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フェイタルアクション  作者: きりたんぽ
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アルフレアの王

 管理局に戻って手当てを受けた後に、グラディアは統括に業務報告をしに行った。体中のあちこちに絆創膏が張られたりガーゼが当てられたり包帯が巻かれたりしているグラディアを見て、めったなことではおどろかない統括が目を見張った。

「あなたに大怪我を負わせたのは、まさかドラゴンではありませんよね」

「大怪我ではありません。全身に浅い傷を受けたので、多少大げさな見た目にはなっていますが」

「では、あなたに浅い傷を負わせた化け物は、一体何者でしょう?」

「ライオンと思われる動物に遭遇しました」

 統括は、グラディアの目を数秒見た。冗談ではないことを確認したらしい。

「仮に生き残りがいたとして、僕の知るかぎりでは、ライオンにはあなたを傷つけるだけの力はないはずですが」

「詳細は不明ですが、瞠目すべきはその速度でした。時速何百キロとかじゃなく、秒速何百メートルってレベルですね。今までに見たどんな動物よりも速い……いや、ネクベトゥスがいるか」

 統括は眉をひそめ、納得のいかない表情を見せる。

「ネクベトゥスは鳥ですからね、また別物かと。陸上の動物でその速度というのはちょっと……」

「後で報告書を出しますが、死体を回収しての調査を待ったほうがいいかもしれませんね」

「そうですね、この件は保留にしますか。ただ、それが本当で、そのライオンらしきものが増えているのだとしたら、えらいことですね」

 恐ろしい想像だが十分にありえることだ。一頭いたということは、同じ種の動物がほかにいくらでも存在し得るということだ。

「ああそうだ、息子さんのことはお聞きになりましたか?」

「エルが、どうしました?」

「仕事中に倒れられたそうです。大怪我なさったわけではないそうですし、命には別状ないようですが」


 駆け足に近い早足で医務室に入ったグラディアは、ベッドで眠るエルキドの横に座っているライオネルに食ってかかった。

「どういうことだ、これは」

 軽くではあるが、ライオネルの胸倉をつかんですらいた。気圧されるライオネル。

「寝てるだけですよ」

「現場で倒れたと聞いた」

「確かにそうですけど、怪我はしてません。全くの無傷です」

 グラディアは、眠るエルキドの体を確認する。確かに怪我はない。絆創膏一つ貼っていない。

「そもそも、現場に出る以上はある程度のことは覚悟してもらわないと。アルバイトだってそれは同じ……」

「ああそうだ。だから、アルバイトに何かがあったら、指導員にもある程度のことは覚悟してもらわないとな。現場に出てるんだから」

 グラディアはエルキドの寝顔を見つめながら言い、言い終わってからライオネルに一瞥だけをくれた。ライオネルはその冷たい視線にびくりと震える。

「だから、何もありませんてば。ご覧のとおり、怪我はありません」

「では、なぜ倒れる?」

 ライオネルは現場で起きたことを話した。

 エルキドは戦闘が苦手だとライオネルは聞いていたが、現場でのエルキドを見ているとそうは思えなかった。決して体力や筋力に優れているわけではない。おそらくそれらは、高校生の中では平均以下だろう。だがいざ戦闘になると、まるで相手がどう動くのかを完璧に予測できるかのような動きをする。さらに、剣さばきなどの技術は恐ろしいほど正確で、数日前のハチの駆除の際には、一振りで平均二、三匹のハチを落とし、しかも空振りが皆無という神業を見せてくれた。それはグラディアにすら不可能な芸当であった。

 今回の相手は毒を持つ大きなトカゲのフレアソウルだったが、見ていて安心できる戦いをしていた。おかしいのは、それが明らかに可能な状況でも止めを刺そうとしないことだった。ライオネルが何度目かに注意した後、かなりためらいながら止めを刺したのだが、そのときの表情は妙に思えるほど辛そうだった。その直後、三頭のフレアソウルが一度に茂みから飛び出してきた。フレアソウルが群れを成すことは非常に珍しいのでライオネルはおどろいた。だがエルキドは、それまでのもたついた戦闘が嘘だったかのように、全く無駄のない動きで、剣をたった二振りしただけで、三頭の動脈を断ってしまった。その返り血を浴びた直後、エルキドは失神してしまった。

「その気になれば戦闘自体は相当できるみたいなので、Cランク以上の動物を駆除する力があると思います」

「フレアソウル三頭を、一秒もしないうちに皆殺しに?」

 エルキドにそれだけの戦闘能力があったことは意外だったが、力や速度ではなく、技術や洞察力に頼って戦うところは、なんとなく彼らしい、とグラディアは思った。

「ですが、戦闘後に毎回ではないにしろ時々……いや、たとえ稀にだって気を失ってしまうのでは、仕事にならないですよ。気を失わないにしても、相手を殺すときはいやそうなのを通り越して辛そうな顔してるし。部長の息子さんに失礼ですが、この仕事には向いてないんじゃないでしょうか」

 グラディアは、眠るエルキドの顔を見つめた。


(たね)の持ち主は面白いけど、君は特に変わっているね」

 そんな声が聞こえて意識が戻った。

「種って何だ?」

 エルキドは目を開いた。特徴的な純白の頭髪が目に入る。

 秘密、とクレオは言った。

「独り言だから気にしないで」

「あんたも面白いな」

 クレオのことは本当にわからない。種がどうこうという話は独り言だというが、その意味はまったくわからなかった。

「現場で、何があったの?」

「べつに、何も」

「気を失っちゃったんだよね」

「なぜ気を失ったのかはわからない。ただ駆除のとき、動物を殺すときは、すごくいやな気持ちになる。一頭でもものすごくいやなのに、急に襲ってきた三頭を、一瞬で……」

 エルキドは自分の掌を見つめる。

「生き物を殺すことが、命を奪うことが、いやだということ?」

「そういうことかもしれない。ただ、なぜいやなのかが、わからない」

 君もなのか、とクレオはきわめて小さな声で言った。エルキドにはこれが微かにだが聞こえ、さらに唇の動きと合わせて何を言ったのかがわかった。

「俺もってことは、ほかにもいるのか?」

 クレオは目を見開いた。今度ばかりは、彼がおどろいていることははっきりとわかった。

「君は、何かの異能者なのか?」

「……秘密」

 さっきのクレオの「秘密」に仕返しするかのように、エルキドは言った。

「まあ、異能の中には人に言えないものもあるからね」

「俺はまだ、自分が異能者だということを認めてない」

「ああ、そうだね。まだ認めてないね」

「あんたのこと、教えてくれないか。言える範囲で、何でも」

 普段は聞かなくても相手のことはよくわかってしまうし、そのせいなのか他人に興味を持つことはほとんどない。だが、と言うよりだから、クレオのことは知りたかった。

「僕に興味があるの? そんなに面白い話はできないけど……名前はクレオ・デレオ・スミス、これは言ったよね。歳は、二十九かな。実はこの国に来たのは五年くらい前で、ここで働き始めたのはそれとほぼ同時」

