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フェイタルアクション  作者: きりたんぽ
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ラプラスの悪魔

 月次報告会にて、国内での先月の死亡者数についての報告を受ける。有害鳥獣の対策を強化したことで、確実に以前よりは減っているが、それでも決して少ないとは言えないその数字に、クリスは歯噛みする。

 有害鳥獣でも最悪とされるドラゴンによる死亡者数は、毎月のように三千人を超える。今月は四千三百四十人。やや多いがいつもとそんなに変わらない数字。しかしこれは、有害鳥獣を除けば最も多い死因になっているがんによる死亡者数の、三分の二以上にもなる数字だ。ドラゴンだけでその数字。すべての有害鳥獣による死者の数は、それ以外の原因による死亡者数を、毎月やや上回る。

 普通に考えて、人間は動物に食われるものだし、過去と比べて相当に改善されているこの現状についてクリスに文句を言う者は、国民にも官僚にも政治家にもまずいない。それでもクリスには納得がいっていない。人はどうして動物に殺されるのだろう、これをなくすことはできないのだろうかと、小さいころからずっと思っていた。ある程度勉強をして、ある程度成長した今なら、それは自然界のバランスを保つことになっているというのは、理屈では理解できる。それでもできることなら、人間を食うすべての動物を絶滅させてしまいたい。人類にその技術がないことが悔しくてたまらない。

 しかも今月は、これまでになかった報告を、クリスは受けてしまった。

「有害鳥獣による死者二万九千八十九人のうち五十二人が、その……ライオンによる被害者、との報告を受けています」

「ライオン……」

 図らずもどすをきかせた声を、クリスは出してしまった。死亡者数を報告する保健福祉大臣は言い淀んでいたし、そうでなくても言いにくい内容であることくらいは十分にわかる。保健福祉大臣が悪いわけではないので彼を責めるような雰囲気を作るべきでないことくらいはわかっているが、クリスには完璧な冷静さを保つことはできなかった。

「ライオンの目撃情報が初めて報告されたのがつい三週間ほど前だったか。それから間もなく、ライオンが一頭駆除されたのだったな。初めてそういうことがあった先月のうちに、五十二人もライオンに殺されていたと」

「先月、突然ライオンが国内に現れたのでしょうか」

「そんなことがありえるのだろうか」

 国内に現れたのは、外国人によって国外から持ち込まれたか、ライオン自身によって侵入されたため、という可能性を考える。しかし国内にしろ国外にしろ、そもそも絶滅したはずの動物が存在している時点でおかしい。それも、想定されているものをはるかに上回る力を持った状態で。

「恐れながら陛下」

 悩むクリスに、キーラが声をかける。

「ライオンの被害者については、もう一つ奇妙な事実が」

「まだ何かあるのか?」

 クリスの表情が困惑に歪む。

「ライオンの被害者は、不自然に戦闘能力の高い人物に偏っています。わかっているかぎり、被害者のFQはすべて百二十を超えています」

「どういうことだ。戦闘ができないほうがライオンから逃げられるのか」

「というより、戦闘ができない人がライオンに襲われたという報告がありません」

 単に報告がないだけ、ということではないだろう。それでは、ライオンは戦闘能力が高い人間を選択して襲っているとでも言うのだろうか。そういえば、ライオンを駆除した唯一の人物は英雄グラディアだ。彼女も、偶然ではなく、強いから必然的にライオンに狙われたのだろうか。

「ライオンについては、もう一つ大きな報告がございます。悪い報告ではございません」

 キーラは、クリスを慮ってそう前置きしてくれたようだ。最近のライオン関係の奇妙な事態に、クリスは辟易してしまっている。

「グラディア氏が、再びライオンに遭遇しました」

 え、とクリスは小さく声を上げた。五十二人が殺されているとはいえ、ライオンに遭遇した人間の数は、国民全体からするときわめて少数だ。ライオンに遭遇する人間は、今のところはめったにいないと言っていい。それなのに、同じ人間が偶然二度ライオンに遭遇するということがありえるのか。やはりライオンが意識して強い者を狙っていると考えたくなってしまう。

「その際グラディア氏は負傷しており、満足に対応できない状態だったのですが、同行していたご子息のエルキド君が、これに致命傷を与えて退けています。後日、二人の証言に一致する、目に剣の刺さったライオンの死体が発見されています」

「はあ?」

クリスは間の抜けた大きめな声を上げてしまった。

「失礼……しかしそれは、エルキドさんがライオンを駆除なさった、ということか?」

「そうなります。しかも、グラディア氏が全身に傷を負ってなんとか倒したのに対し、エルキド君は全くの無傷だったとか」

 めったに出会わないライオンに、グラディアが二度、その息子が一度出会ったという事実は偶然とは考えにくい。それがどういうことかは気になるものの、この謎はエルキドがライオンを殺したという事実によって、クリスの頭から払拭されてしまった。

 英雄グラディアをして、ドラゴンよりもずっと手強いと言わしめたライオン。おそらくSランク動物を除けば最強の有害鳥獣だろう。そのライオンを、英雄の息子とはいえ自分では戦闘が苦手だと言っていたエルキドが駆除してしまった。しかもグラディアよりも簡単に勝ってしまったらしい。以前にクリスは、エルキドは高い知能と何らかの異能の持ち主ではないかと想像したが、そうだとしたら今回の件は説明できるだろうか。異能については、まだ確認されていない種類の能力が半分以上、もしかしたら九割以上とも言われているので、わからないとしか言いようがない。

「エルキドさんとは、もう一度お会いしてみたいな」

「お会いになればいいじゃありませんか」

 隣席のアダムが言った。

「彼のお住まいはウィータだし、会いに行く時間が」

「王宮にお呼びすれば?」

「会いたいのはこちらなのだから、彼にご足労をおかけするのは筋が違う」

「陛下は妙なところで律儀ですね。こっちの都合で偉そうに傲慢不遜に王宮に呼び出せばいいんですよ、王様なんだから」

「そういうおっしゃり方をされると、ますます呼び出しにくくなる」

「では、来てほしいとお願いすればよろしい。エルキドさんも陛下のことがお好きなようでしたから、喜んで来てくれますよ。両想いですね、おめでとうございます」

 エルキドの態度を思い出してみるに、アダムの言うことは間違っていないだろう。時間ができたら彼に王宮に来るように頼んでみようと、クリスは思った。



 十時過ぎにグレイスがミイを連れて寝室へ行ってしまった後、グラディアがエルキドに、相談がある、と声をかけた。

「人を殺す旨の話だが、話をするくらいなら大丈夫か?」

 これまでもグラディアの仕事の相談にはよく乗っているし、その中には動物を殺す話はいくらでもあった。それでも改めて確認したのは、ヴェロキラプトルを殺すところを見ただけでエルキドがショックを受けてしまったからだろう。他種の動物を殺すことと、同種の人間を殺すことでは少し違う、ということもある。

