表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紫陽花(あじさい)と鴨(かも)  作者: ろいやるぱふ
紫陽花
5/41

◆風◆


「冬月歩海さーん。」



診察室前の座席で(おもむろ)に髪の毛を触っていると、先ほどと寸分たがわぬ口調で、看護師の声がした。



扉を開け、診察室に入ると、パソコンと向き合って机に座っている有馬(ありま)(じゅん)の姿がある。


ぴんと伸びた背筋と、机の下で寛いでいる長い脚を見ただけで、彼の背丈が優に一八〇はあるのが分かる。



好青年を思わせる清潔感と、その姿勢のよさとは裏腹に、身に纏った雰囲気がどこか無機質な陰りを見せている。



私が彼と話をするのは、先週の来訪を合わせて今日で二度目となる。




「冬月さん。その後、調子はどうですか?」


「はい、あまり良くないみたいです。」



私は事実をありのままに話す。


「そうですか。」とだけ言うと、彼はこれといって意に介さない表情で、電光板を指さした。



「検査の結果だけど、今のところ異常は見当たりませんでした。倒れた時、もしかすると軽い脳震盪を起こした可能性もありますが、その場合は顕著な症状が現れます。記憶喪失や吐き気、頭痛なんかがその例です。見たところ、今は落ち着いているようですが、どこか体で気になっているところはありますか?」



思えば、保健室で目が覚めた時にあった頭痛も、今やすっかりその影を潜めていた。


倒れる直前の記憶もある。



たしか朝礼の途中、生活指導の先生が何やら話をしていたんだ。



服装の乱れに対する注意だっただろうか。


話を聞いていた一部の男子生徒たちが、そんな彼を冷やかすかのように、小声で何か言っている様子だった。


それに気づいた生活指導の先生が声を荒げているあたりで、私の意識は遠のいていった。




「いえ、今は何ともありません。」



「分かりました。念のため、鎮静剤を出しておきますから、今日は自宅で安静にしてください。その間、前回処方した頭痛薬は飲まないようにしてください。万が一、出血があった場合の痛みを感じなくなってしまいますから。」



「はい。」



有馬の言葉はとても丁寧で、中学生の私にも決して馴れ馴れしい態度は見せようとはしない。



というよりも、まるで台本でもあるかのような、流暢な話し方だった。


けれど、その声色に一切感情的なものは見いだせない。


おそらく、何百、何千と同じような台詞を口にしているのだろう。 



「今日はお母さんは?」



形式じみたやり取りに思考を停止させている最中、その質問に私は虚を突かれた。



前回の来院では母が付き添いで来ていたことを、彼が覚えているのが意外だったのである。



「仕事で先に帰りました。帰りはタクシーで帰ります。」



「そうですか。お大事にしてください。」




私は立ち上がって、有馬に軽く会釈をする。





すると、その拍子で制服の胸ポケットから何やら抜け落ちてしまった。


東城からもらった、喫茶店の名刺だ。





名刺を彩る黒と赤の色彩が、まるで診察室の乾いた空気を切り裂くように舞い、それはやがて有馬の足元に着地した。





有馬はそれを拾い上げると、一瞬その名刺の目をやった後「はい。」と、私に返してきた。




「すみません。」



「少し変わった名前の店だね。いや、最近はむしろこういうのが普通なのかな。」



昼休みが近いからだろうか。


有馬の顔つきは、先ほどより幾分か人間味を帯びているように感じる。




「大学時代、医学部でギリシャ語を専攻していてね。ANEMOSはたしか “風 ”という意味だったかな。」




東城には悪いが、正直はところ私はその名刺を胡散臭く感じていた。


「気が向いたら行ってみなさい」という東城の言葉も

「気が向かなければ行かなくていい」と、解釈していたのだ。



けれども、普段は顔の筋肉が凝り固まっている有馬のような男が、

心なしか(ほころ)んだ表情を見せているのを前に、

私はその考えを改めさせられる。



ふと、保健室で東城が言っていた、紫陽花の話を思い出した。



樹形の手入れをすると、風通しがよくなる。


そんな話だっただろうか。



思えば、この名刺にある「夏樹」という名前も、紫陽花を連想させないこともない。


加えて、記されている店の名前も、あながち縁起の悪いネーミングでもなさそうだ。




「失礼しました。」



有馬に向かって別れの挨拶をすると、私は診察室の扉を閉めた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