「そのわりには、アルフレア語が堪能だな。発音に全く訛りがない」

 エルキドは、言語に訛りがあれば、それが些細なものでもわかる。どんなにアルフレア語が堪能でも、それが母国語でない者については、すぐにわかるはずだ。

「褒め言葉として受け取っておこうかな」

「アルフレアの前にはどの国に?」

「エスシーマとか、モーソンラードとか、あとジポンとか」

「それらの国の言語に関しても、いちいち完璧なのか?」

「え? ……ああ、うん、まあ」

 エルキドは首をかしげた。クレオのことなので確かではないが、どう見ても嘘をついているようにしか見えない。それらの国の言葉を聞いてみれば確認できたかもしれないが、あいにくそれらのうちのどの国の言語も、エルキドは完璧には(かい)せない。

「言語を完璧に身につける異能のようなものがあるんだろうか」

「さあ。あるのかな、そんなの」

 クレオは他人事のように言った。クレオの言うことは、どれも本当である保証がない。歳や名前だって偽っている可能性がある。

「どうも秘密が多そうだな、あんた」

 クレオは笑った。笑ってごまかしているようだった。

 クレオの笑い声に混じって、医務室の外から足音が聞こえた。馴染みのある歩調だった。グラディアが顔を出す。

「起きていたか、エル。……君は」

 クレオに目を留める。クレオは立ち上がって、グラディアに一礼をした。

「クレオです。以前、一度だけお目にかかりました」

「そうだったな。エルを看ていてくれたのか」

「話をしていただけですけどね」

「母さん、なんで怪我してるの?」

 一つひとつの傷は浅いようだが、全身に創傷があるようだ。戦闘で負った傷としか思えないが、彼女にこれだけの傷をつける動物には、あまり心当たりがない。

「詳しいことはうちで話すけど、ライオンが出てさ」

「ライオン?」

「ライオンは絶滅してる。残ってたとしてもそんなに強くはないはず、だろ?」

「もうひとつ」

「ん?」

「ママさん、怒るよ」

「あはは。覚悟してる」

「君の家は二母(にぼ)家庭か」

 クレオが口を挟んできた。

「そうだけど?」

「いいよな、そういうの」

 エルキドとグラディアは首をかしげ、目を合わせた。珍しくもない二母家庭の、何にそんなに感じ入っているのだろうか。

「僕は、席を外すね。親子水入らずで」

「ああ、どうも」

 グラディアは礼を言ったものの、クレオの意図がよくわからず、礼を言うのが適切だったのかどうかもエルキドにはわからなかった。

 ああそうだ、と去り際にクレオは言った。

「すでにおわかりとは思いますが、彼は動物を殺すのには向いていません。白襟職に異動させてあげてください。できれば僕が彼と働いてみたいな」

 クレオが出て行くのを見送る。彼がいなくなってからグラディアは、大丈夫か、と声をかけた。

「あまり気分良さそうじゃないな。私よりよほど重傷に見える」

「まあね」

「ごめん。エルがバトル嫌いだってことは何度も聞いてたけど、まさかそこまでとは思わなくてな」

 グラディアが、エルキドに戦闘を無理強いしたことを強く悔いていることが、エルキドにははっきりとわかる。わかってしまうことは辛いことだった。

「気にしないで。俺も知らなかったから」

「どういうことだ?」

「実際に動物を殺してあそこまでいやな気分になることは、最初の仕事のときに初めて知った。あの後すぐにそのことを話せばよかったんだけど、言いそびれちゃって」

「いや、私が気づくべきだった。それにエルは、自分がするべきことくらい自分でわかっているんだから、私があれしろこれしろ言うのは、いらんお節介なんだろう」

 こういう言い方をされると、なんだか見放されたような気がする。グラディアにそういうつもりがないことは十分わかっているのだが。

「いいよ、親なんだから。母さんの言ってることがおかしいと思ったときは、おかしいって言うから」

「そうだな。ただ、無理にとは言わないが」

「何?」

「できれば、今度一緒に現場に出てみてくれないか。エルが意外にバトルできるって話を聞いて、戦いぶりを見てみたくなった。相手を殺さなくていいからさ」

「殺さなくていいなら」

 エルキドは意識的に微笑んで見せた。

「そうか、ありがとう。今は、もう少し寝ていろ。今日は定時で仕事を切り上げるから、一緒に帰ろう。あと一時間ちょっとだな」

「無理しなくていいよ」

「いや、仕事と言っても楽しくないことばかりだから、たまには早く帰りたいんだ。エルのことはいい言い訳になる」

 グラディアはそう言って笑った。グラディアの言い分は、半分本当というところだろう。今も、忙しいのを押してここへ来てくれたようだし、溜まっている仕事を少なからず気にしていることくらいは、表情を見なくてもわかる。だがあまり彼女に気を遣わせたくないエルキドは、大人しく言うとおりにすることにした。

「今日の駆除の事後作業は同行したメンバーにやってもらって……あ」

「ん?」

「いや、その同行したメンバーに食事を奢る約束をしていたんだが、まあ、後日でいいか」

 ライオンについての報告書がまだ完成していないので、それだけ仕上げてくると言って、グラディアは戻っていった。



 エルキドとグラディアが一緒に帰宅すると、玄関には他人の靴が一足あった。エルキドはやや顔を曇らせ、グラディアはかなり険しい表情になる。

「……エル」

「上の部屋の電気が点いていたな」

 一階の居間の明かりが消えていて、代わりに二階の明かりが点いていることは、外から見てわかった。その時点でエルキドは心配したが、靴を見て案の定だとわかった。

「今回は、ただの友達では……」

「ただの友達と二階の部屋にこもることは考えにくいな」

 居間へ行って、明かりを点ける。それまでの間だけで、数度に渡って、グレイスと知らない男性の、あえぎ声やらくすぐったそうな笑い声やら荒い息遣いやらが、エルキドには聞こえた。グラディアには聞こえない程度の声だったのは幸いと言えないことはないが、それは気休めにしかならない。

「母さんのマシン、使うよ」

 ああ、というグラディアの返事は、明らかに不機嫌だった。

 居間のテーブルに数年間居座っているグラディアのノートパソコンを、エルキドが起動させる。グラディアはスーツのまま、重力に任せて勢いよくソファに尻を落とす。その隣で寝ていたミイが起き上がり、グラディアに擦り寄ってみいみいとうるさく鳴いた。餌を求める鳴き方だったので、エルキドが台所に向かうと、ミイはエルキドについてきた。ミイは自分の皿の前でまたみいみいと鳴き、エルキドが餌を注いでやると勢いよくがっついた。エルキドは餌を食らうミイの頭やあごの下を撫でてやり、居間に戻るとテレビを点けた。

 グラディアのいらついたため息を背後に、エルキドはパソコンをいじる。インターネット上で外国のウェブサイトからライオンの写真を見つけ、グラディアに見せる。

「母さんが駆除したのって、こういう奴だった?」

「ん……ああ」

 グラディアの反応は鈍い。面倒くさそうに体を起こし、パソコンのディスプレイを覗く。

「まあ、こんな感じだったな。頭の周りの髪の毛みたいな……たてがみって言うのか、そこはこの写真よりももう少し明るい色をしていたが。あと、全体的に少し違和感が……私が会ったのは、もう少し筋肉質だったような」

「これは残ってる骨とかの資料から再現されたものだから、多少は実際とは違うかもしれない」

「たぶん、私が会ったのと同じ種類の動物だと思う」

「やっぱりライオンなのか」

 エルキドは、インターネットの写真を説明した文章を読んでみた。やはり以前エルキドが聞いたとおり、ライオンの身体能力はさほど驚異的なものではないらしい。走行速度は時速六十キロメートル程度。家路でグラディアに聞いた、音速近い速度というのには、到底及ばない。