 うなずいたエルキドに、グラディアは続けた。

「ラプラスの悪魔、というのを聞いたことがあるか?」

「ずいぶんとマニアックな言葉が出てきたな」

「やはりエルなら知っているのか」

「それがどうかした? 人を殺す話とか言ったよね」

「だからその、ラプラスの悪魔を殺すにはどうしたらいいか、という相談だ」

 エルキドはこめかみに立てた人差し指を当てて、数秒置いた。

「ラプラスの悪魔は、人間なのか?」

「そうらしいが」

「というより、実在するの?」

「ん?」

 え? は? と、少しの間噛み合わないやり取りが続いた。

「まずラプラスの悪魔という言葉に対して誤解がないか確認しようか」

 エルキドはまず前提として、決定論的な世界観について、簡単に話した。全宇宙を構成するすべての物質、あるいは素粒子について、ある時点でその位置と力学的な状態は一つに決まっているはずであり、それならば未来は、その時点の結果としてただ一つだけ存在するはずである。だとすれば宇宙の運命は、素粒子一個一個の詳細に至るまで完全に決まっているのではないか。以前学校で、ケイと話した内容だ。

「そのすべての素粒子……物質でもいいんだが、その状態を完璧に知り、かつ解析することで森羅万象の過去、現在、未来のすべてを知ることができる存在がいるとして、それをラプラスの悪魔と呼ぶという、あくまで仮定の話なんだが」

「確かにそんなような説明を受けたが、仮定の話なのか? 少し話が違うな」

「仮定でなく、ラプラスの悪魔が実在するから殺してくれと頼まれたの?」

「そういうことだ」

「実在するという話は初めて聞いた。正直、実在する可能性を考えたこともなかった」

「エルのくせにか? 人間の異能には、まだまだ未知のものがあると言われているだろ」

「それにしたって、ラプラスの悪魔っていうのは、人間の持つ能力としてはあまりにも強力すぎる。ほかの異能とはまったく違う」

 グラディアは腕を組んで考えるしぐさを見せた。

「殺しを頼まれたってことは、刺客をしていた関係?」

「ああ、保安省からだ。だが元は王の勅命らしい。言い忘れていたが、極秘。口外無用な」

 クリスが刺客を使うようなことをするだろうか、とエルキドは考えた。彼女は極力使うまいとすると思うのだが、ラプラスの悪魔が相手なら使ってもおかしくはない。本当に相手がラプラスの悪魔なら。

「目標は確かにラプラスの悪魔なのか? そこ、かなり怪しいんだけど」

「確かじゃないが、可能性があるだけで殺さないとまずいって。ただ、その可能性はかなり高いらしい。目標の人物の関係者の証言や、ウェブの保安省のページへの信憑性の高い書き込み、それらを元にした調査なんかが判断材料だと」

「母さんはもう刺客じゃないのに」

「ほかにできそうな人間がいないとか。私より強い人間が国内にいないわけではなかろうが、国が極秘裏に依頼できる中で最強なのが私らしい。しかし考えたんだが、私にもどうやっても無理なんじゃないかと思ってな。向こうは、すべてを知ってるんだろ? ならこっちが暗殺を依頼されたことももう知ってるんだろ?」

「相手が本当にラプラスの悪魔なら、そうだな。今ここで話している内容も完璧に知られているだろうし、この先どんな暗殺計画を立てようと、今の時点で、それどころか今よりもずっと前から知っていたことになるだろうな」

「殺そうと思って近づけば、それを察して逃げられるよな」

「と言うより、いつ母さんがどの位置に移動するかも、委細すでに知っていることになる」

「近づかないと殺せないし、近づかないで殺す方法があるとしても、それは相手に知られる」

 エルキドはうなずいた。

「こっちの手の内が完璧に知られていても相手を殺せる方法を、考えてくれ」

「それは冗談として受け流しておこう」

 グラディアは、エルキドならそういう方法を思いつくかもしれないと、半分以上本気で言ったようだった。だがさすがに無茶な問題だ。

「やっぱり、どうやっても絶対に不可能なんだろうか。それどころか、殺そうとするだけでこっちの身が危ないか。向こうは、私を殺す手段だって知ってるかもしれないんだよな」

 エルキドは少しの間考えてから、言った。

「殺そうとしてもしなくても変わらないと思う。と言うより、母さんがこの先殺そうとするかどうかは予め決まっていて、向こうはそれを予め知っているはずだ。母さんがこの先殺そうとすることになっていて、かつこちらが殺そうとすれば向こうがこちらを殺そうとするのであれば、母さんはとっくに殺されているはずだ」

 エルキドの話を聞くうち、グラディアは頭を抱え込んでいた。

「すまん、ついていけなくなってきた」

「要するに、この先母さんがラプラスの悪魔の命を狙うことで、母さんのほうが狙われるおそれは、ほとんどないと言っていい。向こうとしては、死を確実に回避する道を最初から知っているのだから、母さんを殺す必要がない」

「そういうことになるのか。では結局、私が暗殺を成功させることも、絶対に不可能ということか」

「絶対と言うと少し……」

「手があるのか?」

「手というか、可能性が。かなり限定的なんだけど」

 うん、とグラディアはうなずいた。

「目標が、自殺する意思はないものの、生きる意志が弱いとか死の願望が強いとかの理由で、誰かが自分を殺そうとしているのならそれに逆らうまいとしていること。つまり目標が母さんに殺されるのを待っている、という条件の下なら、殺すことは可能だろう」

「確かに限定的だな。まあ、可能性ゼロではないか」

 もう一つ、とエルキドは言った。

「目標が、想定されているラプラスの悪魔ほど全知ではないが、政府にとって危険な人智を超えた知識を持っていて、かつその知識の中にこちらを完全に看破するほどのものが含まれていないなら、殺すことに意味と可能性はある。ただしこの場合、向こうが確実に安全ではないため、こちらも狙われる可能性が出てくる」

「なるほど、期待できる可能性とは言えないが、それもありえない話ではないな」

 殺そうとすることでこちらが危なくなる可能性もわずかとはいえ出てきてしまった。それと同じくらいわずかな可能性だが、殺せる可能性もなくはない。この場合、保安省から依頼された以上、できる限りのことはしなければならない。国家公務員としてということもあるし、現保安大臣のキーラは、昔グラディアがよくしてもらった恩人であるということもある。

