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フェイタルアクション  作者: きりたんぽ
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エルキドの実力

 エルキドは授業が大嫌いだ。授業中に、授業と関係のない本を読んでいても、問題や質問に答えてさえいればお咎めのない授業ならまだいいが、それは多くない。社会科と物理だけだ。ほかの授業の際には、すでに知っている話を聞くことに五十五分間も集中していることを強要される。さすがにそれは受け入れがたく、エルキドはノートに落書きをして過ごす。今気になっていることに関する考察、家に帰ったら調べたいことについての思いつき、などなど。

 エルキドにはわからないことが多い。あまりに多すぎて、取り止めのない落書きは膨らんでゆく。

 水、と書いて丸で囲む。水の比熱が極端に高いこと、氷の摩擦係数が極端に低いこと。身近な物質である水が、これほど特徴的であることには、何らかの意味を感じる。

 概念、と書いて丸をつけ、横にこれの一例として、数、と書く。数はいつからあったのか。無論、人間が発明、いや発見した瞬間に生まれたのではない。人類が誕生する前から、一たす一は二だったはずだ。では、宇宙が誕生する前から、あるいは永遠の過去から、その事実は変わらないのか。宇宙の誕生前には時間自体が存在しないらしいので、前とか過去とかいう表現は違うだろうか、と首を振る。

 宇宙は怠け者、と書いて下線を引く。その下に、慣性、と書く。何らかの力を受けないかぎり、静止している物体は動こうとせず、動いている物体は等速直線運動を続ける。今を維持しようとし、あまり変わりたがらない宇宙。それなのに、インフレーション、ビッグバンという激変を経ての、光速を超えての宇宙の膨張。

 ヒトの染色体には、二十二対の常染色体と、一対の性染色体、合わせて二十三対四十六本がある、と生物のヴィオリアが話している。一本の性染色体にはX染色体とY染色体の二種類がある。二本の染色体の組み合わせがXXなら女性、XYなら男性になる。

「ここで、二人の親に対する子どもの性染色体の状態を考えます。両親の性別は、男性と男性、女性と女性、女性と男性、という組み合わせが考えられるので、三つに場合分けします。男性と男性の組み合わせの場合、両親の性染色体はともにXY。子どもは両親から、それぞれ二つのうち一つの染色体をもらうので、受精時の子どもの性染色体は、XX、XY、YYの三通りがありえます。それぞれの確率は、四分の一、二分の一、四分の一、ですね。ここで第一次ブラックボックス変異が起き、X染色体は四分の一の確率で、Y染色体に変わります。その結果、ありえる組み合わせは先の三通りで変わりませんが、当然その割合は変わります。さらに、第一次ブラックボックス変異が起きた直後に、YYは必ずXXに変わります。これが第二次ブラックボックス変異ですね。この結果、子どもの性染色体はXXかXY、性別は女性か男性のどちらかになります。……ええ、もちろんYYの子どもは生まれません。皆さんの子どもも、第三の謎の性別になることは、たぶんないと思うので安心してください」

 たぶんないと思う、というヴィオリアの言葉に、穏やかな笑いが起こる。

「ここまでの条件から、両親がともに男性の場合、子どもの性別はどれくらいの確率でどちらになるかがわかりますね。計算してみてください。途中までは確率を出しているし、これくらいの数学、みんななら楽勝かな。簡単すぎたらごめんなさいね。でも、この計算は一次試験には出る可能性があります」

 少しだけ時間を置いて、ヴィオリアは続ける。

「両親がともに女性の場合と、女性と男性の場合も、ブラックボックス変異についてはもちろん同様なので、それらの場合の子どもの性別の確率も計算してみてください。ところで、異性と子どもを設ける人、同性と子どもを設ける人、どちらとも設ける人、の割合は四対三対二であると言われています。この事実と、今計算してもらっている結果を組み合わせると、面白い事実がわかりますので、興味がある人はやってみてください。ヒントは数学の期待値です。こちらは、大学によっては二次で出ることもあるので、聞きに来てくれれば教えます」

 この面白い事実とは、生まれてくる子どもの男女比がきれいに約一対一になっていることだということを、すでにエルキドは知っている。エルキドが知らなくて、ぜひ知りたいのは、ブラックボックス変異のような都合のいい現象が、なぜ起こるのかだ。これは最新の生物学でも謎とされており、ヴィオリアに聞きに行ったところでわかるはずはなかった。

 このことに限らず、世の中「なぜ」なのかわからないことは、あまりにも多い。さっきからエルキドがしている落書きも、つまるところなぜなのかが知りたいものがほとんどだ。

なぜ、という問いに、答えが出ることは少ない。それでもエルキドは、なぜと考えるのをやめることができない。


 昼休み、エルキドが本を読んでいると、ケイが遠慮がちに声をかけてきた。特徴的な赤い装丁の問題集とノートを持っていることから、何の用なのかがわかる。

「今、大丈夫?」

 エルキドはうなずいて、自分の本を閉じて脇に置いた。ケイは問題集とノートを開いて、わからないという問題を示す。数学、エス語の問題が一問ずつと、化学の問題が二問。

 まずは数学の問題について、ケイのノートをざっと見る。途中まで解いてあるので、その記述についていくつか質問することで、彼女が何をわかっていて何をわかっていないのかを判断する。それから、その問題を解くために必要で、彼女が理解できていないことだけを教え、できるだけ自分で考えてもらうようにする。同様にして、エス語と化学の問題についてもヒントを教えた。すべてを解いている時間がないので、後でヒントを参考に解いてもらうことにする。彼女なら、同じところをもう一度聞きに来ることはないだろう。