「それってエス語か?」

 説明文をちらりと見たグラディアが聞いた。

「うん」

「なんて書いてある?」

 エルキドは、文章の内容をかいつまんで話した。最新の学説における、ライオンの能力、生態。最強の獣とのイメージは誤りであることなど。

「最新の学説というのはあてにならんものなんだな」

「そんなことはないと思う」

「では、私が嘘をついているのか?」

 不機嫌なグラディアの声は低い。

「確かに歴史上、学説が間違っていることは、これでもかというほどあった。でも今の技術と知識でちゃんと研究して出された答えが、そこまででたらめに間違ってることは、かなり考えにくいよ。ライオンについては、ごくわずかとはいえ、実際にライオンと同じ時代を生きた人の記録も残ってる。その記録が嘘っぱちで、かつ学説が完全に間違っているなんて、絶対ないとは言わないけど、たぶんない。ただ、母さんが嘘をついているとも思わない」

「つまりどういうことだ? 結局ライオンは強いのか? 弱いのか? そもそも、絶滅したはずの動物がなんで生きて動き回ってるんだ。ライオンが絶滅したのは千年前のホロコーストのときだって、エルは言ってたよな? 実は生き残っていた動物が、千年間も発見されないなんてこと、あるものなのか?」

エルキドは考え込んだ。少し考えて、エルキドがパソコンのキーボードを叩く。

「クローン?」

 検索ワードとして打ち込まれた文字を、グラディアが読む。

「どういう意味だ?」

「厳密な定義は少し違うけど、遺伝情報が全く同じ生物、だと思っていい。別の個体でありながら、全く同じ性質を持っている」

「そんなことがありえるのか?」

 少しだけ考えて、グラディアは言った。

「たとえば、一卵性の双子というのは遺伝情報は百パーセント同じだ。あと、無性生殖をする生物は、自分と百パーセント同じ遺伝情報を持つ生物を新たに生み出す。分裂で増える単細胞生物なんかがそうだな。これらは天然のクローンといえる」

「そうなのか。……天然の? わざわざ天然の、という言い方をするのは、人工もあるからか?」

「うん、いい読みだ。そういう研究をしている国がいくつかある。成功したって話はまだ聞いたことがないけど」

 エルキドはいくつかのウェブサイトを巡って、クローンに関する情報を探しては素早く読んでいった。

「ネットでは見つからないけど、もしかして、成功したことを秘密にしている国があるかもしれないな」

「ライオンはそうやって生み出されたのか?」

 エルキドは首を横に振った。

「わかんない。絶滅動物が現存することはそれで説明できても、オリジナルと全く違う能力を持っている理由がわからない。あと、なんでアルフレアにいるのかも」

「そうか、クローンだとすれば、全く同じ性質だから、あんなに強いわけがないんだよな」

「あとは、遺伝子を編集して別の性質を持たせるとか」

 エルキドは顔をしかめていた。

「それで、ライオンを強くできるのか?」

「それには、遺伝子の塩基配列とその意味を解析して、それを書き換える技術を……いや、ちょっと考えられない。SFすぎる」

「私にはよくわからないが、今の科学でも難しいことなのか?」

 エルキドは頷いた。

「将来的には実現するかもしれないけど、途中の研究成果の発表もしないで、秘密裏にそんな技術を確立している国だか組織だかがあるんなら、俺はものすごくおどろく」

「ということは、まずありえないということか」

 エルキドとグラディアが眉根にしわを寄せていると、二階の引き戸が開く音がした。階段を下りてくる二人の足音がして、それから二人の別れの挨拶の言葉が聞こえた。男性はそのまま帰ったようで、グレイスは居間に顔を出した。

「二人とも、帰ってらしたんですか」

「ああ」

 低く唸るように返事をしたグラディアは、グレイスと目を合わせようとしない。

 グレイスのほうは、グラディアの包帯や絆創膏を見て、慌てて寄ってきた。

「グラディア様、これどうなさったんですか」

 グレイスの浮気にいらだつグラディアと、グラディアの怪我を許さないグレイス。エルキドはパソコンのほうを向いたまま顔をしかめた。

「ちょっと脱いで、脱いでください」

 グレイスは強引にグラディアのスーツの上着とネクタイ、ワイシャツを剥ぎ取って彼女の上半身を下着姿にした。

 スーツに隠れていない部分だけで数箇所に怪我がある。怪我がそれだけでない可能性は、グレイスにだって十分想定できる。案の定全身に怪我を負っているのを見て、グレイスの呼吸が荒くなる。

「何なんですかこの怪我は!」

 錯乱していると言ってもいい状態のグレイスは、叫び声に近い声で言った。

 グラディアは答えなかった。グラディアの機嫌が悪いこと、ライオンの話をしてもグレイスにはわからないであろうこと、危険な駆除業に対してグレイスが普段からあまりいい顔をしていないことなど、理由はいくつかある。

「お仕事でも危険なことはなさらないって、約束してくださいましたよね。ウィータに出るような動物を相手に、怪我一つだってしないって、おっしゃいましたよね。なのに何なんですかこれ。どうしてこんな大怪我なさってるんですか」

「普通はウィータにいないような、少しだけ危険な動物が出て、ちょっと戸惑って怪我しちゃったんだ」

 グラディアの代わりにエルキドが答える。

「傷はどれも浅くて、見た目ほど重傷じゃない。病院に行く必要もないくらいなんだ。大丈夫だよ」

「でも……私のものなのに」

 二人に聞こえるか聞こえないかくらいの声でグレイスは言ったつもりらしいが、エルキドにははっきりと聞こえた。

「傷は治るよ。元通りにはならない場所もあるかもしれないけど、向こう傷は英雄の勲章。ママさんから見ればチャームポイントじゃないのか」

「チャームポイント……」

 グレイスが、グラディアの体をなめ回すように見つめる。完全に納得した様子ではなかったものの、それ以上文句を言うことを、グレイスは控えた。

 グラディアは急に立ち上がり、残ったスーツのズボンも脱いでグレイスに放った。

「風呂入ってくる」

「そんなお怪我で? 大丈夫なんですか?」

「夕飯の用意しとけ」

 グラディアの態度と言いようにグレイスを口を開いたが、そこから言葉は出てこなかった。

 居間から出ようとしたグラディアは、立ち止まり、首だけ振り返った。

「客が来ていたな。上で何をしていた?」

「何って、仲良くしてました」

「仲良くとは……」

 グラディアはそこで言葉を止め、そのまま風呂場へ行ってしまった。

 グラディアを見送ったグレイスが、エルちゃん、と声をかける。

「グラディア様、今ご機嫌ななめ?」

「うん、よくわかったね」

「お仕事で何かあったの? だからあんなお怪我をなさってるの?」

「母さんは機嫌が悪くても、無関係の人間にはめったに当たり散らさない」

「私、当り散らされたよね?」

「そう思うなら、ママさんに原因があるということだな。心当たりない?」

「ないよ」

「こういうことは何回かあったろ。母さんの機嫌が悪いとき、ママさんが決まってしていること、何かあるんじゃないの?」

 エルキドはそう聞いたが、グレイスが答えを出せることを期待してはいない。案の定彼女は、エルキドが声をかけるまで唸りながら首をひねるばかりで、何もわからないようだった。