「やはりエルは頼りになるな。相談してよかった」

「あまり役に立てたとは思えないな、今回は」

 グラディアは笑顔で首を横に振る。

「いや、十分に参考になったよ」

 暗殺の計画を考えてみようと、グラディアはパソコンの電源を入れた。

「話の途中だったから流したんだけど、依頼してきたのは保安省だったよな」

「ああ」

「母さんを撃った狙撃手は、保安省の手の者じゃなかったのかな」

「あ、忘れてた」

「忘れるか、そういうこと」

「まあ、話を聞いたときには、殺意みたいなのは感じられなかったぞ」

 エルキドは、保安省に対する疑念を消しきれていなかった。もしかしたらグラディアを暗殺する手段としてラプラスの悪魔にぶつけようとしているのではないかという考えすら浮かんだ。だが相手が本当にラプラスの悪魔でも、グラディアが殺される結果になる可能性は低い。ラプラスの悪魔と保安省が手を組んでいるのだとしたら、こんな回りくどい方法を使う必要はない。保安省に、グラディアに対する殺意はないと考えるのが、自然であった。



 休日の午後、グレイスが外出していてエルキドとグラディアが二人きりのとき、インターホンが鳴った。部屋で調べ物をしていたエルキドが玄関まで出て行き、扉を開ける。やってきたのは、小豆色の髪の毛をした小学生くらいの少年であった。少年は礼儀正しく一礼する。少年が何かを言う前に、トイレから出てきたらしいグラディアが玄関まで来る。

「アルバート・オムニスキ」

 グラディアが低い声で彼の名を呟く。エルキドは振り返ってグラディアの顔を見る。その表情は引きつっている。グラディアはエルキドに近づいて、言った。

「暗殺を依頼された目標だ」

 ラプラスの悪魔と目される人物、ということだ。

「アルでいいです。はじめまして、エルキドさんに、グラディアさん」

 グラディアは有名だからその名前を知っているのは自然だが、エルキドについてはそうではない。とはいえ調べるのは簡単だし、このことはラプラスの悪魔かどうかを判断する材料にはならない。

「僕は確かにラプラスの悪魔で、グラディアさんが僕を暗殺する依頼を受けていることも知っています。僕にはあなたがたへ対する悪意や敵意や殺意はありません。僕の能力については話していくうちにわかってもらえるので無理に証明はしません」

 まだラプラスの悪魔であるかどうかはわからないが、今の発言は、ラプラスの悪魔でない小学生には非常に難しいだろうと、エルキドは思った。ラプラスの悪魔という言葉自体、知っている人はあまりいないのだ。誰かに教えてもらったとしても、少し頭のいい小学生にきちんと飲み込める概念ではない。

「一つ、質問をしていいだろうか」

 エルキドが聞いた。

「どうぞ」

「うちの昨日の夕飯は?」

「天ぷらでした。きすにいか、かぼちゃとまいたけ、さつまいも、なすに……いちごとチョコレートと、アイスクリーム。ほかは美味しかったのに、いちごは残念でしたね」

 完璧な回答であった。気になったのは、ラプラスの悪魔であれば、エルキドが質問する前から質問の内容を知っていたのではないか、それなら質問の内容を聞く前に答えられたのではないか、ということだ。だがそれは、質問をする前から答えるのは感じが悪い、あるいは会話のテンポを乱すと判断した、と考えられる。また、グラディアにはわけのわからない話になってしまうためでもあるだろう。

「お話があって伺ったのですが、上げてもらってもよろしいでしょうか」

 これは質問というよりは挨拶だ。ラプラスの悪魔として不自然な言動ではない。

「いいよな、母さん」

 エルキドはグラディアに確認したが、グラディアは表情を固めたまま何も言わなかった。エルキドは構わず、どうぞ、と答える。

「悪意ではなくお仕事なので、僕を殺そうとするのは構いませんが、絶対に成功しないことを先に断っておきます」

 アルはグラディアの横を通る際に言った。言われた直後、グラディアは最小の動きと最短のタイミングで、アルに対して全力の正拳突きを放った。小学生を即死させるのに十分な威力の正拳。アルはこれを、顔色一つ変えずに最小の動きで避けた。避けた後、グラディアの拳とアルの顔は、触れるか触れないかの位置関係にあった。

 エルキドは立ち止まってこれを見たが、表情を変えずにすぐに歩き出す。

「知ってるだろうがこっちが居間だ。ついてきてくれ。母さんもな。話、聞くだろ」


 エルキドはグレイスが大事に溜め込んでいる大量のおやつの一部を、彼女に無断でアルに出した。スナック菓子やチョコレート、ジャム入りマシュマロ、それにりんごのジュースを三人分。エルキドがこれを用意する間、グラディアは険しい表情でアルを睨んでいたようだった。

「悪いな。今日の母さん、機嫌悪いんだ。知ってるだろうが」

 アルはうなずいた。

「グラディアさんはまだ僕のことをあまり正確にわかっていらっしゃらないので今の時点では気休めにしかなりませんが、この先あなたが奥様に捨てられることはありません」

 グラディアが少し目を見開いてアルを見る。

「グレイスさんにはたくさん好きな人がいるらしいのでこういうことはなくならないと思いますが」

 エルキドはアルの言葉に違和感を覚えたが、口を挟むのはやめておいた。

「一番好きなのはグラディアさんです。だから結婚したんです」

 うん、とエルキドはうなずく。

「だが、こういうことはなくならない、という予言は母さんには酷じゃないのか。俺もそうだとは思っていたが、はっきり言ったことはなかった」

「確かにそうです。でもいつかはなくなるかもしれないと思いながら悶々と過ごすほうが、長い目で見れば苦痛は大きいんです。それに捨てられる不安を払拭することができれば、そのことは酷な予言を相殺して少し余ります。それが実現するのは、グラディアさんが僕の能力を理解してくれてからなので、もう少し先になりますが」

 怖いくらいに計算された言動だ。しかもその計算は、相手の気持ちや状況を計算したのではなく、物理的な計算をした、ということになるのだろう。ラプラスの悪魔の能力が、想定されている通りのものであるとすれば、であるが。

「少し話が逸れました。今日伺ったのは、グラディアさんを少し安心させることが目的ではないんです」

「そうだろうな」

「目的の一つは僕を殺すことは不可能だとわかってもらうことです。恩着せがましいようですが、これはこちらの安全を確保するためではなく、グラディアさんに無駄な努力をさせないためです」

「そちらの安全は最初から確保されているだろうからな」

 アルはうなずいて、続けた。

「ただこれはついでです。本題は、ライオンとノスコーラの件です」

「ライオン?」

「ノスコーラ?」

 グラディアとエルキドが順に、気になった単語を口にした。

 ノスコーラはアルフレアのすぐ隣に位置しながら、その国情がほとんどつかめない国だ。ノスコーラはほかのどの国とも関わりを持とうとしないようで、少なくともアルフレアからこの国への情報の出入りは全くと言っていいほどない。不気味ではあるが、どこかの国がノスコーラによる害を被ったという前例はないため、どの国も放置しているようだ。

