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紫陽花(あじさい)と鴨(かも)  作者: ろいやるぱふ
紫陽花
3/41

◆白衣◆

千鶴が去った後、私はベッドに腰を掛けた状態で、窓から見える中庭の景色をぼんやりと眺めていた。


用務員のおじさんが花壇の手入れをしている。花のついていない紫陽花(あじさい)の樹形を整えているようだ。


園芸ハサミの音に反応し、それまで机でなにやら事務仕事をしていた東城も、外に目を向けた。



「そこの紫陽花の花壇さ、私がここに通っていた時からあるんだよ。」



作業の手を止めて外を見つめる東城の表情は、どこか懐かしそうな様子だった。



「冬月はまだ十三だったか?」


「つい先日、十四になりました。」


「そうか。じゃあちょうど二十年前だね。実は私も中学二年生の頃は、よくこの保健室に来ていたんだ。」


先ほどは過去への愁いを漂わせていたその表情は、いつの間にか退屈そうな顔つきに変わっている。


「どこか、悪かったんですか。」


「いいや、私はただの仮病。」



悪戯っぽく笑う彼女の表情は、実際の年齢よりも一回り幼く思える。


わずかに開いていた窓の隙間から風がそっと吹き込むと、軽く舞い上がったカーテンのレースが、私の指に触れた。



「六月かな、梅雨の時期だった。毎日雨ばっかり降っていてさ。当時の教室にはエアコンも除湿器もついていなかったんだ。今は空き教室になっているところまでクラスがあってね、生徒数も多かったんだよ。ただでさえ湿っぽいのに、教室の空気が最悪でね。隣の席の男子が腋臭(わきが)だった。」



それは仮病というよりも、ただの不可抗力ではないだろうか……。


そう思ったが、私は黙っていた。



「当時の用務員のおじさんと、窓越しに話したことがあってね。剪定(せんてい)っていうんだって。紫陽花は放っておくと、年々株が大きくなるからね。梅雨が明けて、綺麗な花が咲き終わると、花の部分を切り落とすんだ。そして夏を経て、秋の初め。ちょうど今頃になると、ああやって二度目の剪定をするんだよ。ロケット鉛筆のような要領だな。」



紫陽花の説明はなんとなく分かったが、最後の例えがいまひとつ理解できずに、私は首を傾げる。


東城は、そんな私を見つめて少し自虐的な笑みを浮かべていた。


多分、一種のジェネレーションギャップだろう。



「ある程度手入れしておかないと、風通しが悪くなって腐ってしまうんだとさ。私は用務員のおじさんには感謝しているんだ。藍色に咲いた花を見ただけで、当時の私は心なしか涼しげな気持ちになれたからね。」



そんな話をしていると、入り口の扉をノックする音が聞こえた。


扉が開くと、千鶴が私の鞄を持ってこちらに歩いてくる。



「お大事にね。」


「うん、ありがとう。」



そうお礼を言って、私は鞄を受け取った。




二人に見送られながら、保健室をあとにする。


既に一時限目の授業が始まっているのだろう。


静まり返った廊下をとぼとぼ歩いていると、やがて昇降口にたどり着いた。



すると、下駄箱からスニーカーを取り出そうというあたりで、後ろから東城の声がした。



「冬月、一つ聞き忘れていたことがある。君が気を失っている間、ひどくうなされた様子なのが気がかりだったんだ。なにか悪い夢でも見ていたか?」



私は一瞬躊躇(ためら)ったが、所詮夢の話だと思い直し、東城にその話をした。


話の途中、東城は一瞬驚きの表情を見せたかと思うと、私の意と反して、神妙な顔つきになっていた。



「そうか。実は君の症状については、初めて保健室を訪れた時から気にかけていたんだ。」



東城は白衣の下に着ていた薄手のジャケットに手をやり、内ポケットから名刺を取ると、私に差し出した。




HEALTH(ヘルス) CAFE(カフェ ANEMOS(アネモス)  辻 夏樹





名刺には、黒を背景に白の横文字でそう書かれていた。


住所と電話番号の部分は、赤のラインで彩られている。


お世辞にも、あまり趣味のいいデザインとは思えなかった。


その時の私が名刺の色から連想したものも、正直あまり良いものではない。



黒は鴨、赤は血、白は歯。



いずれにしても、これを渡してきた東城の意図が掴めず、私は戸惑いの仕草で説明を促す。



「病院の診察が終わってからでいい。余裕があったら、その店に立ち寄ってみなさい。おそらく、検査では特に異常は見当たらないはずだ。けれど、だからといってこのまま放っておくわけにもいかないだろう?」




東城の言わんとしていることはなんとなく分かる。


今月になってからすでに二度、原因不明のひどい目眩と頭痛を訴えて、私は保健室を訪れていた。


そして三度目の今日、ついに意識を失った。


すでに一度病院に赴き、血液検査などは済ませているが、なんの異常も見つかっていない。


しまいには母親から「本当に痛いの……?」と、仮病を疑われる始末だった。


その後、医者からは痛み止めの薬を処方されているが、正直気休めにもなっていない。




「コーヒーでも飲んで、少しは気を休ませろということでしょうか。」




私は名刺に注いでいた視線をあげて、東城の顔を見つめる。


すると東城は、私の誤った解釈に呆れた様子でこう答えた。



「そうじゃない。この店に、私の大学時代の先輩がいてね。卒業後、すぐに就職した私と違い、彼は大学院で心理学の研究をしていたんだ。今はしがない喫茶店のオーナーだがね。少し変わっていて、私より金はないけど、学はある。東城朱美の名前を出せば、きっと冬月の助けになってくれると思うよ。ま、気が向いたら立ち寄ってごらん。」




 それじゃ、と、右手を上げながら踵を返すと、東城は白衣をなびかせながら保健室へと戻っていった。


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