◆りんご◆
「御馳走様でした。」
心の中でそう言うと、私は改めて室内の空間を眺めながら、食後の余韻に浸っていた。
思えばこれまでの人生で、ここまでゆっくりと食事をとったのも珍しい。
家では母がいるし、学校の給食では同級生が一緒だった。
一人の時間を楽しみながらの食事は、これはこれで悪くない。
ふと、一定のリズムで音を刻んでいる方向に目をやる。
カウンター脇の壁につけられた、振り子時計の長針と短針が、
仲良く「二」の位置で重なっている。
食事に夢中になっていたせいか、思っていた以上に時間が経っていた。
そこでようやく、私はここに来た本来の目的を思い出した。
立ち上がった私は、カウンターのほうへと足を伸ばす。
「御馳走様でした。」
今度は言葉に出して、私は厨房の女性に声をかける。
「ありがとうございました。八五〇円になります。」
私は千円札を差し出して、女性からお釣りを受け取った。
「あの、辻夏樹さんはいらっしゃいますか?」
「あら、夏樹さんのお知り合いだったのね。」
「いえ、知り合いというわけではないんですが。ある人に紹介されまして。」
そう言うと、女性は腑に落ちた表情をしていた。
「そうだったのね。夏樹さんは今、外出中なの。三時前には戻ってくると思うわ。よかったら掛けて待っていたらどう?」
「そうなんですか。もしお邪魔でなければ、そうさせて頂きます。」
「いいのよ、気を遣わなくて。多分、お客さんが来ることもないしね。」
客が来ないことを、彼女は嬉々として語っている。
流行っていない店なのはなんとなく想像していたが、決して雰囲気や味が悪いということはなかった。
むしろ、こんな店があることを知ったら、中年の奥様方や女子高生などが、
こぞって集まってもおかしくないと思う。
アネモスでの食事は、私をそう思わせるのに十分な時間だった。
「あの、お料理とても美味しかったです。」
「ありがとう。若い子にそう言ってもらえて嬉しいわ。そうだ、なにか飲む?今日はリンゴジュースかオレンジジュースくらいしかないけど。」
逆に、普段は他にどんな種類があるのだろう。
少し気になったが、そこは大人しく好意に甘えることにする。
「リンゴジュースください。」
「リンゴね。あ、すぐできるからそこ座ってて。」
私がカウンターの席に座ると、彼女はリンゴとナイフを取り出し、その場で皮を剝き始めた。
どうやら市販のものではなく、自家製のジュースを振舞ってくれるらしい。
「あの、お姉さんは夏樹さんの奥様でしょうか?」
私はそれとなく、それまで気になっていた彼女の身の上を尋ねてみた。
すると彼女は、一瞬動揺した様子だったが、とっさにそれを隠すように笑って答えた。
「おもしろいことをいうのね。私はただの雇われ店長よ。」
そう言いながら、彼女は滑らかな手つきでリンゴをくるくると回し、
まるで螺旋上のバージンロードを描くかのように、リンゴの皮を皿の上に降ろしていく。
「それにもう三十六だし、お姉さんって呼ばれるのが許される年でもないわ。」
口ではそう言いつつも、彼女はまんざら嫌そうではない。
むしろ少し上機嫌だ。
「自己紹介していなかったわね。塚本雅よ。」
「私は冬月歩海です。」
「歩海ちゃんか。素敵な名前ね。海の上を歩いているみたい。」
彼女は悪びれもなくそう言った。
「ありがとうございます。そんなことは初めて言われました。」
にこりと、微笑むと、彼女は剝いていたリンゴの果肉をジューサーに流し込み、スイッチを入れる。
カウンター越しに、ミキサーのような機械音が響く。
その音が止むと、今度はぽたぽたと、果汁が滴る音が聞こえてきた。
彼女は、私の目の前にコースター差し出すと、その上にリンゴジュースの入ったグラスを置いた。
「はい、どうぞ。」
「すみません、いただきます。」
ストローに口をつけ、出来立てのジュースを飲む。
自家製なだけあって、頭が冴えるような新鮮味が、口中に広がる。
「美味しいです。」
「そう、よかったわ。」
「てっきり、市販のジュースが出てくると思っていました。」
「ああ、あーいうのはうちでは出さないの。夏樹さんの意向でね。ジュースに限った話じゃないんだけど、今時の商品には、何が入ってるか分かんないからって。」
「添加物とか、気にする方なんですね。」
「気にするというか、もはや憎んでいるわね、あれは。この間、一緒にコンビニに行ったんだけど、お弁当を買っている人がいてね。悪態をついていたわ。『作るほうがバカなら買うほうもバカだな。腹だけ満たしてメシ食った気になってるんじゃ、家畜と変わらない。』なんて言ってたわ。」
彼女がそう言ったとき、厨房のほうから足音が聞こえ、一人の男が姿を現した。
「珍しく客が来てると思ったら、人の陰口とは感心しないよ、塚本さん。」
それが、私が辻夏樹と初めて出会ったときの、彼の台詞だった。