「ライオンは、ノスコーラが遺伝子に多少の操作を加えつつ骨から再生させた、生物兵器と言うべき存在です。アルフレア内の強力な戦士を狙って殺しています」

 想像はしたもののまさかと思って否定したエルキドの考えだった。そんな技術はどこにもありえないとは思ったが、外部との接触を()っているノスコーラが秘密裏に確立させていたとすれば、絶対にありえないとは言えない。外部から学ぶことなしに技術を発展させることは困難ではあろうが、よほど環境や人材や運に恵まれたのだろう。

「ではノスコーラは、生物の遺伝子を自在に編集する術を持っているのか?」

 だとしたらとんでもないことだ。アルフレアに対して悪意を持つらしい国が、思いのままの生物を作り上げることができることになる。どの程度まで可能かは想像がつかないが、少なくともライオンよりもはるかに強力で凶暴な生物を作ることは容易だろう。

「いえ、さすがに自在にというわけには。塩基配列の意味の解読もほとんどできていませんし、遺伝子をいじってどうなるかというのは、現時点ではラプラスの悪魔でもなければ誰にも正確にはわからないんです。ライオンが極端に強く、かつ人が飼い慣らして指示に従うようにできたのは、ノスコーラにとって幸運でした」

「幸運と言うが……ノスコーラがアルフレアでそのような殺戮を行う理由は? あの国は何を考えている?」

「そこが最も重要な点です。ノスコーラは、アルフレアに対し戦争を仕掛けるつもりでいます」

 せんそう、とグラディアが口にした。聞き慣れない言葉だ。

「戦争とは、国などの、人間の集団同士の戦いのことを指します。千年前のホロコースト以前には、稀に行われていました」

「ホロコースト以前の歴史についてはほとんど謎だから、俺たちはその戦争というものを全く知らない。だが、ろくなことになりそうにないことくらいは想像できるな」

「はい、ろくなものではありません。それどころか、人間の行いの中で最悪の部類に入ります。それは、単に人と人とが殺し合うというだけに留まらない、本当に悲惨な結果を生みます」

「私にはわからない」

 グラディアは首を横に振る。

「国が国を挙げて他国の人間を全力で殺しにかかるということだろう? そもそもそんなことが可能なのか? どこかのとんちきがそうしようとしても、国内の多くの人間が反対するだろう。この国みたいに君主の権力が大きい国で、君主が戦争をすると言い出しても、周囲の多くに反発されてまで強行できんだろう。仮に他国を攻める状況に持っていっても、戦争を仕掛けた相手の国はもちろん、ほかのすべての国に叩かれるんじゃないのか?」

「俺もそう思う」

 エルキドには珍しく、グラディア以上の意見は出なかった。戦争というのが全く未知の事態だからだ。

「この国以上に君主の力が強く、ほかの誰も絶対に逆らえない状況を作り上げている国があります。実は、今のノスコーラがそうです」

「ノスコーラの君主……皇帝が、その権力をもって戦争をすると我を通しているのか。それは、いったい何のためなんだ?」

「アルフレアを攻める目的は、アルフレアの資源、技術、人材、土地、そして何より主権を自分のものにするためです。その被害国あるいは地域は、昔の言葉で植民地と呼ばれます。そうして得たものを、次の戦争への足がかりとし、最終的には全世界をノスコーラの支配下に置くことを目標としています」

 どういうことかと、エルキドは首をかしげる。

「国ひとつの面倒を見るというのは大変なことだ。クリスさんの苦労を考えるまでもない。なのにノスコーラは、そんな乱暴な真似をして、最終的に全世界の面倒を見ようというのか?」

 善意とは思えないが、善意だとしても甚だしいありがた迷惑だ。

「皇帝が人の上に立ちたがっているだけです。全世界の人間を自分の所有物にして、自分が一番偉くなりたいだけです。人々の幸福や文化的な暮らしを保証しようなんて殊勝な気持ちは、毛頭ありません」

 それは、絶対に君主になってはならない人間ではないだろうか。アルフレアの先王が名君に思えてくる。

「とにかく戦争は絶対に避けたいんです。そこでグラディアさんにお願いなんですが、ノスコーラが戦争を仕掛けようとしている旨、保安省を通して国に伝えてほしいんです」

「そうすれば、戦争を阻止できる可能性があるのか?」

「と言うより、そうすれば絶対に阻止できるんだろ?」

 未来を完全に知ることのできるアルが、戦争の阻止を望んでここに話をしに来たということは、そうすることで戦争を阻止できるということだ。ラプラスの悪魔の最も驚異的な業は、おそらくそれであった。

「さすがエルキドさんですね。驚異的な理解力です」

 驚異的という本人の言葉どおり、アルは、わずかにだがおどろいているように見えた。彼がおどろくというのはかなりおかしい。

「もう一つグラディアさんにお願いですが、僕がこの力を使って国をどうこうしようとは考えていないことも、ついでに伝えていただけますか。これは簡単には信じてもらえないので気休めにしかなりませんが」

「わかった。ラプラスの悪魔暗殺失敗の報告と一緒に、確かに伝えておく」

「よろしくお願いします」

 アルは礼儀正しく頭を下げた。

「なあアル。俺はあんたの力にかなり興味があるんだが、あんたの力は、今俺が想像している通りと思っていいのかな。さっきから、若干の違和感があるものだから」

 アルは首をかしげた。それだ、とエルキドが指差す。

「とても全知とは思えない言動が時々ある。さっきから見ていると、俺やママさんのことになると、あいまいな表現が出てくるように感じるのだが」

 アルは、今度ははっきりと目を丸くした上に口を開いた。

「本当に、とんでもない洞察力ですね。心を読まれているみたいです」

「どういうことだ」

「実は僕は、全知ではありません。基本的にラプラスの悪魔の能力は、保安省や、おそらくあなたが把握しているものなのですが、例外があるんです」

 おそらく。またあいまいな表現が出てきた。

「エルキドさんの読み通り、その例外というのがエルキドさんとグレイスさんです。多くはありませんがほかにも同様の人間がいて、実は僕自身もその例外なんです。例外については、たとえば名前や顔や能力や基本的なものの考え方などある程度のことはわかるのですが、完全にその人について知ることができないんです。例外の人間とそうでない人間で、根本的に何が違うのかはわかりません」

