。ああいう人、許せない」

 グラディアは問うような目をエルキドに向ける。

「ドラマの話」

 グレイスの表情は真剣だが、事態は深刻でない。髪を切った理由とは関係なさそうだし、増してグラディアにとってやましい話ではない。

「じゃあなんで、髪を切ったんだ?」

 グラディアは声を潜めてエルキドに尋ねる。

「知らないよ。邪魔だからって本人が言ってるんだから、そうなんじゃないの?」

 そう思うしかなかった。


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