「気が向いたらでいいけど、今度『嫉妬』という言葉を、辞書で調べてみるといい」

 それは、グレイスの中には存在しない概念であった。



 エルキドが学校から帰ると、グレイスが眉間にしわを寄せて電話をしていた。彼女が電話対応で困っていることはそんなに珍しくないので放っておこうとしたら、声をかけられた。

「なんだかへんな人から電話なんだけど。こくおうしょうとかなんとか言ってるんだけど、よくわからないから出てくれない?」

 エルキドは受話器を受け取り、もしもし、と声をかけた。

「あなたは」

 エルキドは目を見開いた。通常ありえない声だったが、エルキドが一度でも聞いたことのある声を聞き違えることのほうが、よりありえない。

「クリスさん」

 エルキドはついそう呼びかけた。

「……失礼、国王陛下ですよね」

「一言声を聞いただけで私だとおわかりか」

 感嘆の声。

「俺は……いや、私は、陛下のファンですから」

「お気遣いなさらなくていい。どうか、自然な言葉遣いで。失礼だが、あなたは?」

「エルキドと申します。今電話に出てた、グレイスの息子の。……あ、母は何か失礼なことを言いませんでしたか?」

「いやいや、なかなかユニークなお母様だ。笑わせていただいた……と申し上げては失礼か」

 失礼かと言いながら、彼女は微かにだが笑い声を漏らしていた。エルキドは目を閉じて、ゆっくりと首を横に振る。

「グレイスさんの息子さんということは、グラディアさんの息子さんでもあるわけだな」

「ええ」

「今回はそのグラディアさんに、アルフレア国王賞を呈上致したく思い、お電話差し上げた」

 アルフレア国王賞を受け取れるのは、前人未到かつ今後達成される見込みが小さい、国民・国・文化のいずれかに貢献する功績があった人物だ。グラディアがこれを受け取れる理由は、エルキドでなくてもわかるだろう。

「有害鳥獣の駆除に関する件ですか」

「うん。彼女の功績はすばらしい。受賞していただけるだろうか」

 エルキドは少しだけ考えた。それはほんの一瞬であり、クリスには考えたことはわからないはずだ。

「お断りする理由はないと思いますが、いちおう本人に確認しないと」

 エルキドは嘘をついた。

「うん、そうだな。ではよろしくお伝えいただきたい。明日、もう一度お電話差し上げるということで、よろしいだろうか」

「できればでいいんですが、今よりもう少し遅い時間にお願いできますか。グラディアがいる時間がいいと思うので」

「当然お忙しくていらっしゃるだろうからな。今日は配慮が足りなくて申し訳ない」

「いえ、とんでもない」

 電話を切ったエルキドは、意図せずため息を漏らした。

「クリスさんと話しちゃった」

「クリスさんて誰?」

 横で電話を聞いていたグレイスは、やや口をとがらせ、首をかしげた。


 帰宅したグラディアにアルフレア国王賞のことを話すが、エルキドの予想通り、彼女はあまり嬉しそうな顔をしなかった。

「私はよくわからないんだが、その賞はどの程度のものなんだ?」

「賞が設けられたのは百八十年くらい前で、これまでに受賞したのは十四人。母さんが受ければ十五人目だな。ちなみに、肉体労働の功績で受けるのは初だ」

「百八十年で十四人とは、けっこう大きな賞じゃないのか?」

「けっこうというか、アルフレアで最高の賞だよ」

 グラディアは表情を曇らせる。

「それは、受けてしまえば今以上に英雄視されるようなものではないのか」

 グラディアは、自分がアイドルのような存在になって顔を売ることが管理局での仕事になり、今以上に現場の仕事がなくなる心配をしている。

「まあね。ただ、大きな賞だけに、もし蹴れば大きな話題になるだろうな。受賞以上の騒ぎになるかも。今まで、打診を受けて断った人はいないし」

 グラディアは頭を抱える。

「もしかしたらだけど、受賞することで逆に駆除の仕事が舞い込むかもよ。だって駆除の業績で受賞するんだもん。受賞することでそれ以降駆除をしなくなるなんて、向こうにとって授賞する意味ないだろ」

「それもそうか。……うん、たぶんそうだな。エルが言うんだから間違いない」

「俺、もしかしたらだけどって断ったからね」

 受賞してグラディアの現場の仕事が増える見込みは半々と言ったところだが、受賞しない方がグラディアに都合のいい結果になる可能性は低い。

「受けるとなると、パテルまで出張ることになるんだろうな」

「そうなのか?」

「授賞式の会場は王宮のどこかになるだろうし、まさかクリスさんがウィータまで来ないだろ」

「私一人で行くのか? 家族で行っていいのか?」

「それは明日の電話で聞いてくれ。ただ、王宮内はわからないけど、パテルまで家族で行くのは勝手だろ」

「家族で……」

 グラディアはグレイスを見た。エルキドはその視線を追う。彼女は話に参加せず、あぐらをかいた膝の上に丸まっているミイの体を撫で、ミイちゃんミイちゃん言っている。やがて彼女は、二人の視線に気づいた。

「何?」

「君はパテルまで行く気は……ないよな」

「何しに行くんですか?」

 グレイスは首を傾げる。

「少しは話を聞いててくれ。母さんが賞をもらうことになったから、授賞式に行くんだ。まだたぶんだけど」

「私はやだよ」

「だろうな。ではグレイスは留守番か。エルは?」

「俺は行きたいな。クリスさんとまた話せるかもしれないんだろ」

「エルはクリスさん大好きだな」

 グレイスは、不安そうな表情で、エルキドとグラディアの顔を交互に見つめた。

「もしかして、私を一人で置いて行こうとしてます?」

「私が行かないわけにはいかんし、エルは行きたがっている」

「夜までにお帰りになるんですか?」

「パテルってどこにあるか知ってるか? 片道で半日かかる」

 それを聞いてもグレイスは反応しない。不安そうな表情でやや首をかしげたままだ。

「ママさんに遠まわしな言い方してもだめだよ。行きに一日、向こうでの式その他で一日以上、帰りに一日。最低でも三日は帰ってこられない」

「三日? 絶対いやです」

 予想通りの反応。ミイが、にやお、と文句を言いながら、グレイスの膝から降りる。

「グレイスも一緒に来ればいいじゃないか。ナナ様にも会えるかもしれないぞ」

「ご馳走も出るだろうしね」

 ナナ様だのご馳走だのと聞いて、グレイスが興味を示す。

「ナナ様とお話できます?」

「わからん。できるかもしれんな」

「ご馳走って、エルちゃんのお料理より美味しい?」

「わからないけど、普段食べられないようなものが出るだろうね」

 行こうかな、どうしようかな、などと、しばらくグレイスは口の中で言葉を転がしていた。



 予告どおりにかかってきたクリスからの電話で、グラディアは賞を受ける意思を伝えた。

それから数日後に、クリスの直筆の招待状が、家族三人それぞれに宛てて届けられた。エルキドは学校を、グラディアは管理局を休み、ミイの餌を多めに用意して、三人は新幹線でパテルに向かった。

 パテル市内を歩く人の数は、グラディアやグレイスの想像を絶するものであった。パテル市の人口と面積、テレビでたまに見られる市内の映像から、ある程度の様子を想像できていたエルキドも、実際の光景には圧倒される思いだった。グレイスが携帯電話を持っていることを改めて確認し、失くさないように、エルキドとグラディアがしつこいくらいに念を押す。万が一はぐれて、電話も失くすようなことがあったら、近くの人に聞くようにも念を押す。そのときは、これから行くホテルや、王宮の場所を聞けばいいだろう。