「だが、何らかの違いがあるはずだな」

「はい。そしてその例外の条件である何かは、どうやら遺伝するようです。例外の子が例外でないケースはありますが、例外の両親がどちらも例外でないことはないようです」

 グレイスとその息子のエルキドがどちらも例外であることは、偶然ではないらしい。

「それとこの例外、初めて発生したのはホロコーストの頃なんです。それ以前の宇宙については、すべてを正確に知ることができます」

 ホロコーストには謎が多い。そこには、ラプラスの悪魔ですら知りえないことがあるようだ。



 キーラはラプラスの悪魔の件を、王に奏上せずに片付けたかった。ラプラスの悪魔の存在を知れば、彼女だって悩んだ末に暗殺を決断せざるを得なかっただろう。それが十歳の子供であることもあり、彼女はものすごく悩んだに違いない。彼女にそのような心痛を味わわせたくはなかった。事を終えた後に報告し、すべての責めを自分が負えばいいと思っていた。

 だがグラディアから、ラプラスの悪魔と接触したこと、彼を殺すことは不可能だということを報告されてしまった。これを王に報告しないわけにはいかない。キーラは王の執務室で二人きりで会ってもらい、事情をすべて話した。

「急な話でラプラスの悪魔がどの程度危険なのかいまいち飲み込めないが、たとえば今ここで話していることを含め、王室や政府の機密などもすべて知られているということだな」

 王は、ラプラスの悪魔の実在可能性に関する報告書を繰りながら言った。その声は普段より低い。

「そうなります」

「確かに危険な存在だ。あなたが暗殺を決意なさったいきさつはよくわかったし、私も同じ決断をしていたかもしれない」

 キーラは目を伏せがちにして聞いている。

「だが、これは問題だ。あなたの態度から察するに、ご自分のなさったことの重大さは理解していらっしゃるようだからわざわざ申し上げたくはないのだが、あなたはとんでもない罪を犯された」

 声を荒げはしないものの、明らかに王は激怒している。

「はい。私は保安大臣の立場を利用して、罪のない国民を私の事情で殺そうとしました」

 キーラの事情とは、王を悩ませたくないということだ。保安大臣が勝手にやって王が後から知ったかたちになれば、王が強く非難されることはない。せいぜい管理能力を問われる程度だろう。王が責任を保安大臣に(なす)り付けたと邪推する者もいるだろうが、クリスには名君のイメージが定着しているので、その人数は少ないだろう。

「しかも暗殺を依頼したグラディア氏には、陛下の勅命と偽りました」

 この事実を伝えておけば、グラディアが罪に問われる心配はない。

「その嘘がどれほどのものかも、もちろん理解していらっしゃるのだな?」

 はい、と呟くような返事をしてキーラは一歩下がり、床に両手と額をつけた。

「謝罪の言葉もございません。言うまでもなく、どのような罰も覚悟しております」

「お顔を上げていただけるか」

 キーラは動かない。王が同じ言葉をもう一度繰り返すと、キーラはその言葉に従った。

「あなたが私を思ってくださっていることは、わかっているつもりだ。今回のことも、私のためにしてくださったのだろう。実際、ラプラスの悪魔の存在の可能性だけを知らされていたら、私は困っただろうな。だから個人的な感情としては咎めたくない。だがどうしてもそういうわけにはいかない」

「はい。当然と存じます」

「順当にいけばおそらく死刑に相当するが、私はあなたに死んでいただきたくないし、大臣も辞めていただきたくない」

 予想外のうれしい言葉。

「しかし、そういうわけには……」

「一晩、考えさせていただきたい。相当に厳しい処分を覚悟していてくれ。本意ではないが、罷免や死刑の可能性も当然まだある。恐怖を長引かせるようで申し訳ないのだが」

「いえ、それも当然の罰のうちと存じます」

 筋を通す王が、私情でお咎めなしとすることは考えらない。それにキーラのしたことは、少なくともグラディアとラプラスの悪魔、もしかしたらグラディアの家族などの周囲の人間にも知られているかもしれないので、ここだけの秘密にするのも危険だ。キーラのした事を発表して彼女に厳罰を与える以外の道はありえない。



 振り上げられた執行吏の腕が振り下ろされる。鞭が空を切り裂く音に続き、肉を打つ音と悲鳴が響く。生でなくテレビを通しているのに、エルキドにとってその光景は、正視するのが困難なものであった。全裸でうつ伏せに固定されたキーラの背、尻、脚を、何度も鞭が打ちつけ、切り裂く。一発ごとにその傷跡は確実にキーラの肌に刻み付けられ、三十発前後から出血が、五十発前後から流血が始まった。

「怖いよう」

 グレイスは執行が始まってから間もなく泣き出してしまい、グラディアにしがみつきながらもなんとか見続けている。エルキドは恐怖感とか嫌悪感とか吐き気とか、いろいろなものに襲われながら、なんとか見続けている。表情を歪ませながらも平然としていられるのは、この家ではグラディアだけなのだが、彼女のほうが多数派だ。

 先王のころは公開で身体刑を行うことはそんなに珍しくはなかったが、エルキドやグレイスがそういう光景に弱いことはわかっているので、あえて見ることはなかった。今回はクリスが即位して以来、初の公開鞭打ち刑であり、恐ろしいながらもエルキドは興味があった。だが何よりも、グラディアが大きく関わった事件なので、エルキドとしてもグレイスとしても、無視することはできない。

「やめるか?」

 グラディアはあまりにも怯える二人を見て、テレビのリモコンを構えた。エルキドは首を横に振った。他人事ではないのだ。目を逸らすべきではない。

「私も、似たような罰を受けるかもしれないからな」

「いや、それはないと思う」

 エルキドは言葉をしぼり出す。

「母さんは王の勅命だって言われてたんだろ。なら非はない。むしろそれに従わなかったほうが、罪に問われる可能性が高い。クリスさんは筋を通すから」

「まさかキーラさん、そういうことを考えて、使いに勅命だって偽らせたのかな」

「キーラさんとは仲よかったんだろ。たぶんそうだよ」

 鞭の回数を重ねるごとに、刑の残酷さは増していく。キーラの背や尻は血まみれになり、肉を覗かせていた。そんな肉体に、鞭は容赦しない。気絶したわけではないのに悲鳴は聞こえなくなっている。マイクには拾われていないが、彼女の口から悲鳴になりそこなった空気が漏れているのが、エルキドにはわかった。

 エルキドは歯を食いしばり、一度固く目を閉じてしまった。鞭の数発を見逃すが、それからなんとか目を開く。

 どうしてこんなに弱いのだろう、と自分で思う。アニメやドラマの残酷なシーンは平気なのに、偽りでない苦痛や死にはあまりにも弱い。この弱ささえなければ積極的に体を鍛えただろうし、そうすればグラディア以上の戦力として国民を守ることができたかもしれないのに。

