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紫陽花(あじさい)と鴨(かも)  作者: ろいやるぱふ
紫陽花
8/41

◆りんご◆

「御馳走様でした。」



心の中でそう言うと、私は改めて室内の空間を眺めながら、食後の余韻に浸っていた。



思えばこれまでの人生で、ここまでゆっくりと食事をとったのも珍しい。


家では母がいるし、学校の給食では同級生が一緒だった。


一人の時間を楽しみながらの食事は、これはこれで悪くない。




ふと、一定のリズムで音を刻んでいる方向に目をやる。


カウンター脇の壁につけられた、振り子時計の長針と短針が、

仲良く「二」の位置で重なっている。



食事に夢中になっていたせいか、思っていた以上に時間が経っていた。


そこでようやく、私はここに来た本来の目的を思い出した。


立ち上がった私は、カウンターのほうへと足を伸ばす。




「御馳走様でした。」



今度は言葉に出して、私は厨房の女性に声をかける。



「ありがとうございました。八五〇円になります。」



私は千円札を差し出して、女性からお釣りを受け取った。



「あの、辻夏樹さんはいらっしゃいますか?」


「あら、夏樹さんのお知り合いだったのね。」


「いえ、知り合いというわけではないんですが。ある人に紹介されまして。」



そう言うと、女性は腑に落ちた表情をしていた。



「そうだったのね。夏樹さんは今、外出中なの。三時前には戻ってくると思うわ。よかったら掛けて待っていたらどう?」


「そうなんですか。もしお邪魔でなければ、そうさせて頂きます。」


「いいのよ、気を遣わなくて。多分、お客さんが来ることもないしね。」



客が来ないことを、彼女は嬉々として語っている。



流行っていない店なのはなんとなく想像していたが、決して雰囲気や味が悪いということはなかった。


むしろ、こんな店があることを知ったら、中年の奥様方や女子高生などが、

こぞって集まってもおかしくないと思う。



アネモスでの食事は、私をそう思わせるのに十分な時間だった。



「あの、お料理とても美味しかったです。」


「ありがとう。若い子にそう言ってもらえて嬉しいわ。そうだ、なにか飲む?今日はリンゴジュースかオレンジジュースくらいしかないけど。」



逆に、普段は他にどんな種類があるのだろう。


少し気になったが、そこは大人しく好意に甘えることにする。


「リンゴジュースください。」


「リンゴね。あ、すぐできるからそこ座ってて。」



私がカウンターの席に座ると、彼女はリンゴとナイフを取り出し、その場で皮を剝き始めた。


どうやら市販のものではなく、自家製のジュースを振舞ってくれるらしい。



「あの、お姉さんは夏樹さんの奥様でしょうか?」



私はそれとなく、それまで気になっていた彼女の身の上を尋ねてみた。


すると彼女は、一瞬動揺した様子だったが、とっさにそれを隠すように笑って答えた。



「おもしろいことをいうのね。私はただの雇われ店長よ。」



そう言いながら、彼女は滑らかな手つきでリンゴをくるくると回し、

まるで螺旋上のバージンロードを描くかのように、リンゴの皮を皿の上に降ろしていく。



「それにもう三十六だし、お姉さんって呼ばれるのが許される年でもないわ。」



口ではそう言いつつも、彼女はまんざら嫌そうではない。


むしろ少し上機嫌だ。



「自己紹介していなかったわね。塚本(つかもと)(みやび)よ。」


「私は冬月歩海です。」


「歩海ちゃんか。素敵な名前ね。海の上を歩いているみたい。」


彼女は悪びれもなくそう言った。



「ありがとうございます。そんなことは初めて言われました。」


にこりと、微笑むと、彼女は剝いていたリンゴの果肉をジューサーに流し込み、スイッチを入れる。



カウンター越しに、ミキサーのような機械音が響く。


その音が止むと、今度はぽたぽたと、果汁が滴る音が聞こえてきた。


彼女は、私の目の前にコースター差し出すと、その上にリンゴジュースの入ったグラスを置いた。




「はい、どうぞ。」


「すみません、いただきます。」



ストローに口をつけ、出来立てのジュースを飲む。


自家製なだけあって、頭が冴えるような新鮮味が、口中に広がる。



「美味しいです。」


「そう、よかったわ。」


「てっきり、市販のジュースが出てくると思っていました。」


「ああ、あーいうのはうちでは出さないの。夏樹さんの意向でね。ジュースに限った話じゃないんだけど、今時の商品には、何が入ってるか分かんないからって。」



「添加物とか、気にする方なんですね。」



「気にするというか、もはや憎んでいるわね、あれは。この間、一緒にコンビニに行ったんだけど、お弁当を買っている人がいてね。悪態をついていたわ。『作るほうがバカなら買うほうもバカだな。腹だけ満たしてメシ食った気になってるんじゃ、家畜と変わらない。』なんて言ってたわ。」



 


彼女がそう言ったとき、厨房のほうから足音が聞こえ、一人の男が姿を現した。





「珍しく客が来てると思ったら、人の陰口とは感心しないよ、塚本さん。」







それが、私が辻夏樹と初めて出会ったときの、彼の台詞だった。





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