「トリニタス大を受験するのか」

 ケイの問題集は、トリニタス大学の二次試験の過去問題集だ。

「戦闘で際立った成績は狙えないから、こっちを頑張らないとね」

「そう言われると他人事ではない気がしてくる」

 戦闘より勉強が得意。ケイはエルキドと同じタイプだ。ただし、エルキドのほうがその傾向は極端だ。勉強は彼女に教えられるが、体力面では彼女よりも劣る。

「エルさんもトリニタス大でしょう? 同じところに行きたいから」

「そういう理由で大学を選ぶべきじゃない」

「わかってる。ちゃんとやりたいことがあるの。エルさんと同じっていうのは、ついで」

「せっかくだが、俺はトリニタス大を受けるかどうかわからない。受けても受かるかどうかわからない」

 トリニタス大は、知力、体力、精神力の三位一体を求められる大学だ。どれか二つが極端によくても、残り一つがある程度まで達していないと、容赦なく落とされる。

「せめて受験はしようよ。ほかに行きたいところがあるわけじゃないんでしょう?」

「俺は近い大学に行きたい。通学という不毛な行為に時間を割きたくないし、都会に住みたくない。それに、受験勉強とか言ってひたすらバトルの訓練をするなんてぞっとする」

「エルさんて、本当に戦闘が嫌いだよね、英雄の息子なのに」

 グラディアの話が出て、そういえば、とケイは言った。

「テレビ見たよ。お母さんの授賞式のために休んだんだね。お母さんとクリス様が映っていたけど、あの近くにエルさんもいたの?」

「まあな」

「あ、ごめんね。いろんな人に聞かれて、うっとうしいよね」

 けんかを売る意思はないので肯定はしないが、不要な嘘はつかない主義なので否定もしない。だが無愛想な表情は、そのつもりがなくても肯定を仄めかしてしまう。

「悪く思うな、俺は元々こんな顔だ」

 ちょっと困ったように、ケイは笑った。

「でもエルさん、とっつきにくいから苦手な人も多いけど、あなたすごく人気があるってこと、知ってる?」

「知っている。俺を嫌う人間が多いことも、知っている」

 エルキドを知る人間の多くが、エルキドを好いているか嫌っているかのどちらかだ。

「嫌う人は嫉妬だよ。親は英雄で、本人は戦闘以外の成績がダントツだもんね。髪の毛、すごくきれいだし」

「黒いだけだ。あんたの頭髪も悪くない」

 ウェーブのかかった、淡灰色の長髪。ケイははにかんで笑う。

「エルさんのつっけんどんな感じ、正直あたしも、少しだけ苦手なんだけど、でもあたしも、エルさんのことが好きなの」

 うん、と相槌を打つ。

「たぶん勉強ができるからとか、髪が黒いからとかじゃなくて……ごめん、よくわからないけど」

「人が人を好きになるというのは、遺伝子の相性の要素が大きい。相手のどこが好きかなんて、後付けの理由に過ぎないんだ。べつにどこが好きかを言ってくれなくていい」

「冷徹なまでに理屈に走るね」

 言葉では非難しながらも、ケイは微笑んでいた。苦笑いではない。

「あんたならこういう話を受け入れてくれることをわかっているから話している。あんたとは、ほかの奴らよりも話がしやすくて助かる」

「でも、付き合ってくれる気はないんだよね」

「申し訳ない」

 恋人を作ることには、大きな利点がない。そればかりか大幅な時間のロスになり、エルキドにとっては大きなマイナスになる。

「エルさんには、運命の人がいるのかな」

 ほかのクラスメイトのこういう話は聞きたくないが、ケイの話なら付き合う価値はあるだろう。彼女はエルキドがどういう話を嫌い、どういう話を好むかを、ちゃんと知っている。

「受け売りなんだけど、運命は科学的にありえるって話を読んだの。ある時点で、全宇宙のすべての物質の位置や運動量の状態は当然決まっているでしょう。それなら、それから未来の状態というのは、その時点の状態の結果として引き起こされるはずだから、未来は決まっているはずって話。エルさんなら、聞いたことあるのかな」

 うん、とエルキドはうなずいた。

「決定論ってやつだな。面白い話だと思う。その話が本当だったら、たとえば俺とあんたが今こういう話をしていることも、言葉の一字一句、声の高さや大きさまで正確に、少なくとも宇宙の誕生時点から決まっていたことになるな」

 ケイは少し考えて、そうだね、と答えた。

「この話を認めるなら、俺が関わったすべての人間が、俺の運命の人だな」

「私も?」

「無論。ただし、運命の人には恋愛が絡んでくるとは限らない」

「そうだよね。一生に一度すれ違うだけの赤の他人も、運命の人だもんね」

 ケイの笑い声は乾いていた。彼女の心中を察すると辛かったが、エルキドはただ黙っているしかなかった。



 約一週間ぶりの現場の仕事に赴くグラディアの表情はきわめて険しい。何か動物が飛び出してきたら、有害鳥獣でなくても、ネコでないかぎり切り捨ててしまいそうな気分だった。それ以上に斬りたいのは、グラディアの後方を歩く人物だ。

「なあ、グラディア君。こんな道しかないのかね」

 マックスは何度目かの文句を言った。獣道とはいえ、道があるだけでありがたいと思わないのだろうか。駆除業で山に入るときは、道を外れて茂みを掻き分けることなどいくらでもある。

「道を間違えているわけではないだろうね。指導員としての仕事は、きちんとやってくれないと困るよ」

 指導されている立場の新人マックスは、ひたすら偉そうだ。

 マックスが管理局に入ってきたのは、グラディアがライオンに遭遇するよりも少し前だった。新人なのにいきなり常務理事というわけのわからない人事の理由は、会議での役員紹介のときにわかった。何年か前まで、保安省の事務次官をやっていたのだそうだ。国の行政機関にいた者、いわゆる官僚だった者は、行政機関を辞めて関連企業に再就職する際、最初から高い地位が約束されることが習慣になっている。国の行政機関の職員はそれだけで非常に尊く、下の企業ごときにいらしてくださることはこの上なくありがたいことなので、それくらいの待遇は当然らしい。たかだか一人の人間が入ってくるだけのことなのに、まるで神様が天から下ってきてくださったかのようなありさまだ。

 グラディアは舌打ちをした。保安省にいたのは、自分だって同じだ、と。マックスが羨ましいわけではない。羨むくらいなら、グラディアは管理局に来る際、常務理事か統括、少なくとも部長のポストを得ることができた。管理局のほうから、そういう話を持ちかけてきたものだ。そうしなかったのは、現場の仕事をしたかったから。グラディアは自ら望んで、通常の新人と同様に一般職からスタートしたのだが、だからこそ、当然のような顔をして常務として入局し、下の者に対して偉そうにぞんざいに振舞う彼に我慢ならない。

グラディアは事務次官のような高い地位にはいなかったが、彼よりもずっと早く保安省を辞めて管理局に来た、言わば大先輩だ。しかも今は彼の指導員。年齢や役職が上でも、彼の態度は少し筋が違うのではないかと思う。

「聞いているのかね、グラディア君」

 聞いていなかった。

「何か?」

「何かじゃないよ、同じことを二度言わせるのはよくないね。目標まであとどれくらいかと聞いている」

「知りません。ご存知ありませんか? 動物というのは、移動するんです」

「ばかにしているのかね、君は。それくらいは知っている。だが、目標はカバだ。カバには縄張りがあると言っていただろう。その場所はまだかと聞いているんだ」

 事前に情報を確認しようともせず、当然のように尋ねる姿勢にも腹が立つ。与えられた仕事に関して積極的に情報を得ようとする姿勢くらい、大学を出たばかりの若者でもほとんどが持っている。今回の目標の縄張りの位置くらい、渡された資料を少し読めばわかることなのだ。見落としたわけではなく、おそらく全く読んでいないのだろう。

「……あと二十分ほどです」

 マックスはこれに対しても文句を言った。

 私にあと二十分もこんな道を歩かせる気か。どうして駆除業というのはこんなに……。

 聞きたくないのを通り越して聞くのが苦痛だったが、聞かなければまた、人の話はちゃんと聞けと文句を言われる。人を殺したことはあっても、人を殺したいと思ったのは初めてのことだった。

 そもそもなぜ彼は、駆除に出てきたのだろう。理事は管理局の代表の一人のようなものであり、職員ではない。青襟職でも白襟職でもないのだ。青襟職にも白襟職にも口を出す権限があり、それを利用して駆除の実務を経験したいと言い出したのだが、その意図がわからない。こんなに文句を言うのなら、希望しなければいいのだ。ずっと現場のことなど知らず、理事の椅子でふんぞり返っていればいいのだ。現場を知らずに指図する上司はよく陰口を言われるが、わざわざ現場に出てきて文句だの説教だのを垂れる方が、数倍タチが悪い。

 グラディアは基本的に人間が好きで、駆除の仕事も誰かと一緒のほうが楽しい。一人で出かけるよりは、ちょっと苦手な統括でも、いてくれたほうがずっとありがたい。駆除の仕事は、目標の捜索が作業時間の大半を占めるので、その間一人では退屈だということもある。しかしマックスは、一緒に出かけるくらいなら一人で駆除をしたほうがマシだと思う、今のところ唯一の相手であった。いや、一人で駆除どころか、机で書類でも作っているほうがマシですらある。

 そんな彼の愚痴だの文句だの説教だのを聞き流しながら歩くこと二十分強、ようやく目標を発見した。さっさと片付けて帰りたいが、帰りも同じ道のりを歩くのだと思うとうんざりする。

「どういうことだ、グラディア君」

 濃緑色の川の岸辺の目標を確認した折にも、マックスは文句を言った。

「何十匹もいるじゃないか。あんなのどうしろと言うんだ」

「十二頭です。カバがあの程度の群れを成すことは、管理局では常識だし、資料にも書いてあったはずですが」

「そんなことは知らんし、資料など読んでおらん」

 案の定だ。

「そもそも、こんなところにいるカバを駆除する必要があるのかね」

「被害者が四人出ているんです。そのうちの三人は死亡している」

 それも資料に書いてあったことだが、だからこそマックスが知っているはずはなかった。

 カバは稀に動物を食うこともあるそうだが、草食動物なので積極的に人を襲うことはない。だがうっかり縄張りに侵入してしまった人が、激しい襲撃を受けてしまうのだ。因みに、有害鳥獣に指定されている草食動物というのは、かなり珍しい。