「クリスさんはなんで、こんな刑罰を決めたんだろうな。今まで無駄に残酷なことは絶対にしようとしなかったのに。キーラさんはクリスさんに気に入られていると思っていたんだが」

「だからだよ」

「だから?」

「これを見てキーラさんに同情しない国民はほとんどいないだろ。その後にキーラさんに辞めろと言う国民は少ない。少なくとも、こういう残酷な場面を見せつけない場合と比べれば、確実に減る。ラプラスの悪魔について公表するわけにはいかないし、詳しい事情を説明しないでキーラさんが非難されないようにするには、こうやってごまかすしかないんだ」

「これ、キーラさんに大臣を続けさせるための作戦なのか?」

 小柄なキーラに百回の鞭打ちというのはかなり酷だが、素手でCランク動物を倒せると言われる彼女の体力なら、おそらく死に至ることはない。百という、鞭の数として十分にどすのきいている数字も、少年のような一見か弱い体への凄惨な暴力も、計算されてのことだろう。



 普段の彼女の立ち居振る舞いからは想像が難しいほどの乱暴さで会議室の扉を開けたナナは、これまた普段の言動からは想像が難しいほどの不躾さでクリスに、お話があります、と声をかけた。

「会議中なのだが」

 ナナにはありない行動に戸惑いながらもそう返すが、ナナは引こうとしない。

「お話があります」

 ナナはもう一度言った。

 数秒彼女の目を見たクリスは、会議の出席者たちに、申し訳ないと声をかけ、会議室を出た。ナナは無言で歩き出し、クリスはその後をついていく。ナナの自室まで連れていかれ、クリスが部屋に入ると、ナナは乱暴に扉を閉めた。それからナナはしばらく言葉を発しなかったが、クリスのほうから声をかけることはできなかった。実際の何倍にも感じられた短くて長い沈黙の後、ナナが口を開く。

「……どうしてですか」

 かろうじて聞き取れるほどの微かな声。クリスが聞き返そうとすると、ナナは突然声を荒げた。

「どうしてあのようなことを認めたのですか!」

 結婚してから、いや、彼女と知り合ってから、一度も見せたことのない怒りようだ。

「キーラさんのことで、怒っているのか?」

 キーラの処分については、ナナには秘密にしてあった。ナナは、珍しいくらいに他者の痛みに敏感だからだ。赤の他人はおろか、人間以外の動物ですら、傷つけたり殺したりすることに拒否反応を示す。増して親しい人間が鞭で切り裂かれる場面を見てしまえば、どうなるかわからない。だから直接見せずに、刑の執行が終わってから彼女に話すつもりでいた。まだ話せていなかったのだが、どこからか彼女は知ってしまったらしい。

「不勉強ながら、ああいうことの決定にはクリス様の許可が必要ということくらいは存じています。お認めになったんですよね」

 クリスはナナから目を逸らさず、首を横に振った。

「認めたのではなく、私が決めた」

 ドラゴンより恐ろしい獣を見るような目を、ナナは自分の主人に向けた。

「……なんということを」

「君には今夜にでも話すつもりだったが、どうして知ってしまったんだ?」

「部屋のテレビで見ました」

 クリスは軽く舌打ちをした。ナナのことは、何も知らせずに部屋から出さないようにしておけばいいと思ったのは、あまりにも迂闊だった。彼女は人から聞いたのではなく、鞭打ちの場面を目の当たりにしてしまったのだ。

「あれだけクリス様に尽くしていらっしゃったキーラさんを、私が少し嫉妬してしまうくらいに気に入っていらしたキーラさんを、どうしてあのような目に遭わせたのですか」

「どこまで聞いているのか知らないが、彼女は罪を犯したんだ。国家権力を用いて罪のない国民を殺そうとした」

「あの方がそんなことをなさるわけがないじゃないですか。なにかの間違いです」

「そうするだけの事情が……」

「仮に事情があってなさったなら、それを考慮するべきじゃないのですか」

「だが罪は裁かなければならないし、そうすることで国民の同情を……」

「わけがわかりません」

 ここまでナナがクリスの話を聞かないのも、初めてのことだ。それどころか彼女がクリスの言葉を遮るのさえ、クリスが覚えているかぎり初めてのことだ。

「クリス様はお父様とは違うと思っていたのに、同じような事をなさるなんて」

「なに?」

 最愛のナナの言葉とはいえ、父が安易に行っていた身体刑と今回のことを一緒にされては、さすがに腹が立つ。

「私は彼女を心から信頼しているし、彼女にはできるかぎり私を助けてもらいたいと思っている。そのために必要不可欠な処置だったし、そのことは彼女もわかっていて、喜んで受け入れてくれた。仮にも王妃なら、見た目の痛みに翻弄されて、王と臣下の信頼関係をむやみに疑うような言動は慎んでもらいたい」

 あまりに説明不足だということを自覚しながら、クリスはそう捲くし立てた。案の定、ナナは言葉の意味を飲み込めていないような表情を見せたのだが、意外にもこれに言い返した。

「クリス様はキーラさんのような目に遭っていないからそんなことを言えるんです。私はここに来たことを、今日ほど後悔したことはありません」

「では、私が鞭打たれればよいのか」

 ナナの目が丸く開かれていく。歯を食いしばる。

「それで君が納得するなら、私は構わない」

「ばか!」

 ナナは大声で叫んだ。それから部屋の扉を空け、呆気に取られるクリスを力ずくで追い出し、扉を閉めてしまった。ナナが部屋の扉に鍵をかける音と、心の扉に鍵をかける音が、同時に聞こえた。



 キーラの受刑を見た翌日、目が覚めると呼吸がやや乱れていた。よくない夢を見たようだ。一晩経っても、ショックはほとんど和らいでいない。体が重く、学校を休もうかと思ったくらいだが、なんとか体が動くので行くことにした。家を出てから、学校なんて頑張って行くようなところではなかったな、と思い直すが、引き返すことはしなかった。

 授業中はぼんやりしていて、いつものように落書きをすることもなく、ただ教師の話を聞いていた。教師の話の内容は理解できるが、それ以外の事をほとんど考えなかった。明らかに無気力なエルキドを狙って指名する教師もいたが、質問に対しては、無気力にも完璧な回答を返した。

