◆風◆
「冬月歩海さーん。」
診察室前の座席で徐に髪の毛を触っていると、先ほどと寸分たがわぬ口調で、看護師の声がした。
扉を開け、診察室に入ると、パソコンと向き合って机に座っている有馬潤の姿がある。
ぴんと伸びた背筋と、机の下で寛いでいる長い脚を見ただけで、彼の背丈が優に一八〇はあるのが分かる。
好青年を思わせる清潔感と、その姿勢のよさとは裏腹に、身に纏った雰囲気がどこか無機質な陰りを見せている。
私が彼と話をするのは、先週の来訪を合わせて今日で二度目となる。
「冬月さん。その後、調子はどうですか?」
「はい、あまり良くないみたいです。」
私は事実をありのままに話す。
「そうですか。」とだけ言うと、彼はこれといって意に介さない表情で、電光板を指さした。
「検査の結果だけど、今のところ異常は見当たりませんでした。倒れた時、もしかすると軽い脳震盪を起こした可能性もありますが、その場合は顕著な症状が現れます。記憶喪失や吐き気、頭痛なんかがその例です。見たところ、今は落ち着いているようですが、どこか体で気になっているところはありますか?」
思えば、保健室で目が覚めた時にあった頭痛も、今やすっかりその影を潜めていた。
倒れる直前の記憶もある。
たしか朝礼の途中、生活指導の先生が何やら話をしていたんだ。
服装の乱れに対する注意だっただろうか。
話を聞いていた一部の男子生徒たちが、そんな彼を冷やかすかのように、小声で何か言っている様子だった。
それに気づいた生活指導の先生が声を荒げているあたりで、私の意識は遠のいていった。
「いえ、今は何ともありません。」
「分かりました。念のため、鎮静剤を出しておきますから、今日は自宅で安静にしてください。その間、前回処方した頭痛薬は飲まないようにしてください。万が一、出血があった場合の痛みを感じなくなってしまいますから。」
「はい。」
有馬の言葉はとても丁寧で、中学生の私にも決して馴れ馴れしい態度は見せようとはしない。
というよりも、まるで台本でもあるかのような、流暢な話し方だった。
けれど、その声色に一切感情的なものは見いだせない。
おそらく、何百、何千と同じような台詞を口にしているのだろう。
「今日はお母さんは?」
形式じみたやり取りに思考を停止させている最中、その質問に私は虚を突かれた。
前回の来院では母が付き添いで来ていたことを、彼が覚えているのが意外だったのである。
「仕事で先に帰りました。帰りはタクシーで帰ります。」
「そうですか。お大事にしてください。」
私は立ち上がって、有馬に軽く会釈をする。
すると、その拍子で制服の胸ポケットから何やら抜け落ちてしまった。
東城からもらった、喫茶店の名刺だ。
名刺を彩る黒と赤の色彩が、まるで診察室の乾いた空気を切り裂くように舞い、それはやがて有馬の足元に着地した。
有馬はそれを拾い上げると、一瞬その名刺の目をやった後「はい。」と、私に返してきた。
「すみません。」
「少し変わった名前の店だね。いや、最近はむしろこういうのが普通なのかな。」
昼休みが近いからだろうか。
有馬の顔つきは、先ほどより幾分か人間味を帯びているように感じる。
「大学時代、医学部でギリシャ語を専攻していてね。ANEMOSはたしか “風 ”という意味だったかな。」
東城には悪いが、正直はところ私はその名刺を胡散臭く感じていた。
「気が向いたら行ってみなさい」という東城の言葉も
「気が向かなければ行かなくていい」と、解釈していたのだ。
けれども、普段は顔の筋肉が凝り固まっている有馬のような男が、
心なしか綻んだ表情を見せているのを前に、
私はその考えを改めさせられる。
ふと、保健室で東城が言っていた、紫陽花の話を思い出した。
樹形の手入れをすると、風通しがよくなる。
そんな話だっただろうか。
思えば、この名刺にある「夏樹」という名前も、紫陽花を連想させないこともない。
加えて、記されている店の名前も、あながち縁起の悪いネーミングでもなさそうだ。
「失礼しました。」
有馬に向かって別れの挨拶をすると、私は診察室の扉を閉めた。