 三人がパテルに着いたときには暗くなり始めていて、王室が用意してくれたホテルに着くころには日が沈んでいた。夜になっても多くの人間が町を歩いていて、また町の明かりが太陽に取って代わっていることも、三人には新鮮だった。

 ホテルに一泊し、翌日の九時過ぎに王宮を訪問する。王宮の周囲は比較的通行人が少なく、またほかの住居やビルなどもあまり見られない。王宮の近くで、住んだり商売をしたりするのは失礼ということもあるのだろうが、それ以前にこのあたりの土地が、王室かクリス個人の所有なのかもしれない。

 王宮は巨大で、門の近くまで来ては、とてもそのすべてを視界に収めることはできない。門の横の塀には大理石の看板が埋め込まれていて、『関係者以外立入禁止 許可なく侵入した場合、重不法侵入罪となる場合があります』と少し怪しいアルフレア語が書かれていた。王宮の正面、出入り口の上のほうには、単純化された剣と杯を組み合わせた絵が彫られている。アルフレアの紋章だ。これをしばらく眺めていたら、首が痛くなった。

「こんな大きいお(うち)、誰が住むの?」

「王だろ、王宮なんだから。ただ、家というより会社とか、事務所みたいなものじゃないのか? 家じゃないだろ」

「いや。ほかの国は知らないけど、アルフレアの王宮は、国王の職場でもあり、住居でもある。この建物が丸ごとクリスさんの家だって言って、間違いじゃない。クリスさんの家族以外に住んでいる人はいるし、それ以外にもたくさんの人がいるだろうけど」

 グラディアはエルキドの言葉を受けて、少しの間宙を睨んで、言った。

「それは、自分の家に当然のように他人がいたり、常に職場で寝泊りしているということになるのか? 羨ましくない生活だな」

「王族一人ひとりに、専用の部屋が一つや二つはあるだろうけど、一般の人間に比べて、プライバシーはあまりないだろうな」

「そういうのって法に触れないのか? 国民はプライバシーの権利とやらを持ってるんだろ?」

「王族は法的に国民じゃない」

 まじ、と呟いてグラディアは口を半開きにした。

 門の外には、関係者以外立入禁止とあるが、特に見張りのような人はいない。招待されている身なので遠慮なく門から入り、王宮の入り口をくぐる。入った正面には受付が男女一人ずつ座っていて、用件を聞かれたので、グラディアが三人分の招待状を見せ、名乗った。

「お待ちしておりました、ワスデイ様。ただ今案内の者が参りますので、少々お待ちください」

 少し待って案内の男性が現れ、彼に客室まで通された。

「申し訳ありませんが、しばらくの間こちらでお待ちください。お待ちの間は、どうぞお好きなようにおくつろぎください」

 案内の男性が去った後、グレイスは彼の言葉どおり、ソファに座ってテレビを点けて、テーブルに置いてある高そうなチョコレートを食べ始めた。エルキドとグラディアは、そんな彼女に苦笑しつつ、遠慮がちにグレイスの向かいのソファに座る。

「広い部屋だな」

 部屋を見回して、グラディアは言った。住み慣れた家の居間の、優に五倍以上の広さがあって、落ち着かないようだ。来客用にソファとテーブル、テレビや本棚や冷蔵庫などが置かれているほかに、嫌味にならない程度の物が置かれている。二つ並んでいる青磁の花瓶には、ナデシコやマーガレット、オミナエシといった花が活けられている。壁にかかった二本の剣と盾は、装飾品であり、実用には適さないようだ。

 持って来た本をすでに読み終えてしまっていたエルキドは、本棚を覗いた。何冊か興味を持てそうな本を見つけてページを繰ってみたが、どれも新しい情報を得られそうではなかったので、本を持たずにソファに戻った。エルキドの嫌いな、ただ待つだけの時間。

 エルキドと同様に暇を持て余したらしいグラディアが、なあ、と声をかけてきた。

「王族が国民じゃないって、どういうことなのかな。すんごく偉いから、神みたいなもんってことか?」

「それはあると思う。王は神だ、なんて公的な文章には書かれないけど、そういう意識が、少なくとも今までの王室や政府にはあるな」

「先王が神とかって、むかつくのを通り越して笑っちゃうけど、クリスさんもそういうつもりなのかな。だとしたら、私は好きになれない」

「これは俺のイメージだけど、王は国民にとって神であり、(しもべ)でもあると思う」

「それは、私ら公務員が公僕だっていうような話か?」

「うん、そうだな。ただ王は、公務員以上にそういう性格が強いと思う。国民にはない数々の絶大な権力を持つと同時に、国民のためには心身を削って働くことが求められ、プライバシーはほとんどない」

「政治に詳しくない私でも、クリスさんは頑張ってると思うけど、先王はどう考えてもそんな感じじゃなかったぞ。権力ばっかり強くって、無軌道に贅沢するわ、秘密は多いわ。あれじゃ殺されてもしょうがないわ。誰がやったか知らないがあれはなかなか……」

 エルキドは人差し指を立てて唇に当てた。

「ここでそういう話はいくらなんでもまずいって。聞かれてないとは思うけど」

 おっと、とグラディアは口を押さえた。

 それからすぐにノックの音がしたので、グラディアは、やば、と呟いた。その直前に聞こえた足音から、エルキドは近づいてくる者の位置を把握している。その者がエルキド並みの聴力を持ってでもいないかぎり、グラディアの危険な発言は聞かれていないはずだ。

 失礼します、と入ってきた六十歳前後の男性に怯えるように、グレイスはエルキドの隣に移動した。

「あのおじさん誰?」

 グレイスはグレイスなりに声を潜めてエルキドに聞いたのだが、相手に聞こえてもおかしくない声だった。

「総理大臣だよ」

「偉い人?」

 総理大臣がグレイスに少し近づいてお辞儀をする。

「総理大臣のおじさんです、かわいいお嬢さん。大して偉くはありませんが、国王陛下の補佐みたいなことをさせてもらってます」

 いつでも余裕を持った話し方をするのが、彼の特徴だった。王が強気で攻めていくタイプなのに対し、彼は何事も軽く受け流す性格で、二人はよく衝突することがあるにも関わらず、その関係は良好らしい。クリスの公的なパートナーとしてなかなか適任なのではないかと、エルキドは思う。彼は先王のころからの総理大臣で、当時からそれなりに上手くやっていたようなので、もしかしたらどんな王でも上手く扱えるのかもしれない。