 休み時間に、ケイが話しかけてきた。

「放課後、時間あるかな。量子力学というのについて、教えてほしいんだけど。相対性理論と同じくらい、大事なんだよね」

 いかにもエルキドの好きそうな話題を持ち出したのは、明らかに落ち込んでいるエルキドに対し、気を遣ってくれたためのようだ。

「すまないが、また今度にしてくれ。今日は無理だ。全然頭が回らない」

「何かできることがあったら言ってね。私、何でもするから」

 ケイはそう言って、大人しくいなくなってくれた。聡明な気遣いがありがたかった。


 エル君のことが好きなの、とカタリナは言った。そろそろ来るころだとは思っていたが、キーラの受刑を見た翌日というのはあまりにもタイミングが悪かった。いつものようには頭が回らず、適切な対応が思いつかない。カタリナは続けた。

「エル君が一緒にいてくれたら、受験勉強も頑張れると思うんだ。それにエル君、難関大学じゃなくて近い大学に行く気なんでしょ。ウィータ大とかだったら、私でもなんとかなると思うし、一緒の大学に行ければ」

「大学はそういう選び方をするものじゃない」

 いらついた声を出してしまう。

「そうかもしれないけど」

「あんたがウィータ大に行くことについてはとやかく言わん。だが俺がウィータ大に行くかどうかはわからんし、行ったとしてもあんたと特別に親しくする予定はない」

「そんな言い方……」

 エルキドは後悔した。傷や痛みに弱いエルキドは、自らつけたカタリナの傷に苦しむ。こんな失敗をするなんてどうかしている。

「すまん、失言だった」

 素直に謝るしかなかった。

「好意についてはありがたく受け止めるし、あんたは俺の大事な友人の一人だ。決して傷ついてほしくないし、長く幸せに生き続けてほしいと思っているが、俺がそのために役立てることは多くない。申し訳ないが」

 エルキドの言葉を聞いて、カタリナは少し考える。

「今、私ふられたんだよね。言い方が回りくどくてわかりにくかった」

「すまない。今日の俺は調子がよくない」

「見ればわかるよ。でもちょっとうれしかった。幸せになって見返してあげるからね」

「いまいち俺の言葉が伝わっていないらしいな。それは俺を見返すのではなく、喜ばせる結果を生むんだ」

 エルキドは、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。


 一緒に帰ってもいいですか、と放課後にはるばるエルキドのクラスまで来たレックスに言われた。できれば断りたかったのだが、単に一緒に帰るだけのことを断るのに十分な理由がなかった。

 レックスは登下校時、生徒全員が使っている教材の剣のほかに、愛用の狙撃銃を持ち歩いている。帰路で彼はこの狙撃銃や、数種類の特殊な銃弾を見せて自慢したが、エルキドはあまり聞く気にならなかった。エルキドは、生物を殺傷する事を目的として作られた武器や兵器というものはおおむね嫌いなのだが、その物理的あるいは化学的な振る舞いについては考察する価値があると思っている。そのため普段は、レックスの自慢に対して部分的に興味を示すのだが、今日は例外であった。

「先輩、今日はノリが悪いですね」

「自覚してる」

「どこか寄りましょうか。僕、おごりますよ。最近また賞金が入ったので」

 エルキドはレックスに悟られない程度に、表情を曇らせた。

「いくら入った?」

「十一万二千キルクルスです」

 賞金額が八千の倍数であることから、駆除した動物はステルンベルギであると思われた。案の定レックスは、ステルンベルギを獲りました、と続けた。十四羽のステルンベルギが撃ち落される様子を想像してしまう。レックスは決して悪い事をしているわけではなく、それどころか高校生でありながら国民の安全に貢献しているのだが、エルキドには彼を褒め称えることはできない。ステルンベルギは生きた人間の肉をついばんで持っていくような鳥なのだが、それでもその死を喜ぶことができない。こんな自分は人間としておかしいとは思う。

「一度ネクベトゥスを獲ってみたいんですよね。一羽で十三万っていうもの魅力ですけど、何より箔がつきます。僕の力じゃ、まだ無理ですかね?」

「あんたの腕なら不可能ではないと思う。少々危険だが」

 勧めたくはないが、嘘をつきたくもない。

「ただ……あまり稼ぎすぎると確定申告が必要になる」

 精一杯の言い訳だ。無意味なことはわかっている。

「大丈夫です。去年も一昨年もやってますから。今年もすでに確定申告は確定してますし」

 レックスが本気でネクベトゥスを獲ろうとしたら、と考える。一キロメートルの狙撃を高確率で成功させる腕を持つ彼なら、狙撃でネクベトゥスを仕留めることは可能だろう。ただし確実ではない。現存する動物では最速と言われるうえに、鳥類最強のパワーとかなりの獰猛さを併せ持つネクベトゥスを、高校生が駆除しようとするのは非常に危険だ。一キロメートル離れて狙っても、一発外してしまえば気づかれて、二発目も外そうものなら、三発目を放つ前に腹に風穴を開けられていることもありえなくはない。レックスでも、相手がネクベトゥスでは殺される危険が十分にある。

「この前の店に寄りましょうか」

 エルキドはこれを承諾したというより、断る気力がなかった。以前にレックスと入ったことがある喫茶店に立ち寄る。二人はガラス越しに店の外が見える席に、隣り合って座った。エルキドはコーヒーを注文して砂糖を三杯半とミルクを少々入れた。レックスはチョコレートパフェとチーズケーキを注文し、チョコレートパフェから食べ始めた。

「遠慮しなくていいですよ。お金、余裕ありますから」

「いいんだ、コーヒーが飲みたかったから。ありがたくご馳走になる」

「そうですか」

 レックスは少しだけ残念そうな表情を見せた。彼には悪いと思ったが、今日は食欲が出ない。

「いつも甘いものをよく食べているよな」

「先輩もよく食べてますよね。今もかなり砂糖入れてるし」

「脳の養分はグルコースだからな」

「好きで食べてるわけじゃないんですか」

 引きつった笑みを見せる。

「俺は食べ物の好き嫌いは特にない。好きで食べているあんたを見ていると、うちの母みたいで少し笑えるな」

「お母さんて、英雄の?」

「もう一人のほうだ」

「先輩って、お母さんのこと、どっちも好きですよね。時々話に出ます」

 エルキドはコーヒーに口をつけながらうなずいた。

「三年生の人の何人かが、先輩はマザコンだって言ってました。カタリナさんとか」

「そう露骨に褒められると照れるな」

「知ってるんですね、言われてること」

「マザコンという言葉の使い方が非常に怪しいし、それ以前に言葉の定義自体あいまいなのだが、連中がどういうつもりで言っているのかを考えると、認識違いではあるまい。俺にとって最も大切な存在は両親で、その次は飼い猫だ。名前はミイだ」

