◆白衣◆
千鶴が去った後、私はベッドに腰を掛けた状態で、窓から見える中庭の景色をぼんやりと眺めていた。
用務員のおじさんが花壇の手入れをしている。花のついていない紫陽花の樹形を整えているようだ。
園芸ハサミの音に反応し、それまで机でなにやら事務仕事をしていた東城も、外に目を向けた。
「そこの紫陽花の花壇さ、私がここに通っていた時からあるんだよ。」
作業の手を止めて外を見つめる東城の表情は、どこか懐かしそうな様子だった。
「冬月はまだ十三だったか?」
「つい先日、十四になりました。」
「そうか。じゃあちょうど二十年前だね。実は私も中学二年生の頃は、よくこの保健室に来ていたんだ。」
先ほどは過去への愁いを漂わせていたその表情は、いつの間にか退屈そうな顔つきに変わっている。
「どこか、悪かったんですか。」
「いいや、私はただの仮病。」
悪戯っぽく笑う彼女の表情は、実際の年齢よりも一回り幼く思える。
わずかに開いていた窓の隙間から風がそっと吹き込むと、軽く舞い上がったカーテンのレースが、私の指に触れた。
「六月かな、梅雨の時期だった。毎日雨ばっかり降っていてさ。当時の教室にはエアコンも除湿器もついていなかったんだ。今は空き教室になっているところまでクラスがあってね、生徒数も多かったんだよ。ただでさえ湿っぽいのに、教室の空気が最悪でね。隣の席の男子が腋臭だった。」
それは仮病というよりも、ただの不可抗力ではないだろうか……。
そう思ったが、私は黙っていた。
「当時の用務員のおじさんと、窓越しに話したことがあってね。剪定っていうんだって。紫陽花は放っておくと、年々株が大きくなるからね。梅雨が明けて、綺麗な花が咲き終わると、花の部分を切り落とすんだ。そして夏を経て、秋の初め。ちょうど今頃になると、ああやって二度目の剪定をするんだよ。ロケット鉛筆のような要領だな。」
紫陽花の説明はなんとなく分かったが、最後の例えがいまひとつ理解できずに、私は首を傾げる。
東城は、そんな私を見つめて少し自虐的な笑みを浮かべていた。
多分、一種のジェネレーションギャップだろう。
「ある程度手入れしておかないと、風通しが悪くなって腐ってしまうんだとさ。私は用務員のおじさんには感謝しているんだ。藍色に咲いた花を見ただけで、当時の私は心なしか涼しげな気持ちになれたからね。」
そんな話をしていると、入り口の扉をノックする音が聞こえた。
扉が開くと、千鶴が私の鞄を持ってこちらに歩いてくる。
「お大事にね。」
「うん、ありがとう。」
そうお礼を言って、私は鞄を受け取った。
二人に見送られながら、保健室をあとにする。
既に一時限目の授業が始まっているのだろう。
静まり返った廊下をとぼとぼ歩いていると、やがて昇降口にたどり着いた。
すると、下駄箱からスニーカーを取り出そうというあたりで、後ろから東城の声がした。
「冬月、一つ聞き忘れていたことがある。君が気を失っている間、ひどくうなされた様子なのが気がかりだったんだ。なにか悪い夢でも見ていたか?」
私は一瞬躊躇ったが、所詮夢の話だと思い直し、東城にその話をした。
話の途中、東城は一瞬驚きの表情を見せたかと思うと、私の意と反して、神妙な顔つきになっていた。
「そうか。実は君の症状については、初めて保健室を訪れた時から気にかけていたんだ。」
東城は白衣の下に着ていた薄手のジャケットに手をやり、内ポケットから名刺を取ると、私に差し出した。
HEALTH CAFE ANEMOS 辻 夏樹
名刺には、黒を背景に白の横文字でそう書かれていた。
住所と電話番号の部分は、赤のラインで彩られている。
お世辞にも、あまり趣味のいいデザインとは思えなかった。
その時の私が名刺の色から連想したものも、正直あまり良いものではない。
黒は鴨、赤は血、白は歯。
いずれにしても、これを渡してきた東城の意図が掴めず、私は戸惑いの仕草で説明を促す。
「病院の診察が終わってからでいい。余裕があったら、その店に立ち寄ってみなさい。おそらく、検査では特に異常は見当たらないはずだ。けれど、だからといってこのまま放っておくわけにもいかないだろう?」
東城の言わんとしていることはなんとなく分かる。
今月になってからすでに二度、原因不明のひどい目眩と頭痛を訴えて、私は保健室を訪れていた。
そして三度目の今日、ついに意識を失った。
すでに一度病院に赴き、血液検査などは済ませているが、なんの異常も見つかっていない。
しまいには母親から「本当に痛いの……?」と、仮病を疑われる始末だった。
その後、医者からは痛み止めの薬を処方されているが、正直気休めにもなっていない。
「コーヒーでも飲んで、少しは気を休ませろということでしょうか。」
私は名刺に注いでいた視線をあげて、東城の顔を見つめる。
すると東城は、私の誤った解釈に呆れた様子でこう答えた。
「そうじゃない。この店に、私の大学時代の先輩がいてね。卒業後、すぐに就職した私と違い、彼は大学院で心理学の研究をしていたんだ。今はしがない喫茶店のオーナーだがね。少し変わっていて、私より金はないけど、学はある。東城朱美の名前を出せば、きっと冬月の助けになってくれると思うよ。ま、気が向いたら立ち寄ってごらん。」
それじゃ、と、右手を上げながら踵を返すと、東城は白衣をなびかせながら保健室へと戻っていった。