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紫陽花(あじさい)と鴨(かも)  作者: ろいやるぱふ
春紫苑
22/41

◆画集◆

 

 花見の片づけを終えてアネモスの店内に入ると、昼間とはまた違った雰囲気を感じることができた。


 家具の配置やレイアウトは以前から別段変化がないのだが、闇の冷たさが店内の温かさをより引き立てているのが印象的だった。



 「えーと、画集は確かこの辺だったかなー。」

 


 塚本雅はかがみこみながら、本棚の最下段に目をやっている。



 「あ。あった、あった。歩海ちゃん、こっちこっち。」

 

 そう言って、彼女は私を手招きしている。



 「なんだか学生時代を思い出すなー。あ、歩海ちゃんも適当に手に取って見ていいからね。」

 


 ピカソ、モネ、ルノワール、デュビュッフェ、ローランサン、マティス……。



 数々の画家の画集がそこには並べられていた。正直、どれを手に取っていいのかすら分からなかったけど、夢中になって本に魅入っている彼女を見て、私もとりあえず本を開いてみることにした。



 数ある画集の中からそれとなく、私がたまたま手に取ったのは、エドヴァルド・ムンクの画集だった。


 ページを一枚ずつ、軽く眺めるように見てはめくっていく。


 もともと美術に興味のない人間が、ゆっくりと絵を見つめたところで、得られるものなどきっと微々たるものなのだろう。



 そんなことを考えながらページをめくっていると、不思議とあるページで私の手はとまった。





 一八九三年 「叫び」





 赤く、血塗られたような空模様と、青く、混濁と淀んだ地上の狭間で、一人の青年が狂気に取りつかれたように叫んでいる絵だった。



 なぜ、そのページで手が止まったのか、私は自分でも理解できなかった。


 デジャブのようなオカルト的な経験はこれまで体験したことがなかったけれど、不思議と倒れてうなされているときの夢が頭を蘇った。



 私が奇妙な体験に取りつかれてそのページを凝視していると、塚本雅は自分の手をとめて話しかけてきた。



 「それ、ムンクの一番有名な絵だね。この絵の前に、すごく似ているもので『絶望』っていうのもあるけど、こっちの方が斬新で知名度も高い絵なの。ちなみに、真ん中の青年はムンク自身を表していて、一見頬に手を当てているようにも見えるんだけど、これは耳を塞いでいる動作なんだって。」

 


 我に返った私は、彼女の方を見つめる。


 いつになく流暢な口ぶりに、私は驚いた表情をしていたかもしれない。



 「って、本に書いてあることをそのまま言ってみただけなんだけどね。」

 


 「すごいですね。全部覚えてるんですか?」



 「まさか。自分が気に入ったり、印象的だった絵だけだよ。私もその絵はけっこう好きだったの。」

 


 

 好きだった。


 過去形なのが少し気にはなったけど、些細なことだと思って私は深く聞かないことにした。

 


 そんな彼女が手に取っている画集に目をやると、そこにはパウル・クレーと書かれていた。



 もちろん、かろうじてゴッホの名前を知っている私からすれば、その絵画は全くの未知の世界である。



 「その画家さん、好きなんですか?」


 「うん、なんとなくなんだけどね。見ていて優しい感じがするの。見てみる?」

 


 彼女に勧められて画集を受け取ると、私はそのページをめくった。



 生憎、今日生まれて初めて絵画に触れた私は、彼女の感想に共感できるほどの感性を持ち合わせていないらしい。



 しかし、首をかしげながらもページを進めていくと、不思議なことにまたも手がとまってしまった。






 一九二九年 「憑かれた道化師」






 顔は笑っているのに、全体的に悲しい雰囲気が漂うピエロのような生き物の絵だった。



 先ほどのような丁寧な解説を期待して塚本雅を一瞥すると、予想に反して彼女は物憂げな表情に変わっていた。




 「歩海ちゃんはすごく面白い感性をしているね。美術部、向いてるかもよ。」

 


 一体、どんな判断基準でそんなことが言えるのだろうか。



 よく分からなかったけれど、この短い時間で私が奇妙な体験をしたということは、間違いなく言えることだった。

 


 気が付くと、画集を見るのは思いのほか退屈ではなくなっていた。


 全ての作品に引き付けられるわけではない。


 だけど時折、無意識的に目を背けられなくなる瞬間に遭遇すると、私はその体験を貴重なものとして捉えるようになっていたのだ。



 「冬月さん、そろそろ遅くなってきたけど大丈夫かい?」

 


 辻夏樹の声を聞いて我に返る。


 時計に目をやると、夜の八時を回っていた。



 「あ、すみません。すっかり長居してしまいました。」


 「うちは構わないよ。もし気になる本があったなら、またいつでも来るといい。」


 「ありがとうございます。」

 


 それだけ言うと、彼は自室があると思われる二階へと上って行った。



 「じゃあ、そろそろ帰ろっか。」


 「はい。あ、あの…。」


 「どうしたの?」


 「また来てもいいですか?」

 


 塚本雅は優しく微笑む。


 「もちろんよ。」



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