「アダム・アパルトネルさんだよ。政治の権力については、王の次に強い。この国で二番目の政治家だ。すんごく偉い」

 グレイスは首をかしげた。

「アルフレアで二番目に偉いのは、王妃様でしょ?」

「そうなんだけど、王妃は権力を持ってないから……まあ、三番目に偉い人だ」

 ふうん、と鼻を鳴らしてアダムの顔を覗き込むグレイス。

「すいません」

エルキドは顔を引きつらせて謝る。

「いいんですよ。ごちゃごちゃした王室や政府のことなんて、わかりませんよね」

 アダムは笑ってそう言ってから、グラディアのほうに向き直った。

「申し訳ありません。主役を差し置いてしまって。奥様があまりに面白い……いえいえ、素敵な方だったので」

 アダムは、エルキドどころかグラディアにも明らかにわかるほど、わざとらしく言い間違えた。グラディアは、若干険しい表情になっていた。

「差し置かれるのは構いませんが、妻には手を出さないように願います。私は嫉妬深いので」

 エルキドはグラディアを見て、首をかしげた。

「心得ていますよ」

 グラディアの軽い脅しを、アダムは受け流す。それから少し下がって、三人に向かって言った。

「本日はお忙しい中、わざわざ遠方から足をお運びくださり、本当にありがとうございます」

 アダムが棒読みのように言い、一礼する。

「……という挨拶を、先にするべきだったんですよね。ごめんなさい」

「あ、いえ」

 アダムの態度に、グラディアは戸惑っていた。

「もう一つごめんなさい。陛下がお見えになるまで、もう少し時間がかかるんですよ。わざわざお呼びだてしたのに、お待たせして失礼ですよね、あの人」

「いや……陛下は忙しいだろうし」

「ご理解いただけますか。強いうえにお優しい方でよかった。本当は、時間潰しに王妃殿下とでも話していただこうかと思ったんですが、あいにく殿下も少し忙しくて。少しの間ですから、知らないおじさんで我慢してくださいね」

 アダムはグレイスのほうを見た。グレイスは少し口を開いたまま、すとんと首を落とすようにうなずく。

 エルキドにしてみればとんでもない話だ。エルキドにとってアダムは、クリスと同じくらい、話をしてみたい相手だった。総理大臣と面と向かってじっくり話せるなんて、千載一遇のチャンスと言ってもいい。アダムは冷蔵庫から棒アイスを取り出して、これを食べ始めながらエルキドたちの向かいのソファに座った。

 エルキドとアダムの話は、主にクリスがこれまでの約四年間で行った政策についてだった。

 政府の金の流れを可視化し、一般人がウェブサイトで閲覧できるようになったこと。現在進行中である、政府関連の不要な事業の洗い出しとその廃棄。増税。これらによって確保された財源で、医療費を無料化したり、有害鳥獣の駆除業を強化したりしたこと。

 彼女のたった四年間の功績は、先王のすべての成果のうち有用なものの数十倍と言われている。増税については国民の反発が大きかったのだが、エルキドはそれも含めて高く評価していた。

「失礼ですが、エルキドさんは高校生でしたよね?」

「そうです」

「おどろきました」

 そう言ってアダムは唸った。あまりおどろいていないような表情だが、嘘をついているわけではないだろう。

「この子、総理府の事務次官になるかもしれないので、そのときはよろしく」

 エルキドは顔をしかめてグラディアを見た。そんな話はしたことがないどころか、自分が官僚や政治家になるつもりは毛頭ないことを、エルキドははっきり言ってある。

「ええ、ぜひうちにほしいです。次官ではなく、僕の跡を継いでほしいですね……失礼」

 話の途中で、アダムはスーツの内ポケットから携帯電話を取った。少し話して切る。

「ごめんなさい。用ができちゃった。もう少しで陛下か殿下がいらっしゃると思うので、申し訳ありませんが、もうしばらくお待ちください。……あ、冷凍庫にアイスが入ってるので、食べていいですよ。本当はお客さん用なんです。僕が食べちゃったことは、内緒ね」

 アダムが出て行く前に、グレイスは冷凍庫に向かった。

「母さん、どうかした?」

 アダムが出て行ってから、エルキドが聞いた。アダムと話しているとき、少しだけ様子がおかしかった気がした。

「なんとなくだけどさ、あの人、うちの統括に似てると思って。話し方とか、態度とか」

「あんな面白い人が管理局にもいるのか」

「私は少し苦手だ、ああいうタイプは」

 待っている間はまた退屈になり、エルキドとグラディアもアイスをもらうことにした。グレイスは二個目のアイスに手をつけ、三人とも食べ終わらないうちに、次のノックの音が聞こえた。入ってきた、栗色のセミロングヘアの女性を見てグレイスは、ひゃっ、と悲鳴に近い歓声を上げた。食べかけのアイスを持ったまま、彼女に近寄る。

「ナナ様」

「あの、えっと……」

 不躾に近づくグレイスに、彼女は戸惑っていた。エルキドはグレイスの腕を引っ張る。

「失礼だろ。まず、アイスを置け」

 うなずいてからアイスをテーブルに置き、再びナナに近づこうとするグレイスを力ずくで止める。エルキドはまた、すいません、と相手に謝った。もっとも、彼女はこういうことには慣れているだろうし、それくらいではほんの少しでも腹を立てるような人間ではない。

「私のことは、ご存知でいらっしゃいますね。ナナ・アモリス・ウェネフィカ・シルヴァーナ、クリスティーヌの妻です。英雄グラディアさんのご一家にお目にかかれて、光栄に存じます」

「とんでもない、こちらこそ」

 グラディアは立ち上がって礼をした。エルキドも頭を下げ、その右手でグレイスにも頭を下げさせる。エルキドは名を名乗り、グレイスにも名乗らせた。グレイスは名乗った後、またナナに近づく。

「……触ってもいいですか?」

 戸惑うナナは、はあ、と否定とも肯定とも言えない返事をした。ゆっくりと自分に迫ってくる手にやや顔を曇らせる。

「よろしければ握手でも?」

 グレイスは頷いて、差し出された手を両手で握った。グレイスはそのまましばらく動こうとしなかったので、ナナも動けなかった。

「あの……そろそろよろしいでしょうか?」

 はあ、とグレイスはうなずき、名残惜しそうに手を離した。失礼します、とナナは、先ほどアダムが座っていたソファに腰掛けた。エルキドとグレイスはその向かい、元の場所に座る。

「アイス、ご遠慮なく召し上がってくださいね。溶けてしまいますので」

 そう言ってもらって、溶け始めるアイスを気にしていたエルキドとグラディアは助かった。断りもなく、王妃と話しながらアイスを食べるなんて、グレイスでもなければできない。

「アダムさんから少しだけ伺いましたが、個性的な……すてきな奥様ですね」

「よく言われます」

 グラディアは苦笑した。

「グレイスのことは、十歳の子供だと思ってください。また何かあったらすみません。先に謝っておきます」

 グレイスは口を尖らせ、横目でエルキドを睨んだ。

「失礼でなければ、エルキドさんはどちらがお産みになったのか、伺ってもよろしいですか?」

 私、とグレイスが手を上げた。

「グレイスには感謝しています。うちにエルがいないことなど、今ではとても考えられない」

「私はエルちゃんに感謝かな。グラディア様が家にいらっしゃらない時間が長いから、エルちゃんが生まれてきてくれるまでは寂しかったんです。最近はエルちゃんも学校だし、家にいてもお勉強ばっかりしてて構ってくれないけど、ときどきお料理教えてくれたり、作ってくれたりするし」

「すてきなご家族ですね。羨ましいです」

 少しだけではあるが、ナナは寂しそうな表情を見せた。

「羨ましい、ですか? 失礼かもしれないが、一般から王室に嫁いだあなたを羨む国民は多い。うちのエルは、ナナ様は不幸ではないものの、みんなが言うほど恵まれているわけではないと言うのだが」