「先輩のことが大好きな僕たちは、猫の次以降なんですね」

「そういうことになるが、大切であることに変わりはない」

「喜んでいいのかな」

 レックスの表情は、ある程度の落胆を含んだ複雑な笑顔になっていた。それから少し間をおいて、レックスは尋ねる。

「猫の次に好きなのは、誰なんですか」

 真っ先に、クレオのことが頭に浮かんだ。

「わからん。それ以外の知人全員が、同率四位かもな」

 半分近くは冗談だったかもしれないが、全くのでたらめを言ったわけではなかった。だからこそ彼にとっては好ましくない返事となる。エルキドにとって彼は、何十分の一ということになってしまうから。

 先輩、と弱々しい声が聞こえた。レックスは食べるのをやめて、エルキドのほうを見ていた。彼と目を合わせたエルキドは、彼の次の行動を予測できたが、エルキドはただ動かずにいることしかできなかった。

 体全体を傾けるようにして顔近づけてきたレックスは、その唇でエルキドの唇に触れた。数秒間触れ合った後、レックスはさらに体を傾け、首をエルキドの肩に預けた。預けられた首は震える。

「すまない」

 エルキドは微かな声で言った。

 エルキドの肩が濡れる。

 エルキドの唇には、チョコレートの香りが残った。



 珍しく定時に帰れる日にグラディアは、マックスに半ば強引に食事に誘われた。今日は早く帰れそうだと家族に話しているから無理だと言っても、彼は引かなかった。一度だけ付き合って、もう関わってくるなとはっきり言ったほうがいいのかもしれないと思い、グラディアはしぶしぶ誘いを受け入れた。グレイスに電話して遅くなることと夕食はいらないことを伝え、激しく文句を喚き散らす受話器を置く。

 マックスはグラディアを、二人分で六桁の料金を取られるようなレストランに連れていった。このような食事はワスデイ家の主義とは真っ向から対立するものだが、誘ったマックスが支払いをするということでよしとした。食事の内容がどうあれ、一食に支払う金額がゼロなら、パソコンの表計算ソフトで家計簿をつけるエルキドは文句を言うまい。

 グラディアと初めての食事をするマックスは、最初はやや緊張していたようだが徐々にそれも解け、酒が入るころには必要以上に喋るようになった。

「そもそも君はねえ、駆除員としては優秀かもしれんが、管理者としてはどうかと思うよ。仮にも部長という役職に就いたからには、もっと部下のことに目を配って……」

 一口で数千キルクルスもするような肉は、こんなにも不味いものかとグラディアは思った。肉が不味いのは肉のせいではないのだが。

「それと君は飲みニケーションをないがしろにする傾向があるね。いかんよそれでは。飲み会というのは大事なものでな、職場を離れての交流こそが実は一番大事な……」

 グラディアは、あまり好きではないが酒は飲める。しかしこの暴論は、酒を飲めない人間に対する差別だ。飲むことがそんなに大事なら、飲めない人間はそれだけでダメ人間ということになる。酒が好きでないグラディアも、おそらく差別される側の人間だろう。彼の理論からすれば、英雄グラディアはダメ人間というわけだ。

 高級な料理の味はよくわからなかった。エルキドは、高級な食べ物と美味しい食べ物は全く違うと言っていた。高級な食べ物は、高価な食材を使っている食べ物のことで、高価な食材というのは、手に入りにくい食材のことだ。美味しい食材ではない。無論料理のできは、食材だけでなく料理人の腕も影響するし、普段あまり食べられないものを食べることにはそれなりの意味があるが、それらを計算に入れても、高級な料理に払う料金は、対価として明らかに高すぎるのだそうだ。王宮でご馳走になった料理はとても美味しかったが、それは料理そのものの実力に加え、食事に参加したメンバーにもよるものなのだろう。愛する家族と、憧れの国王婦々。それに比べて、今の食事はあまりにもひどい。

「息子は大学には入ったが、三流の大学でな、しかもろくに授業には出ずに遊んでばかりだ。あれでも私の息子だろうか。最近では夫も私をないがしろにするし……」

 マックスの説教は、いつの間にか家族の愚痴になっていた。つまらないのを通り越して、グラディアと無関係な話になっている。蛇足と間違いと自己満足だらけの説教のほうがまだ建設的だ。どちらがいやかといえば説教のほうだが。頭を抱えるグラディアに追い撃ちをかけるかのように、マックスは言った。

「私と真剣に付き合ってもらえないだろうか。私だけの英雄になってほしい」

 ここまで相手をいやな気分にして交際を申し込むという戦術があるのだろうか。そもそも彼は、今までの自分の言葉がグラディアを不快にしていることに気づいていない可能性すらある。

「私には、愛する妻と息子とネコがいる。お宅も同様のはずでは?」

「さっき言ったように、仲はもう冷えているんだ」

 マックスには腹を立てているが、考えてみれば気の毒だ、と思った。彼の気持ちを想像することは難しくはない。自分がグレイスやエルキドと不仲になった場合の辛さは、想像するのも苦痛だ。おそらく、グラディアとマックスの家族には、決定的な違いがあるわけではないのだろう。マックスだって、夫と愛し合っていたから結婚したのだろう。その当時の状況は、グラディアのそれと変わらないはずだ。

 そう思って、ふとエルキドの言葉を思い出す。人が結婚する理由にはいろいろあって、恋愛の結果というのは多数派だがそれがすべてではないという。

「お宅は、愛し合って結婚したのですか?」

「当たり前だろう。……最初はな」

 最初は愛し合っていた。そんな関係を破壊したものが何であるか、マックスの普段の言動から想像がついた。

「誰のおかげで飯が食えているんだ、と言ったことがありますか?」

 マックスは絶句した。

「金を稼ぐ者の禁句の一つだそうだが、これまでに何度、その言葉を口にしましたか?」

「……覚えて、いない」

 マックスはかろうじてそう答えた。

「普段、食事を作っているのは?」

「夫に決まっている」

「では、飯が食えているのは彼のお蔭ですよね」

「だが、その材料になっているのは私の給料で……」

「そうやって、何でも自分のお蔭だと言い張るのが問題なのでは? 公平に見れば、お金を稼ぐあなたと、料理をする彼の両方のお蔭でしょう。ただ姿勢としては、お互いが相手に感謝するべきだと思う。私は、不十分ながらも一生懸命に家事をやってくれる妻や、そつのない料理や知識を与えてくれる息子に感謝している。それ以前に、存在してくれていることに感謝しているんだ」

「存在に?」

 そんな感覚を、マックスも昔は持っていたのではないのだろうか。愛する人が生まれてきてくれて、自分と出会ってくれて、一緒にいてくれていることに対する、無上の感謝の気持ち。

「あなたは、忘れているだけではないのだろうか」

 マックスは、食事にしろ言葉にしろ、その口を止めていた。

「私に交際を迫るのは、それを思い出してからでも遅くはないと思う」


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