「私は英雄じゃない。あんな大量の猛獣を一度に相手になどできん」

 猛獣とはいえ、カバは新人が戦闘の練習台にするような相手だ。しかもそれで大きな事故が起きた前例はない。そこそこ実力がある者なら、高校生はもちろん、中学生でも十分に戦える。

「では、少し数を減らします」

 今回は自分の出番があるとは思っていなかった。目標以外の強い有害鳥獣が出たら駆除するつもりで剣を持ってきたが、まさかこれでカバを斬ることになるとは思っていなかった。

 グラディアは静かに素早く、川辺のカバの群れに近づき、近いものから順に剣で刺したり斬ったりしていった。一頭につき一撃。五秒強の間に、九頭を仕留め、マックスの元へ戻る。興奮した残り三頭のカバが追ってきた。

「三頭はお任せします」

 マックスに素早くそう伝え、近くの木の上に素早く登る。それからさらに、木の下に向かって言ってやる。

「カバは時速四十キロ以上で走ります。逃げるのは難しいので気をつけてください」

「なに? もっと早く言いたまえ」

「管理局では常識だし、資料にも書いてありました」

 マックスにはそれを落ち着いて聞いている余裕はなかった。慌てて槍を、向かってくるカバに向けて構えた。

 三頭のカバに苦戦するマックスを見て、グラディアは微笑む。ほんの少しだけ、溜飲が下がった思いだ。しかし、ただ暢気に眺めているわけにはいかない。マックスに何かあったらグラディアの責任になってしまうのだ。仮にも駆除をしたいと言い出した者が、三頭のカバを相手に何かあるとは、普通に考えれば思えないが、マックスの戦いぶりを見ていると、普通に考えるのはやめたほうがよさそうだった。

「本当に、なんで駆除なんかしたいと言い出したんだ」

 グラディアは普通に考えるのをやめて、注意深く見守っていたが、辛くもマックスは三頭のカバをすべて仕留めることができた。グラディアが木から飛び降りる。

「お疲れ様でした。楽勝だったみたいですね」

「君にはそう見えたか?」

 マックスは戦闘時の必死の形相を保ったまま、肩で息をしている。グラディアは笑いをこらえるのに苦労した。

「ええ。帰りに何か出たら、またお任せしますよ」


 帰り道でのマックスは、疲れと恐怖のためか、大人しいものだった。だが局に戻って落ち着いたマックスは、そのうっとうしさを取り戻し、マックスが駆除したカバの報告書作成に忙しいグラディアの机にやってきた。

「今、ちょっといいかね」

「だめです」

 グラディアは、パソコンのキーを叩く手を止めずに答えた。目線もくれない。

「先ほど現場で世話になった礼に食事でもと思ってな。今日の定時後、付き合ってくれないかね」

 手を止めて、睨むのに近い視線をマックスに向ける。

「今日の退社は九時ごろの予定なので」

「なんと残業かね。では明日は?」

「たぶん同じくらい」

「一体いつなら空いているのだ」

 グラディアは、マックスに聞こえるようにため息をついた。

「職員のほとんどが定時に帰ることのほうが少ないし、定時に帰れる予定でも急に仕事が舞い込むことは珍しくありません。それに私は、何時に終わったとしても、一刻も早く帰り、家族と過ごしたい」

 家族、と呟いてマックスは、不愉快そうな表情を見せた。

「先の件は仕事なので、礼は無用です」

 グラディアがはっきり断ると、やっとマックスは引き下がった。

 多くの動物の活動が鈍る冬のように、特別暇な時期というわけでもないのに、管理職のグラディアを定時に食事に誘う神経が許せなかった。管理局の仕事を舐めきっている証拠だ。



 どの国でも同じだろうが、アルフレアの最重要課題は、有害鳥獣の対策である。この業務を担う有害鳥獣管理局は、実質的に保安省の下位組織でありながら、保安省と同等であるほかのいくつかの省よりも、重要性が高い。従って、管理局を所管する保安省は、総理府に次いで重要な行政機関とされている。そのため保安大臣であるキーラは、朝会に出席する頻度が、総理大臣を除くほかの大臣と比べて、明らかに高かった。

 王宮の会議室に、王とその秘書官、総理大臣のほかに、キーラを含めた三人が集まった。キーラのほかには、司法大臣と教育文化副大臣。

「今日の会議室は、また一段と広いですね」

 王の隣の総理大臣が集まった顔を見渡す。

「お二方、もっと近くに来ませんか?」

「アダムさん」

 王が総理大臣に、非難するように呼びかけた。むやみに席次を変更することに難色を示す。

「よろしいじゃありませんか。どうせ空いてるんだから」

 キーラの席は、元々机の角を挟んで、秘書官の隣だ。少し離れて座っている二人の大臣が、顔を見合わせてから、席を立つ。二人は、キーラの向かい側、机の角を挟んで総理大臣の隣に座った。

「ほら、この方がお話がしやすい。遠くの人と話すのは疲れるでしょ? それ僕だけ? 歳なのかな」

 王の表情が綻んだ。そんな王の顔を見つめる秘書官は、真顔を崩さない。

「では、始めようか」

 王は簡単に挨拶をして、三人の発言を促した。キーラは最初だった。

「先日お話したライオンの件ですが」

 うん、と王が相槌を打つ。

「目撃情報がわずかに報告されている件をお話しましたが、すでに管理局職員によって一頭駆除されていたことがわかりました」

「駆除されていた? いつのことだ?」

「一週間ほど前のことです」

「管理局の情報が私の耳に入るまでは、一週間を要するのだろうか」

「申し訳ございません。ライオンが発見されただけでも異常事態なのに加え、このライオンがきわめて危険な猛獣のようで、局はこちらに報告するのをためらっていた上、混乱もあったようです」

「きわめて危険? 確か先日の報告では、ライオンはEランク相当と予想されると」

「そのはずでしたが、遭遇した職員によると、ドラゴンよりもずっと手強かったと」

「ドラゴンよりもずっと手強い?」

 さっきから、王は鸚鵡返しを繰り返している。彼女は普段、そのような無駄な言動はしない。キーラの報告内容が異常である証拠だ。

「そんな動物にたまたま遭遇した職員は無事だったのか?」

「はい。幸いにも、遭遇したのがグラディア・フィグテル・ワスデイ氏でしたので」

「駆除したのは彼女か。それは、先におっしゃっていただきたかった」

「それは、失礼致しました」

「一週間前ということは、先日彼女をお招きしたよりも少し前に、ライオンを駆除なさっていたということか。それだけのことをなさったなら、自慢なさってもいいものを、何もおっしゃらなかったな」

「グラディア氏は、自分の功績を自慢するような方ではありません。あの方は仕事を趣味にしているようなところがあって、成果を褒められると逆に困ったような顔をしていたものでした」

「キーラさんは、グラディアさんとお知り合いでいらしたか?」

「はい。昔、保安省で一緒でした」

 キーラが大臣になる前、グラディアは彼女の部下であった。グラディアが英雄と言われる前のことだったが、キーラは部下であった彼女を、心から尊敬していたものだ。

「グラディアさんは保安省で働いていらしたのか?」

「ご存知ありませんでしたか? 大学卒業後、その腕を買われて、刺客として保安省にスカウトされて」

「父の時代に、刺客業を……。では、ずいぶんといやな思いをなさっただろうな」

 キーラは王から視線を逸らした。

「彼女の場合、戦闘の機会が少ないことのほうに不満があったようですが」

「父の時代には、刺客の業務は多かったと伺っているが」

「はい。ですが、刺客は暗殺が基本ですので」

「なるほど、戦闘になることは少ないのか」

「戦闘になっても、人間相手では物足りない、とも」

「勇ましい方だ」

 グラディアは、戦闘が好きで仕事をしているようだった。好きなことをやってそれを大げさに褒められると、照れくさくなるものかもしれない。

 キーラは、用意していた資料を全員に配った。全大臣が集まることを想定して用意しているので、かなり余ってしまった。

「ライオンについて、その死体と、グラディア氏の証言からわかったことをまとめてあります。時間のあるときにお目通しいただきたいのですが、ざっと見てわかるように、尋常でなく危険な動物のようです。Aランク指定を考えているのですが」