「まさにおっしゃるとおりです。決して不幸ではありませんが、クリス様はご政務に追われて、私には私の仕事があって、あまり二人の時間はなくて」

「陛下は、ちょっと働きすぎだな」

 エルキドが言った。

「先王……父上を反面教師にしているようだから難しいだろうが、ほんの少しだけでもあの人の真似をして、サボることを覚えたほうがいいと思う。無理をして倒れて、名君クリスティーヌ・シルヴァーナの時代が早く終われば、そのほうが国民にとって不利益だということを、伝えておいてもらえますか」

「わかりました。そのように申し上げればよかったんですね」

 ナナはうつむいた。

「エルキドさんのお知恵の半分でも私にあれば、クリス様にご無理をさせることはなかったかもしれない。あなたが、私たちのそばにいらしてくだされば」

「それは無理ですけど、今後も何か困ったことがあれば、相談に乗りますよ。役に立てることがあるかわかりませんが」

「心強いです。仕事のこと以外で相談ができる人は、近くにあまりいませんから」

「仕事といえば、気になっていたことが一つあるんですが」

「何でしょう」

「差し支えなければお答えください。殿下は、王室のプロデュースで芸能界に入りましたよね」

「はい」

 エルキドは眉間にしわを寄せて、少し唸った。

「あの……なんでですか?」

「なんで、とは?」

「王妃が芸能活動とか、ほかに聞いたことがないし……いや、前例がないことが問題なのではなく、意図がわからないんですよ。陛下かな。殿下をアイドルにしようとした人は、どうしてそんなことを思ったのか、何が目的なのか、さっぱりわからないんです」

「なんか、エルちゃんがこんなにわからないわからない言ってるのって、すごく珍しい」

 グラディアは力強くうなずいた。

「それは私にもよくは……クリス様にアイドルになってみないかと言われて、ただ。理由は聞いたことがございません」

 ナナは嘘をついているようではない。答えは得られなかったが、クリスが言い出したらしいことだけはわかり、情報は得られた。クリスが言い出したのなら、単なる気まぐれや道楽ということは考えにくい。ナナ本人も知らされていない、何らかの意図を感じる。

 エルキドが頭をひねっているところに、三度目のノックの音が聞こえてきた。扉が開き、クリスが姿を見せた。



 アルフレア国王賞授与式は二十分ほどで終わった。王の隣でフラッシュを浴びるグラディアは別世界の人間のように見える。琥珀色のショートヘアのグラディアに対し、明るいからし色のセミショートのクリス。明暗の黄色系の二人の頭髪が、フラッシュに映える。グラディアには盾とか賞状とか、彼女にとってあまり意味のないものが贈られた。

 式の後にグラディアはインタビューを受け、それからは国王婦々(ふうふ)とエルキドたちだけで長いテーブルを囲んで会食。テーブルは三十人ほどが着けそうだったが、その端に五人が固まる。周りに何人か立っているので最初はあまり居心地がよくなかったが、すぐに慣れた。

 クリスとナナが並んでいるところは、テレビで時々見かける。そんな場面を、生で改めて見てみると、二人の服装の特徴が如実に表れる。

 ナナは、右肩や両腕を露わにするなど、それなりに肌を見せた、黒のワンピースドレスを着ている。違和感のない薄めの化粧。イヤリングや指輪など、下品でない程度の装飾品。クリスよりも六つ年上だが二十七歳と若く、しかも実際より幼いイメージが彼女にはあり、そこから考えると、けっこう背伸びした格好にも見える。王妃にしてもアイドルにしても、ナナは見た目が重要である仕事をしているため、それを意識してのことだろう。

 これに対してクリスは、黒い無地の半袖シャツに、傷んだジーンズパンツ。結婚指輪を除けば、装飾や化粧は皆無。式典の際はもう少しまともな服装をしていたが、普段着にしてもちょっと王には似つかわしくない。

「では、いただこうか。お口に合わないものがあれば無理に召し上がる必要はないし、お気に召したものがあればお代わり自由だ。あなた方に楽しんでいただくことが目的なので、どうかご緊張なさることなくおくつろぎいただきたい」

 家でエルキドが言っていたように、普段食べられないような料理が並んだ。ウニと貝のジュレ、フォワグラのグラッセ、鴨のコンソメスープ、アワビの岩塩蒸し、ドラゴンの頬肉の赤ワイン煮込み、牛ステーキとアスパラのグラッセ、そのほかいろいろ。

「美味しい。エルちゃんのお料理より美味しいかも」

 主役のグラディアよりも国王婦々よりも早く料理に手をつけたグレイスが、感嘆の声を上げる。

「そりゃそうだろ、材料が違う。エルも作ろうと思えばできるだろ?」

「一度食べたものなら、だいたい真似して作れる。材料と道具があれば」

「お宅では、エルキドさんが料理を?」

 クリスの問いに、グレイスは首を横に振った。

「普段は私なんですけど、時々エルちゃんが作ってくれるんです。私はエルちゃんに教わったの」

 ほう、とクリスは相槌を打った。

「ちゃんと教えてるつもりなんですが、グレイスは変なものを作りたがるので困るんです。たとえばこういうステーキなら、生クリームをかけるとか、イチゴのスライスを乗せるとか。普段は面倒くさそうに料理してるくせに、そういう変なことをするときだけ妙に楽しそうで」

 クリスは笑った。

「妙に合点のいく話だ。……おや、失礼なことを申し上げたかな」

「まあ、その変な組み合わせの中に、たまに美味しいのがあるんですけど」

「この間の、梅入りのミートボールはなかなかだったな」

 グラディアの言葉に、エルキドがうなずく。

「私は、生まれてこのかた、料理などしたことがなかったな。剣は多少使えるが、包丁はからっきし。ナナちゃんは料理できるんだよな?」

「実家では時々やってましたが、ここへ来てからは全く」

「専属の料理人、みたいのがいるんですよね? いつもこういうのを召し上がっているんですか?」

 グラディアが訪ねる。

「いや、まさか。こういうことは特別なときだけだ。普段でもそれなりのものを食べることもあるが、お茶漬けやおにぎりで済ますこともある。私たちの食費は、二人合わせて、月に十万キルクルスといったところだろうか」

 エルキドたち三人の食費よりはずっと高いが、意外なくらい安い。

「クリス様は節約家ですからね」

「私たちは人様の金で生活させていただいているからな。それでも十分に贅沢していると思う」

「クリス様、よく怒られるんです。もっといいもの食べろとか、もっといい服着ろとか」

「私としては、食費を今の半分くらいに抑えたいんだが」

 少し極端だと、エルキドは思った。確かに彼女たちの生活費は百パーセント税金のはずだが、だからこそ五万や十万といった金額を節約しても、意味が薄い。無意味と言っていいくらい薄い。責任ある王ができる贅沢をしないことは、責任から逃げているようにも思える。贅沢を許されるからこそ、重い責任を課せられるからだ。だがエルキドの見たところ、クリスにはそのような意思は、無意識にすらないように思える。第一、王として十分すぎるほど働いており、周囲やエルキドが少しサボってほしいと思うくらいなのだ。

