◆猫◆
病院を出ておよそ十分、私は寂れた住宅街の路地裏をうろついていた。
老朽化が進み、閑散とした面持ちの家々が並んでいる。
庭の手入れが行き届いている家もまばらで、背の高い雑草が生い茂っている家が少なくない。
五十年以上も前に都市開発が行われたとされるこの町は、還暦を迎えた老夫婦たちが、細々と暮らしているような気配を漂わせている。
きっとこのあたりにも、梶原病院に通う患者が住んでいることだろう。
名刺に記された場所の通りまでやってきた。
道幅はおよそ二メートルといったところだろうか。
砂利道の半分は陽の光が差していて、もう片方は住宅の影でひんやりとした空気だ。
通りの入り口には、木でできた電柱と、街灯が立っている。
とても、店のある気配は感じられない。
仮に車で来ていたとしたら、大通り沿いにある廃れた駐車場を利用するほかないだろう。
半信半疑になりながらも少し歩くと、陽が差している側に、平屋の古民家が見えた。
その手前にある土地は畑だろうか。
土の上に、葱やニンジンの葉のようなものが顔を出しているのが見て取れる。
その場所は一見、住宅街の雰囲気に馴染んでいるようにも感じられる。
しかし、他の家に比べると、俗っぽい気配がそぎ落とされていて、
寺や神社を彷彿とさせるような異彩を放っていた。
家の前までやってきた。
二枚合わせの木製の門が、片方だけ開いている。
閉じているほうの木の扉に、小さめの焼き板が取り付けられていて、白文字で店名が書かれている。
表札には「辻」と刻まれていて、店舗兼自宅なのだと分かる。
赤い瓦屋根のその平屋は、一見すると普通の一般住宅と遜色がない。
けれども、木製の門の先には、両脇を緑色の芝生で彩った道があり、一種の神聖さを放っている。
不思議と、私の足は誘われるように玄関へと向かっていった。
木が縁取ったガラス製の引き戸を、私はゆっくりと開けた。
からん、と乾いた呼び鈴の音が鳴る。
戸の上には、黒猫をモチーフに作られたベルが取り付けられているようだ。
思いのほか、店内には心地よさそうな空間が広がっていた。
天井や床の色は、暖かみのある茶色で統一されている。
正面にはカウンターがあり、椅子が三脚。
縁側には深緑色のソファーが四つ、それぞれテーブルを挟む形で、二組分分用意されている。
外からの差し陽と、オレンジ色をした照明の明かりが混ざりあった空間は、なんとも艶めかしい。
いわゆる、近年巷で噂されているような、古民家カフェと呼ばれる類いのデザインなのだろう。
外観からのイメージとは、かなりギャップのある内装だった。
おそらく、もともとあった空間をリフォームしたものだろう。
年季の入った柱も、もはや独特の味を放っている。
私はその空間に半分魅了されていたのだろう。
気付けば、入り口でスリッパに履き替えると、店内の様子を見て回っていた。
それにしても、客はおろか、店員の姿すら見当たらない。
いくら平日とはいえ、これだけ整った空間が持て余されていることに、
私は寂しさにも似た、無性に切ない気持ちになる。
すると、カウンターの奥にある、厨房と思われる場所からだろうか。
何やら人のいる気配と物音がする。
勝手に上がり込んでいることに若干気は引けたが、私はカウンター席から覗き込むように様子を窺った。
同時に、木造の床が私の足元で、ぎいっ、と軋んだ音を立てる。
それに反応するように、茶色い髪を後ろで一つに束ねている女性の後ろ姿が、こちらを振り返った。
「あ、ごめんなさい!いらっしゃいませ。」
その女性は慌ただしく厨房から出てきた。
「すみません、ついぼーっとしてて。お好きな席にどうぞ。」
愛想のよい笑顔と、申し訳なさそうに縮こまらせている細い肩が印象的だった。