「Aランクのドラゴンより手ごわいというなら、少なくともAランクだろうな」

 キーラの表情が曇る。王の何かを指摘することは心苦しい。

「恐れながら陛下、有害鳥獣のランクは、その個体の強さだけで決まるものではありません」

「どういうことかな」

「その種の総合的な危険度で判断されます。ライオンがドラゴンより強くても、個体数が少なくて被害が少ないなら、Bランク以下にもなりえます」

「そうか。寡聞にて失礼した。それくらいのことは、存じていなければならなかったな」

「いえ、生意気を申し上げまして」

 王は穏やかに微笑んだまま、首を横に振った。

「私に何か間違いや問題があると思われたら、ご遠慮なくおっしゃっていただきたい。ご指摘をいただくほど、それは私の糧になる。私はこのとおりの若造だから、皆さんに勉強させていただくことはいくらでもあると思う」

 キーラの口元は自然に綻んだ。

「専門のあなた方にお任せしたほうがいいと思うが、いちおう、有害鳥獣のランキングの方法と前例を確認して、私のほうでも検討させていただく」

「よろしくお願いします」

「Aランクということは、高額の賞金がかかることになるのか」

「ライオンの危険性と個体数の少なさから、百万キルクルスと考えております」

「百万?」

 王は眉をひそめた。当然ながら、賞金は税金から支払われる。

「実際に支払われることは、ほとんどないかと」

「それもそうか。それも合わせて検討してみるが、おそらくキーラさんのおっしゃるとおりにすると思う」

 王の言葉に、キーラは一礼した。

 キーラに続いて、教育文化副大臣、司法大臣、の順で案件を提示した。

 教育文化副大臣からは、保育と戦闘の能力を併せ持つ幼稚園教員が少ない件。園児を外で遊ばせる際に、危険な動物に襲われるケースがあるので、少なくとも一つの園に二人は、Cランク動物を駆除する力を持った教員が必要だ。現状では、戦闘の訓練をしようという幼稚園教員や、幼稚園で働こうと考える戦士というのは非常に少なく、戦える者が全くいない幼稚園すらある。この場合、多くは傭兵を雇うことになる。傭兵は高額な上、子どもと接することに慣れていないことが多いので、園児を怖がらせることも多い。戦える教員が少ない原因は、明らかに賃金のことだった。幼稚園教員自体は人気の高い職業なのだが、戦闘の才能がある者は、賃金が安めな幼稚園教員になろうとは、なかなかしてくれない。教育文化省からは、保育と戦闘の能力を併せ持つ教員を、特別に優遇することを提案された。

 司法大臣からは、犯罪の件数が減っている件。一年半ほど前から、明らかに減ってきていたが、その原因が不明であった。犯罪件数を表す棒グラフはきれいに右肩下がりになっており、誤差の範囲や何かの偶然ではないことは、統計学者に聞くまでもなく明らかだ。これがさすがにおかしいと、関係者が思い始めたのは一年と少し前のことで、数回に渡って王に訴えているが、今に至ってもその原因は全く不明だ。原因がわからないことは気持ち悪いが、悪いことではないため、原因の解明にはあまり注力されていない。

 出席者が少ないこの朝会は、いつもよりも短めで、二十分ほどで終わった。

 教育文化副大臣と司法大臣が退席した後少しの間、キーラは席に残っていた。持ってきた鞄から覗いている資料に目をやる。鞄を取って、資料を鞄から出さないまま、その表紙を見てため息をつく。表紙には、『ラプラスの悪魔の実在可能性に関する報告』とある。報告書を持ってきたものの、今日の朝会でこれを王に提出する気は、ほとんどなかった。今は低い可能性の段階なのでまだ早い、というのは、自分に対する建前に過ぎない。本来はこれほど大事(おおごと)なら、ごく低い可能性でも報告するべきだろう。キーラは怖かった。敬愛する王の口から、子どもを殺す命令を出させることが。

「キーラさん」

 席を立たないキーラに、王が声をかけてきた。キーラは反射的に鞄の口を閉じた。

「どうかなさったか?」

「いえ、あの……ここでこうしていれば、陛下に個人的にお声がけいただけるかと思いまして」

 それは光栄だ、と王は笑った。

「私としても、時間があればあなたとはゆっくり雑談でもしたいのだが、あなたにも、ここでぼんやりなさっている時間はないのでは?」

「庁舎に……戻ります」

 キーラは鞄を抱えるように持ったまま礼をして、逃げるように会議室を出た。あからさまに焦りすぎてしまった、とキーラは反省する。あの聡明な王には、多少なりとも違和感を与えてしまっただろう。



 定期テストを一週間後に控えた日、一緒にテスト勉強をしようと、カタリナやケントに誘われた。エルキドにはテスト勉強など時間の無駄になるだけであり、二人もそれをよくわかっているはずなのだが、半ば強引に付き合わされてしまった。一緒にテスト勉強など建前で、実のところは、わからないことを教えてもらおうというつもりなのは明らかだ。さらに実のところは、二人がエルキドと一緒に過ごしたいのだということもわかっていた。

 断りきれなかったエルキドは、仕方なく、勉強する二人と机をくっつけて、本を読む。ノートも開いており、気になったことがあれば、書き込んでいく。二人が勉強を始めてから間もなく、レックスが教室に入ってきた。

「先輩、テスト近いんで勉強教えてほしいんですけど……」

 カタリナとケントの視線を受けて、レックスの声は尻すぼみになる。

「このとおり、二人の相手をしている。二人と一緒でいいなら、その辺の机をくっつけて勉強してろ。何かあったら言ってくれれば教える」

 はーい、と間延びした返事を返し、がっかりしたような表情で机を動かす。三人と机を並べて座ったレックスは、カタリナとケントを恨めしそうに見る。その視線を受けて、何よ、とカタリナが言った。

「どうして二年生のあんたがここにいるかな」

「二年生でもテストはあるんです」

「自分の教室や自宅でやればいいじゃない」

「カタリナさんだって、自分ちでやればいいじゃないですか」

 言い争う二人を尻目に、ケントがエルキドに話しかけてきた。

「この問題だけど、熱化学方程式の作り方がよくわからない」

 エルキドはケントのノートを一瞥した。

「問題では、エタンの燃焼熱が書かれているから、これを基準にする。エタンの係数を一にして、ほかの係数はこれに合わせる」

「熱化学方程式では、係数が分数になることがあるんだったか」

「ああ。あと熱化学方程式の場合、右辺と左辺はイコールで結ぶ」

 ケントの式は、化学反応式のように、矢印で結ばれている。

「ああ、よくやるんだよな」

「熱化学方程式と化学反応式は似ているが、全く別物だと意識してほしい」

「何が違うんだ? なんでイコールだったり矢印だったりする?」

 少し相対性理論に触れてしまうが、そんなに難しい話ではないから大丈夫だろう。エルキドは五秒ほど考えてから、言った。

「まず物質というのは何でも、莫大なエネルギーの塊だと考えることができる」

「物質にエネルギーが秘められているのか?」

「と言うより、物質とエネルギーが本質的に同じものなんだ。何キログラムの物質が何ジュールのエネルギーと等しい、なんて比べ方ができる」

「莫大というのは、どれくらい?」

「物質の種類に依らずエネルギーは質量に比例するが、その比例定数は光速の二乗。具体的には、一グラムで九かける十の十三乗ジュール程度に相当する」

「それはとんでもないエネルギーじゃないのか?」

「だから莫大と言った。仮にそんな熱エネルギーや運動エネルギーが発生させられるなら、ドラゴンの数百頭くらいは即死させられるな」

「一グラムで?」

 ケントは納得のいかない表情で首をかしげている。

「感覚でわからなくてもいいから、そういうもんだと思ってくれ。で、化学反応が起こる際は、ある程度の熱、つまりエネルギーの出入りがあって、ほんのわずかであるが、反応前後では質量の総量に変化が起こる。物質がエネルギーに変わったり、エネルギーが物質に変わったりするんだな」