 そこには、贅沢をしたうえで十分に働かなかった、彼女の父親への反発が確実にあった。

「アダムさんから聞いたが、エルキドさんは私を好意的に評価してくださっているそうだな」

「クリスさん……失礼。陛下は、ほとんどの人から見て、名君だと思いますよ」

「ああ、公式の場でなければ、どうか呼びやすいように呼んでほしい。名前で構わない」

「いや、それはちょっと」

「私は父とは違い、人間だから」

「わかりました、クリスさん」

 エルキドは辛くなった。ここに来る前から、それどころか何年も前から、クリスが父親を憎んでいることは知っている。それをなるべく見まいとしていたのだが、彼女の目前に来ては、否応なしに見せつけられる。

「ほとんどの人が私を名君だと思っているとおっしゃったが、消費税その他の増税を発表した際には大きな反発があったことくらいは存じ上げている」

「そういう人たちには、税金とは政治家や官僚が私腹を肥やすためにあるものだという先入観があるんです。彼らは、税金がなければごみを捨てるのにも金がかかるようになることを知らない」

 クリスはうなずいた。

「ただ、失礼ながら意見を言わせてもらえれば、増税は何回かに渡って少しずつ、段階的に行うべきだったと思います。うちはもともと、収入がかなり多いわりに節約していたから問題はなかったけど、そうじゃない家庭のほうが圧倒的に多い」

「反論させていただいてもいいだろうか」

「もちろん。議論は大好きです」

「私が王位を継いでから、やるべきことは多かった。何かをするには金がかかる。それはすぐに必要で、少しずつ増やしているのでは間に合わなかった。それに、少しずつ増やすというのは、国民の感覚を麻痺させ、騙そうとしているみたいじゃないか」

 わかります、とエルキドはうなずいた。

「ただ、そうやって騙すことは、実はけっこう重要なんですよ。国民の立場になって考えてみてほしいんですが、税金がいきなり十パーセント増えるのと、一年に二パーセントずつ、最終的に十パーセント増えるのでは、感覚が全然違います。後者のほうが楽なんですよ。家計のやりくりがしやすい。そうやって少しずつ増やすことを前提にして、その範囲でできることをするべきです。だから政策の優先順位を決めることも大事ですね。何かを諦めるというか、後回しにする勇気も、必要だと思います」

 クリスは小さくうなずきながら、エルキドの話を聞いた。

「税の使途をせっかく可視化してくれたから、計算してみたんですけど、あの増税の三分の一強で、有害鳥獣対策はある程度整ったと思うんですよ。最優先はどう考えてもそこだから、まずはその分だけ引き上げて、あとは少しずつ、にすればよかったんじゃないかな」

「あなたは、高校生でいらっしゃるよな?」

「はい」

「財務……いや、総理大臣になっていただけないだろうか」

 クリスはやや身を乗り出した。

「せっかくですけど、政治家になる気は……選挙とかもいやだし」

「引き受けてくださるなら、アダムさんの後任として、勅令を以て指名する」

 勅令が出されれば、それはアルフレア内ではあらゆる法律に優先する。選挙で当選していなかろうが、それ以前に被選挙権を持っていなかろうが、関係ない。

「当然ご存知でしょうが、勅令は人気や信頼を売り払ってわがままを通す行為ですよ。しかも閣僚、よりによって総理大臣を勅令で指名するなんて、あまりにもリスクが大きい」

 お父上ですらそこまではしなかった、という言葉を、エルキドは飲み込んだ。

 クリスは軽く笑って、姿勢を戻した。冗談半分だったということはエルキドにはわかっているが、それは半分本気だったということだ。

「私は少し、急ぎすぎているのだろうか」

「まずは、ゆっくり寝たほうがいいと思いますよ。まぶたが痙攣している」

 クリスは慌てて、右のまぶたを押さえた。

「見えていらっしゃったのか」

 デザートに数種のベリーのムース、ココナッツミルク、アイスクリーム。グレイスはムースを三回、アイスクリームを二回お代わりした。



 クリスは教育文化省を通じて、エルキドに関する情報をあるだけ入手した。メールの添付ファイルで自分のパソコンに送ってもらったが、同じ資料を紙媒体でも作ってもらった。わずかな空き時間を利用して、執務室でコーヒーを飲みながらこれに目を通す。

 戦闘や体力面については目立った成績ではない。FQは百十八とある。進学校の高校生としては、平均的な数値だ。だがこれ以外の、知性を問われる分野の成績は驚異的なものだった。どの教科でも九割を下回る点を取ったためしがなく、満点もしばしば見られる。ウィータ東高校の、半分取れればかなり優秀とか、専門家でも満点をとるのは容易ではないとか言われる、極端に高レベルな定期テストにおいてだ。それよりもレベルの下がる模試についても、同様の成績らしい。ここまでできがいいと、問題の難易度はあまり関係ないようだ。模試の偏差値は、科目別でも総合でもすべて七十以上、特に難しい問題では百を大きく超えることもあるようだ。

 IQは百五十八。英雄グラディアのFQが、確か百五十強だった。IQとFQを直接比較することはあまり意味がないし、そもそもこれらはあまり信頼性の高くない指標だ。それにしても、FQにしろIQにしろ、百五十に達するような人間はめったにいない。実際に会ったのは初めてだ。頭のできには、クリスもそこそこ自信があるが、これはちょっと真似できそうにない。

 おそらく相当勉強ができるであろうことは、話をしていて感じた。そして、データはそのことを証明している。だが、これだけで彼のことをわかった気には、どうしてもなれなかった。なんとなくではあるのだが、単に勉強ができる以上の能力の片鱗を、話をしていて感じた。政治と金の話のうち、現代の具体的な事柄については、学校で詳しくは習わないだろうが、勉強ができる子なら、それについてある程度の考えを持つこともあろう。それ以外に、彼と話をしていて感じた違和感があった。

 料理についての話だった。一度食べたものなら作れる、と彼は言った。一度作ったもの、とか一度レシピを見たもの、とか一度作っているところを見たもの、ではなく、一度食べたもの。クリスは料理をしないが、それがかなりありえない能力であることは想像がつく。料理を食べただけで、その材料や味付け、作り方を見抜ける料理人が、この世にどれだけいるだろう。一人もいないとは断言できないが、いるとしても片手の指で十分足りる程度ではないだろうか。

 違和感はそれ以外にもあった。それは彼との話全体において感じていたことだった。こちらの考えが見透かされている気がしたのだ。彼は常に余裕を持って話していた。こちらも余裕をもって話したつもりだったが、それが「つもり」だったことまで見抜かれていたような気がする。こちらが次に何を言い出すか、予測していたようにすら思われた。

読心(どくしん)の異能者……」

 架空と思われている能力の名が口から出た。ありえないとは思うが、この世には本当にいろいろな人間がいる。グラディアのような猛者だって、実際に会ってみなければその存在を信じられなかったかもしれない。それに、自分の妻の能力。うろ覚えではあるが、読心の異能者が実在する可能性を、科学的に検証した論文か何かを見かけたこともある。詳しくは覚えていないが、存在する可能性はある、という結論だったと思う。そして、実在するとすれば、その本人は自分の能力を決して明かそうとはしないであろうことも書かれていた。

 彼が本当に読心の異能者なのかどうかはわからない。だがそうだとしても、それだけでは彼のような言動はできない。想像の域を出ないが、彼は、何らかの異能と相当の知力を併せ持った超人なのではないだろうか。

 ノックの音が聞こえ、マリが入ってきた。

「失礼致します、陛下。間もなく閣僚会議のお時間です。各大臣、すでにお集まりになっています」

 そうか、と答えクリスはエルキドの資料を机にしまい、マリとともに執務室を出た。



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