年はちょうど三十歳位だろうか。
黒いタートルネックを着ていて、その上に掛けられたワインレッドのエプロン姿が、
とてもよく似合っている。
私は迷うことなくてくてくと歩き、一番奥にある縁側のソファーを選んだ。
なぜだろう、昔から私は隅っこが好きなのだ。
例えば、バスに乗る時なんかも、一番後ろの角の席を好んで座る。
後ろから誰かが襲い掛かってくるわけでもないのだが、全体を見渡せる場所にいると、
不思議と落ち着くのだ。
吸収されるように沈んでいくソファーの感触を堪能すると、私はひじ掛けに手を置いた。
中学校の椅子とは大違いだ。
なんとなく、私のいない教室で授業を受けている、クラスの光景が脳裏に浮かぶ。
誰も、今頃私がこんなところで羽を伸ばしているとは思うまい。
悪くない気分というか、むしろちょっとした優越感さえ覚える。
そう、これはサボりではない。
検査のためとはいえ、こちらは老人がせめぎあう病院の待合室で、一時間も拘束されていたのだ。
これくらいの報酬があってもいいだろう。
そもそもここに来たのだって、東城という学校公認の養護教諭が指示したことなのだから。
私を問い詰めてくる人間などいないと知っておきながら、
頭の中で言い訳がましく御託を並べていると、先ほどの女性が水を持ってきた。
「はい、こちら、メニューになります。基本的に和食が中心なんですけど、苦手な食べ物があったら言ってくださいね。」
「えーと……グリーンピースがだめです。」
私がそう言うと、ポニーテールの女性はなぜか微笑むように少し笑った。
「はい、わかりました。」
私はそれを見て、はっ、とする。
苦手な食べ物と聞かれてとっさにそう反応してしまったが、和食と縁のある食べ物かどうかまで考えていなかった。
しかし、本当に昔から好きではないのだ。
あのぱさぱさとした食感と、もさっと舌触りが。
それはさておき、この女性の表情から察するに、グリーンピースを使った料理は最初からなさそうだ。
「他にはなにかありますか?」
「いいえ、あとは特にありません。えーと……セットランチでお願いします。」
少し恥ずかしくなっていた私は、そそくさと注文を済ませてしまった。
こーいうお洒落なお店で、いかにも子供らしい幼稚な発言は失態だった。
冷静に考えてみれば、平日のこんな時間帯に、制服姿の女子中学生がカフェでランチとは、結構なご身分である。
不良だと思われていなければいいのだけど。
「はい、じゃあ少し待っていてください。ゆっくりしていってね。」
そんな私の邪推を打ち消すかのように、にこやかな笑みを浮かべると、彼女は厨房に引っ込んでいった。
なんというか、距離感が上手で、よくできた人だと思った。
ここで「学校はどうしたの?」などと聞いてこようものなら、
私はきっと彼女を鬱陶しく思っていたに違いない。
ましてや「グリーンピースは使っていないので大丈夫ですよ。」なんてはっきりと言われた日には、
二度とこの店に来ないことを決意していただろう。
彼女は辻夏樹の奥さんなのだろうか。
そう思うと、私が会いに来た夏樹という男にも、少し興味が沸く。
ほどなくして、木のプレートに乗った料理が運ばれてきた。
「お待たせしました。」
彩り、栄養、そのどちらも丁寧に計算されていると思われる、
見るからにバランスが整ったランチである。
玄米や味噌汁、焼き魚、海藻類の煮物やお浸しなど、健康そうな品々が食欲をそそる。
「ごゆっくりどうぞ。」
そういうと、彼女はそそくさと裏にはけていった。
静かに味噌汁をすする。
慣れ親しんだ母の作る味噌汁よりは若干薄く感じたが、野菜のうまみがそれを補っている。
美味しい。
私はほっと息を吐きだすと、窓から差す秋の陽を浴びながら、少し遅めの昼食をゆっくりと愉しんだ。