「確か質量保存の法則というのを、中学で習ったよな。化学反応式の左辺と右辺では、質量は変わらない」

「それが、厳密に言うと、変わってしまうんだ。この質量の変化や、エネルギーの出入りに頓着しないのが、化学反応式だな。頓着しないとはいえ、左辺と右辺の質量、あるいはエネルギーが、厳密に同じではないから、イコールではなく矢印を使っていると思ってくれればいい」

「では、熱化学方程式がイコールなのは」

「そちらは、エネルギーの出入りについても言及している。質量に変化があるが、そこは熱の出入りも記述することで、左辺と右辺の質量と熱の和、つまりエネルギーの総量が厳密に同じであるから、イコールを使うことができる。そもそもこれには方程式という名前がついている。数学でも方程式はイコールで結ぶだろ」

 ケントはため息をついたり唸ったりした。

「短時間ではわかりやすい説明ができなくて申し訳ないが」

「いや、でもなんとなくだけど事情はわかった。それだけ聞けば、熱化学方程式で矢印を使うことはなくなると思う」

「そうなってくれればと思って、少々突っ込んだ話をした」

 でもな、とケントはまたため息をついた。

「本気で留年の危機が迫ってきた」

「あんたの力なら、今から頑張れば三十点は取れる」

「そうか?」

 エルキドはうなずいた。

 ウィータ東高校の定期テストは、極端に難しいことで一部では有名になっている。だがあまりに難しすぎると零点の生徒が何人も出てしまうということで、平均して三十点分は、それなりに勉強すれば誰でも取れるような問題を用意することが通例になっている。

 再び本を読もうとしたエルキドは、教室の外に目をやった。誰かの足音がして、こちらから見えない位置で止まったのだ。その遠慮がちな態度と足音自体から、足音の主は想像がついた。

 トイレ、と三人に一言断って、エルキドは教室を出た。外には予想通り、ケイが立っていた。

「テスト勉強に付き合わされてるんだが、手伝ってくれないか?」

「いいの?」

「教える側がもう一人いてくれると助かる。迷惑でなければ」

 ケイはみるみる笑顔になってうなずき、教室に入った。トイレというのは嘘だったが、教室から出てきたついでに行っておくことにした。



 エルキドが家に帰ると、グレイスの悲鳴が聞こえてきた。エルキドは歩調を変えずに家に入り、居間に向かう。その途中で、悲鳴が何回かと、逃げ回る足音、テーブルにぶつかって何かを落とす音、スプレーを噴射する音が聞こえる。大きな蛾かゴキブリでも出たかな、と思って間もなく、聞こえてくる音や声から、グレイスの注意が下のほうに向いているらしいことがわかる。ゴキブリだろう。

 ただいま、とエルキドがグレイスに顔を見せる。左手に丸めた新聞紙、右手に対ゴキブリ用の強力な殺虫剤を持ったグレイスは、エルキドに抱きついてきた。

「エルちゃん、ごき、ゴキブリ、ごきごき……」

「わかったからもう泣くなよ」

 エルキドは手袋を取って右手に付けた。グレイスから殺虫剤を受け取り、左手に持つ。グレイスの注意の方向から、ゴキブリのだいたいの位置はわかっている。さらにゴキブリがかさかさと移動する音が聞こえ、その位置を完璧に捉える。

 ゴキブリが隠れている箪笥の後ろの隙間に、殺虫剤を噴き込む。直後に反対側から飛び出したゴキブリを、右手で捕らえ、窓から逃がした。

「母さんは?」

「今日も残業」

 グレイスは鼻をすすりながら答える。

「ミイは?」

「夜遊び中」

「晩ご飯は?」

「ゴキブリで作ってない」

 台所を見ると、調理に手はつけているようだった。グレイスが普段調理を始める時間や、彼女の疲れ方や怯え方から考えて、おそらく二時間ほどゴキブリと戦っていたのだろう。部屋の中は、それだけ暴れまわったのに相応しい散らかり方をしている。複数のドラゴンを余裕で蹴散らす英雄の妻が、二時間かけてゴキブリ一匹倒せないというのは、けっこう笑える。ただし彼女にとっては死活問題とまではいかなくとも相当に深刻な問題なので、笑いは表に出さないことにする。

「部屋、片付けるから、ママさんは晩ご飯作れば?」

 えー、とグレイスは口を尖らせる。

「せっかく帰ってきたんだから、エルちゃんが作ってよ」

 できればグレイスに作ってほしい。はっきり言って、彼女にできることは決して多くはない。曲がりなりにもある程度はできるようになった料理については、この家で自分の役割にしてほしいと、エルキドもグラディアも思っている。だが彼女の料理は個性的で、エルキドやグラディアはしばしば辟易する。フルーツと野菜たっぷりの肉じゃがでも作られてはたまらないので、今日のところはエルキドが作ることにする。

「今日はハンバーグにするつもりだったの。美味しいソース作ってね」

 台所に向かうエルキドの背中に、グレイスが言った。

「はいはい。部屋の片づけくらいはしててよ」

 はーい、とグレイスは右手を上げて返事をした。


 エルキドが夕飯を作り終えてから一時間ほどしてグラディアが帰ってきたので、ハンバーグを温めなおして食事を始めた。

「お、今日はエルが作ったな」

 まともなハンバーグとソースとサラダを見て、グラディアがうれしそうに言った。それだけならまだよかったが、その後にグレイスにも聞こえる声で、ラッキー、と続けてしまった。

「ラッキーって、どういうことですか」

 案の定、グレイスが口を尖らせて文句を言う。グラディアは笑ってごまかした。

「ハンバーグとソースは文句なく美味いんだが、もう一品、味噌汁か何かが欲しかったな」

「エルちゃん、ハンバーグとサラダ作って洗い物したら、さっさと部屋にこもっちゃうんだもん」

 その間約一時間の間、エルキドはインターネットで調べ物をしていた。

「ママさんが作ればいいんだ」

「グレイスのは、味噌が濃すぎたり薄すぎたり、出汁がなかったりするからな。砂糖やあんこが入ってないだけマシだが」

「お味噌汁にお砂糖やあんこなんて入れるわけないじゃないですか」

 グラディアもグレイスに料理をしてほしいとは思ってはいるものの、彼女の作ったものを食べるとなると、また話が違う。エルキドはグレイスに、料理のときは必ず味見をしろ、と何度も何度も言っているのだが、度々忘れるようだ。また、味覚が一般人と違うのか、味見をして作って、美味しくできたと出したものが、あまりよくない意味でとても個性的だということもある。

「母さん、何かあった?」

 幸せそうにハンバーグをほおばるグラディアに、エルキドが言った。

「え、なんで?」

「最近少しいらついてるみたいだから」

 思わずグレイスの顔を見るグラディア。グレイスは首をかしげて、エルキドの顔を見る。

「いつも思うんだが、エルは、よくそういうことがわかるよな」

「たまにでしょ」

 エルキドは、何かに気づいても気づかないふりをしていることが多い。最近のグラディアは、複数回に渡ってとんでもなく不愉快な思いをしているらしいことがわかったので、確認したかったのだ。

「最近、困った上司が入ってきてな」

「入ってきたってことは、新人ってこと? なのに上司?」

「エルはバイトだから聞いてないのか? 元保安省の事務次官、と言えばエルならどういうことかわかるのかな」

 なるほど、とエルキドはうなずいた。

「役職は?」

「常務」

「常務なんかと関わることがそんなにあるものなの? こっちの部長も統括も、理事連中のことなんてあんまり気にしてないみたいだけど」

「やっぱりそうなのか。どういうわけか私にはよく絡んでくるんだ。文句や下らん説教なんかをぐだぐだ聞かされるから、最初は英雄と呼ばれる私に妬いているのかと思ったが、かと思えば、よく食事に誘われる」

 それだけ聞けば、その常務の意図は明らかだ。

「男は本能的に、相手を支配したがる傾向がある。そのために人によっては、上から物を言ったり高圧的な態度を取ったりするんだな。そういう態度が身についている人間は、好きな相手に対してもそうする」

 グレイスは深くうなずきながら聞いていた。

「すごくわかる。男の人ってそんな感じなのが多いんですよ。グラディア様は男の人に興味ないからご存じないでしょうけど」

「そうか? うちの統括は、その常務より年上だと思うが、物腰だけは丁寧だぞ。慇懃無礼という気もするが」

「当然男にも、そういう人だっているさ」

「確かに私は男をあまり知らないが……好きな相手にもって言ったな。あの男は私が好きだということか?」

「話を聞いただけじゃ断言はできないけど、好きでない人を何度も食事に誘うことは、あまりないだろ。部下とコミュニケーションを図ろうとしていることも考えられなくはないが、たとえば母さんのところの統括とか、その常務がほかの人を誘うことはあるの?」

「私の知るかぎり、ない。少なくとも統括は、自分が誘われたことはないと言っていた」

 エルキドは鼻で笑った。

「常務のことについて、統括と話すんだ」

「そうだが、何がおかしい?」

「ちょっと苦手な統括と、ちょっと仲良くなったんじゃないかと思って」

 グラディアは言葉を返さなかった。これは肯定を意味しているようだった。

「人は共通の敵ができると、仲良くなるもんなんだよね。統括も常務には困ってるみたいだな」

「私は統括が嫌いだったわけじゃない。ちょっと苦手だっただけだ」

 苦手だというのが過去形になっていることに、当然エルキドは気づいたが、指摘するのはやめておいた。いきさつや事情はどうあれ、仲良きことは美しい。

「その常務は次官を辞めた直後に管理局に来たの?」

「それは知らない……いや、そういえば、知りたくもないことを教えてくれたな。自分は管理局に来る前は、総合……情報統制局? とかいうところにいたとか」

「総合情報統制局……ちょっと聞いたことがないが、たぶん保安省所管の法人だろうな」

「次官を辞めた後、そんなあちこちに移るものなのか?」

「保安省出身なら、保安省所管の法人を次々に渡り歩くようなのがいる。その目的は、退職金らしいな」

「ちょっと勤めて辞めても、退職金は出ないだろ。出てもすずめの涙だ」

「それがどういうわけか、そういう連中は荒稼ぎできるようになっているらしい。彼らはいきなり管理職とか理事とかだろ。退職金は勤続年数だけじゃなく役職も計算に入ってるんじゃないの?」

 グラディアは不愉快そうにうなる。

「彼らを羨むわけではないが、ちょっとおかしくないか?」

「そういう悪しき習慣は、先王の負の遺産だな。そういうことを、クリスさんが頑張って正そうとしてるんだけど」

 にやお、と玄関のほうから声がした。ミイちゃん、とグレイスは席を立ち、夜遊びから帰ったミイを玄関まで迎えに行った。

「ああいう連中が退職金目的にいろんなところを渡るなら、うちの常務もすぐ退職金を持っていなくなるのかな」

「たぶんね。ただ、すぐと言っても二、三年くらいは待たないといけないと思うけど」

「長いな、それは」



 エルキドが白襟職に異動し、システム開発部でアシスタントSEとしてクレオの下で働き始めてから二週間ほどが経つが、彼のことはいまだによくわからない。だがエルキドにとって、よくわからないことはただ新鮮なのであって、不快なわけではない。無理に彼を知ろうとするわけでもなく、エルキドは働いていた。

 白襟職は、青襟色と比べて、危険でない分多忙であった。その中でもSEというのは特に多忙で、深夜までの残業、徹夜、休日出勤は、すべてが日常茶飯事とまではいかなくとも、決して珍しいことではなかった。SEの現場は、パソコンの前だ。現場が危険でないと言っても、過去に過労で倒れたり亡くなったりした人もいたようなので、危険が全く無いわけでもない。

 ずっとパソコンと向き合っているイメージのあるSEは、紙と戦う仕事、とも言われる。資料はパソコンで作るもののそれを印刷して使うことがほとんどで、システム開発部のほとんどの職員の机は、少なくとも引き出しの中は紙でいっぱいになっている。加えて机の上に大量の紙が出しっぱなしになっていたり、足元に紙でいっぱいの複数のダンボール箱が置きっぱなしになっている人も多い。クレオの机も同様で、聞いてみると、設計書だのテスト結果だのマニュアルだのという紙資料でいっぱいになっているそうだ。

 クレオに頼まれて詳細設計書のチェックを行っているとき、システム開発部の作業場に見慣れない男性が入ってきた。クレオと違ってわかりやすい人間だった。社会的地位が高く思い上がっているタイプであることは、その顔つき、表情、歩き方などを見ただけで想像ができた。少なくとも部長、おそらく統括以上の役職だろう。あまり関わりたくないタイプだ。

 クレオの直属の上司である課長が、その男性を見ると、少し大げさなくらいにかしこまって彼に寄って行った。

「オルブライト常務。どうなさったんですか、こんなところへ」

「いや、大した用ではないんだ。私がいても、邪魔ではないかね?」

 そんなことを言われて邪魔だと言えるはずはないのだが、そういうことを聞くあたり、いちおうの気遣いはできているな、とエルキドは思った。

「邪魔だなんて、とんでもございません」

「ならいいんだ。この部署に英雄の息子がいると聞いて、顔を見たくなってね」

 課長が常務を、エルキドの元まで連れてくる。

「エルキド・ワスデイ君です。エルキド君、こちらはマックス・オルブライト常務だ。保安省、わかるよね。そこの事務次官というとても偉い……」

「母から聞いてます」

 マックスは改めて名乗って握手を求めてきたので、エルキドも名乗ってこれに応じた。

「君はずいぶんとできがいいみたいだね。グラディア君が自慢していた」

「母にできないことが少しできるだけです。母にできることは、俺にはできない」

「本人は謙遜するけど、超人的な仕事しますよ」

 エルキドの隣の席のクレオが口を挟んできた。

「バイトなのに、正職員三人分くらい働いてくれます」

「なるほど、たいしたものだな。ときにエルキド君。ちょっと聞きたいんだが、グラディア君……お母さんの、食べ物の好みなんかを、教えてくれないかね」

 ずいぶんあからさまな質問だと思った。グラディアは度々食事に誘われるが断っていると言っていたので、どういう店ならいいのかという話だろう。店とか食べ物の種類の問題ではないことを、本気でわかっていないらしい。

「たぶんグラディアが一番好きなのは、俺が作ったものでしょう。次がグレイス……うちのもう一人の母ですけど、グレイスが作ったものだろうな。それ以外のものは、特に必要がなければ食べようともしないと思う」

 マックスが欲しい答えではないことをわかっていながら、エルキドは答えた。エルキドが作るものの中でグラディアが好きなものというのはあるが、それと似たようなものを出す店を教えても意味がない。

「一番が息子で、次が妻……」

 マックスは不快そうにそう呟いた。さらに、家族、と吐き捨てるように続ける。


 不機嫌になって去ったマックスと入れ替わりに、グラディアが顔を見せた。

「よう、エル」

「あれ、母さん」

 クレオが立ち上がって、グラディアに礼をした。

「どうも、グラディア部長。エルキド君にはお世話になってます」

「いや、こちらこそエルが世話になって」

 グラディアも頭を下げる。

「僕が上だから建前上はそうだけど、実質お世話になってるのはこっちですよ。彼のおかげで、ずいぶん楽させてもらってます」

「役に立てて何よりだ。まあ、エルなら当然かな」

「どうしたの?」

 エルキドが尋ねる。

「許可が出たから外に行かないか?」

 外に行く、とは駆除の仕事に出かけるという意味だ。

「今から?」

 そろそろ日が暮れようとしていた。現場がどこか、目標が何かは知らないが、暗くなるまでにそれを見つけることは無理だろう。

「エルなら暗くても相手の動きは読めるだろ。フレアソウルを一瞬で片付けたって言うから、今日はCランクのヴェロキラプトルを回してもらったんだ。もちろん止めは刺さなくていい。約束だからな。あと直帰するって言ってあるから、終わったらそのまま一緒に帰れる。報告書は……明日私が作ればいいだろ」

「まあ、いいけど。止めを刺さなくていいなら付き合うって約束したし」

「そういうわけでクレオ君、エルを借りていっていいかな」

「まあ、お借りしてるのはこっちですし。エルキド君がいないと終電で帰れるかギリギリになっちゃいますけど、彼に頼ってばっかりいるわけにもいきませんからね」

「ああ、さっき頼まれた設計書のチェックなら終わってる。赤入れて俺の個人フォルダに入れてあるから」

「ほんと?」

 クレオが、サーバ上にあるエルキドの個人フォルダを覗く。

「できたならそのときに報告してくれないと……あれ、こっちのファイルは?」

「次にあんたが作ることになってる設計書。半分くらいしかできてないけど」

 クレオがその設計書のファイルを開き、口を半開きにする。

「今日は早く帰れそうだ」


 ヴェロキラプトルが出たという現場は近所だったが、車を降りて捜索を始めて間もなく、日が暮れてしまった。

「クレオ君とは上手くやってるみたいだな。ずいぶん頼りにされてるじゃないか」

「まあね。ただ、あれが本心なのかどうか、ちょっとわからないんだけど」

「お世辞には聞こえなかったぞ。そう思ってなければあそこまでは言わないさ」

 理屈ではそうなのだが、エルキドには珍しく、今回は理屈で考えることに抵抗があった。

「クレオ君相手だと、いろいろ勝手が違うようだが、グレイスの言うように、君は彼が好きなのか?」

「どうして?」

 グラディアの質問の意図が想像できなかったわけではないが、本人の口から聞きたかった。

「エルは、恋愛をしないと思っていた。そう思って私なりにインターネットで調べてみたんだが、人口の一パーセントほど、そういう人間がいるらしいな。専門用語で、無性愛者、と呼ばれているとか」

ああ、と生返事を返す。

「無性愛者という言葉や概念は知らなかったが、私はなんとなくエルはそうじゃないかと思っていたからいいんだ。ただ、グレイスがな。エルちゃんにはどんないい人ができるんだろうって、楽しみにしてるから」

「うん」

 よくわかっているだけに、グレイスにはどんな言葉で伝えていいかわからないでいた。今でもわからない。

「クレオ君に関しては、グレイスだけじゃなく私も、これがエルの初恋なんじゃないかって、実は期待してる。どうなんだろう」

「彼に対する気持ちは、確かに今まで感じたことのないものだが、期待はしないでほしい。恋愛がどういうものかについては、だいたい理屈で理解しているが、どう考えてもその類の気持ちとは思えない」

「恋愛は理屈じゃないと言うが、エルの理屈はおそらくそういう分野もカバーするからな」

 理屈で説明できないことはこの世にない。現時点で説明のつかないことは、人間がまだそのための知識を得ていないだけであり、原理的に理屈で説明ができないことはありえない。普段からエルキドが主張していることだった。

 野犬の唸り声が聞こえ、それが近づいてきた。暗くて姿は見えないが、エルキドにはその位置がはっきりとわかる。その敵意も。飛び出して襲い掛かってきた野犬の鼻先を、エルキドは鞘に収めたままの剣で強かに叩いた。野犬はキュンキュン鳴きながら、いじけて逃げていった。

「今のは殺すべきだったな」

「指定有害鳥獣じゃないだろ」

「だが、人を襲う。全く戦えない人には危険だ」

 険しくなるエルキドの表情は、幸い暗くてグラディアには見えない。

「非難してるんじゃない。エルは殺さなくていい約束だからな。私のミスだという話だ」

 それでもエルキドにとって愉快な話ではない。自分が手を下すのでなくても、動物が死ぬのは面白いことではない。

「マックス・オルブライト常務、さっき俺に会いに来た」

「何の用で?」

「母さんの食べ物の好みを聞かれたな。どういう店に誘えばいいか考えてるんだろ」

「エルに会いに行くなんて、あいつ……」

「思ったほど感じの悪い人間ではなかったが、確かに好きになれるタイプではないな。母さんが俺とママさん以外の人間に興味がない旨、伝えておいた」

「さすがに気が利くな。感謝する」

「うん。ただ牽制にはなったと思うけど、あれで諦めるとは思えないな」

 もう少し歩いて、目標のヴェロキラプトルを一頭発見する。月明かりで、ある程度その姿は確認できる。後ろの二本足で立つ、ほっそりした大きめのトカゲのような姿。体高はエルキドの身長の半分強程度で、大きいものではない。小型のドラゴンのようなものだが、種としては別物である。体のわりに頭部が大きめで、かなり高い知能を持つと言われるように、大きな脳が詰まっているらしい。

「ヴェロキラプトルの習性くらい、当然わかってるよな」

「知能が高くて、おとり作戦を使う。周囲に複数が隠れてこっちを狙ってるはずだな。たぶんもう見つかってる」

「やれそうか?」

「殺さなくていいんだろ?」

 グラディアはうなずいた。

「私の目的は、エルの戦いぶりを見せてもらうことだ。満足したら私が止めを刺しに出るが、できれば無力化させられればいいな」

「善処する」

 エルキドは耳を澄ませ、見えている一頭以外に、最低で五頭が周囲に隠れていることを確認した。それから、見えている一頭の目の前に飛び出す。その一頭はエルキドを睨みつけ、さらに周囲に隠れていたヴェロキラプトルたちが顔を見せる。新たに六頭、全部で七頭だ。

「手伝うか?」

 木に登ったらしいグラディアの声が、上から聞こえてきた。

「大丈夫」

 この会話に反応するかのように、二頭が飛びかかってきた。エルキドの喉を狙ってきた両方の鉤爪を確実にかわし、すれ違いざまに、うちの一頭に剣を叩き込む。殺意のない一撃であり、致命傷にはならない。一撃を受けて倒れた一頭は立ち上がり、再びエルキドを睨みつける。それから、わずかな間隔を置いて、一頭から三頭ずつ、次々に襲いかかってくる。その動きは素早いが、エルキドは一頭一頭の居場所から武器となる鉤爪の動きまで、すべてを把握していた。近づいてくる相手から、確実に剣で打ち払っていく。後ろから飛びかかってくる相手も、視認する必要もなく叩き伏せる。エルキドはかすり傷一つ負わなかった。

 しばらくやりあううち、七頭のうちの三頭は、倒れたまま動かなくなった。息はある。逃げようとしたのか、エルキドから遠ざかるものが一頭いたが、グラディアが飛び降りて、落下エネルギーを利用して剣で刺し殺した。

「そんなもんでいいだろう。強かったんだな、エル」

 さらに向かってくる三頭、それから倒れている三頭を、グラディアは次々と殺した。二十秒に満たない時間で、七つの命が消えた。エルキドは、その場にしゃがみこんだ。


 グラディアにはどうしていいかわからなかった。息を乱してしゃがみこむエルキドの背中をさすってみる。

「エル……自分で手を下したんじゃなくても、近くで誰かが何かを殺しただけで、ダメなのか?」

「そうみたいだ……」

 グラディアが動物を殺すところを見るだけでも、決して好ましいことではないと思ってはいた。だがここまでショックを受けてしまうとは思わなかった。エルキドを思ってくれるグラディアの手にさえ、赤く染まっているというだけで、嫌悪感すら抱いた。

 銃声が聞こえた。遠くからであるうえ小さな銃声だったが、エルキドには聞こえた。その直後、グラディアが小さくうめき声を上げた。グラディアの顔を見る。彼女の視線は彼女の右の二の腕にあった。ヴェロキラプトルの血を浴びた彼女の腕は、それとは別に、彼女自身の血で染まりつつあった。

 ヴェロキラプトルの死で混乱していたエルキドだが、なんとか一瞬で状況を判断し、狙撃を受けたグラディアを連れて移動した。銃声のあった位置、グラディアの傷の状態から、狙撃手の位置はおおよそつかめる。距離がありすぎてその呼吸音や足音は捕らえられないので、とにかく二発目が飛んでくる前に死角になる位置に移動しなければならない。

 死角になると思われる位置に逃げて数分待機する。エルキドもグラディアも無事なばかりか、銃声自体それ以上は聞こえないため、逃げた場所は正しかったようだ。

「私は、狙撃されたのか?」

「うん」

 グラディアは、傷口を押さえて息を乱している。エルキドはハンカチを出して、傷口を押さえた。傷口は二箇所、銃弾は貫通したようだ。

「なぜだ。一体誰が、そんなことをしたがる?」

「それは今考えてもしょうがない。逃げ切ることを考えないと」

 駆除に出かける際は包帯と傷薬くらいは持ってくるものなので、応急処置を行うことはできた。動物に噛まれたり引っかかれたりした傷でなく、人間に狙撃された傷を手当てすることになるとは思っていなかったが。

「人間に狙われるということは、相手は政府の刺客だろうか」

「闇刺客の可能性もある」

 非合法の、個人でやっている刺客というのもいる。とはいえ政府の刺客である可能性も否定できない。どちらであるにしても、グラディアが狙われる理由には、ちょっと心当たりがない。

 エルキドは安全にこの場を離脱する方法を考える。狙撃手とこちらの距離は離れすぎているため、向こうはこちらに気づかれずにいくらでも移動できる。だが狙撃手というのはあまり動き回るものではないし、エルキドの聴覚に移動する音を捕らわれない距離を保ったままこちらを狙える場所に移動することは困難だ。それ以前に相手は、エルキドの感覚の鋭さをおそらく知らない。ここで夜が明けるまで待つのが得策だと思われた。

「管理局に電話して、朝になったら助けに来てもらおう」

「うちにも電話しておかないと。グレイス、怒るな」

 グラディアが携帯電話で管理局に連絡し、続けてグレイスにも電話する。喚き散らすグレイスが言いたいことを言い終わる前に電話を切ってしまう。

 グラディアが電話を終えてから間もなく、エルキドに猛獣の息遣いが聞こえてきた。ネコ科の猛獣らしいことがわかったので、トラか何かだろうと判断した。手強い相手ではないだろうが、この状況では厄介なことになるかもしれない。近づいてくるにつれ、トラにしては若干違和感があるような気がしてくる。さらによく聞くと、エルキドが知っている獣のものではない唸り声だ。唸り声の主が姿を見せる。エルキドは目を見開いた。

「なんだ、あの獣は?」

「ライオン、だ」

 は、と素っ頓狂な声を上げて、グラディアはその獣を改めて見た。

「エルがネットの写真を探して見せてくれただろ。ライオンにはたてがみっていうのがあるんだ」

 目の前の獣にはたてがみがない。ただ、ライオンからたてがみをとったらこうなるのではないかという姿をしている。たてがみのあるライオンとは一見したところのイメージはずいぶん違うが、よく見れば似た姿とも言える。

「ライオンのメスには、たてがみがないんだ」

「だとしたら、こいつもあんな戦闘能力を持っていると?」

 ライオンは二人を睨みつけて低く唸る。二人に対する明らかな殺意。

 エルキドは剣を抜いて、ライオンに向けて構えた。

「私の話を忘れたわけじゃないだろ。ライオンは私がギリギリ倒せるかどうかだ」

 グラディアがエルキドの腕を引っ張って下がらせようとしたが、エルキドはそれを振り払った。

「もちろんよく覚えている。万全な状態の母さんがギリギリで倒せたような奴だ。右腕が使えない母さんにどうにかできるとは思えない」

「そんな奴を相手にエルがどうしようって言うんだ」

「下がっていろ」

 低い声ながらもこの上なく強い調子で、エルキドは言った。数秒間グラディアが言葉を出せずにいると、ライオンが動いた。グラディアが知っているライオンの速度だった。むしろそれよりやや速いようにも感じる。その常軌を逸した速度で狙いをつけた相手はエルキドであり、グラディアは動くことができなかった。ライオンはエルキドと接触し、そのまま通り過ぎる。エルキドはライオンの爪を確実に剣で受け止めつつ受け流しており、怪我一つしていなかった。

「頼むから離れていてくれ」

 グラディアは、黙ってエルキドとライオンから距離をとった。その距離はライオンからすれば一瞬で詰められる距離なのだが、おそらく幸いと言うべきことに、ライオンの狙いはもっぱらエルキドにあった。

 エルキドは、冷静すぎるくらいにライオンの能力を分析していた。さっき飛びかかってきたとき、静止状態から、〇・五秒に満たない時間で五十メートル以上の距離を詰めてきた。少なく見積もってもその間の平均速度は音速の三分の一、最高速度はその倍に達するはずだ。加速度を考えると恐ろしいことになる。さらに、わずか〇・五秒で最高速度に達したとは考えにくく、今見せた以上の走力を持っている可能性が高い。

 それでもエルキドは落ち着いていた。対応できない速度ではないからだ。

 ライオンはもう一度飛びかかってきた。今度はエルキドは、攻撃を受け止めることに剣を使用しなかった。爪を受け止める必要はなく確実に回避できる。回避してすれ違った瞬間に、剣を胴体に叩き込む。有効打にはならなかったものの、おそらくその一撃のせいで、次にライオンが行動を起こすまでに若干の時間が空いた。ライオンが躊躇するような感覚を持ち合わせているのかはわからないが、躊躇しているように見えた。

 しばらく唸りながらエルキドを睨んでいたライオンは、エルキドのほうではなく真横に走り、姿を消した。逃げたわけではなく、ライオンはエルキドの周囲を走り回っていた。ライオンがこうして相手を攪乱しようとすることは、グラディアから聞いている。しかしエルキドは、その駆け回る音だけでライオンの位置を、正確に捉えていた。ライオンの速度は最高では音速近かったが、その速度のせいで聞こえてくる音と実際のライオンの位置がずれていることも計算に入っている。ライオンが長時間走り回って攪乱しようとするほど、エルキドはその行動パターンを学習することができ、ライオンの位置どころか飛びかかってくる瞬間まで、先読みできるようになった。

 ライオンは、ある程度の時間走り回っては突然襲い掛かってくることを何度も繰り返した。しかし何度繰り返しても爪も牙もエルキドの肌どころか服にすら触れることができない。エルキドは、ライオンが近寄ってきた瞬間に剣を叩き込むことができるのだが、力不足のせいで有効打にはならない。顔面を剣で殴っても、多少ひるませただけで、追い払うことはできなかった。

 やりたくはなかったが、仕方がなかった。

 次にライオンが向かってきたとき、エルキドは、その攻撃を確実にかわしつつ、剣で目を狙って突いた。ライオンの目に刺さった剣を、エルキドは手放してしまう。目に剣が刺さったライオンは少しの間のたうち、それから剣が刺さったまま逃げていってしまった。

「私がライオンと戦ったとき、全身傷だらけにされた。まさに辛勝だった」

 グラディアは呆然として近寄ってきた。

「それは聞いた」

「楽勝、だったみたいだな」

 エルキドの疲弊は、相手に致命傷を与えることを厭悪したからであり、苦戦したからではない。

「得意不得意は誰にでもあるだろ。速度が売りのライオンは、母さんにとっては苦手でも、俺にとってはやりやすい相手だったんだ」

「それにしても、戦闘が苦手だという人間にできることじゃない。君の実力は、どう考えてもプロの青襟職の平均を大きく超えている」

 得意な相手は限られるとはいえ、戦闘能力については、確かに青襟職として十分に通用するものだろう。しかしエルキドには相手を殺すことを極端に忌避するという欠点がある。この欠点を含めて、エルキドの実力なのだ。つまりエルキドには、プロの青襟職としての実力はほとんどないと言える。



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