◆羨望◆
宴もたけなわ、意外にも花見の席は居心地の悪いものではなかった。
特に、これまで学校でしか関わったことのなかった東城と、辻夏樹の思い出話は、実に興味深いものだった。
「冬月は恋愛したほうがいいぞ。そうじゃないと先輩みたいに寂しい大人になってしまうからね。」
「君だって人のこと言えた義理じゃないだろ。」
「私は少なくとも先輩よりは経験がありますよ?」
「え、そうなの?」
辻夏樹は拍子抜けした表情を浮かべている。
「朱美さん、美人でモテモテだったからねえ。」
塚本雅は、相変わらず微笑むように二人のやり取りを見守っていた。
「そんなことないですよ。」
「ううん、上級生の間でもかなり評判だったんだよ。」
なんというか、これまで生徒として関わってきた私からすると、旧友との会話を楽しむ東城を見るのは複雑な心境だった。
以前、辻夏樹がペルソナの話をしていたことが脳裏をよぎる。
結局、私はこれまで仮面を被った人間としか関わっていないのだ。
教師としての東城、カウンセラーとしての辻夏樹、母親としての母。
それは別に悲しむべきことでもなければ、嘆くことでもない。
私が母の前で娘としての仮面を被ることがあるように、それは相手と私自身を保護する役割を果たしているのだから。
きっとこの仮面がなければ、この世界は罵詈雑言の飛び交う無法地帯と化してしまうだろう。
「ところで冬月、部活はどうするんだ?」
東城が私に話を振ってきた。
「まだ決めていません。明日、美術部の見学に行くことにはなっていますけど。」
するとこれまで比較的聞き手に専念していた塚本雅が、興味を示して乗り出してきた。
「歩海ちゃん、絵が好きなの?」
「いえ、そういうわけではないんですけど。友達に誘われて。」
「それってもしかして赤坂のことか?」
察しのいい東城は、それが千鶴のことだと瞬時に理解したらしい。
「はい。」
「あいつはどうするんだ?」
「千鶴は吹奏楽を続けるみたいです。」
「なるほどね。いいんじゃないか、美術部。」
「なんでそう思うんですか。」
「少なくとも、騒がしくはない。」
それはいわゆる消去法による選択だった。
特にやりたいことのない私からすれば決して悪い選択方法ではないのだけれど、志望動機としては決定打に欠けて思えた。
すると意外にも、塚本雅がそれに賛同してきた。
「私も高校の時美術部だったんだよ。意外と楽しいよ、絵を描いたりするの。」
東城も、彼女が美術部出身なのは初耳だったらしく、驚きの表情を浮かべていた。一方、辻夏樹は知っていたのだろう。沈黙をもってそれを示していた。
すると何かを思いついたように、ゆっくりと語りだした。
「塚本君の趣味で、店の中に画集が置いてある。帰りに覗いていくといいよ。」
画集。
今まで見たことなんて一度もなかった。
好きだとか嫌いだとか、それすらも分からないほど、これまでの生活と縁がない代物だったからだ。
酔いが回ったのだろうか。東城は徐に立ち上がると、帰り支度を始めた。
「冬月、そういえば帰りはどうする?」
「えーと、電車で帰るつもりでした。」
そう答えると、東城はなにか考え込んでいる様子だった。
「心配しなくても大丈夫だよ朱美さん、私送っていくから。なんなら、朱美さんも一緒に乗っていく?」
「ありがとうございます、雅さん。私は大丈夫ですから、冬月を頼みます。」
私は遠慮した視線で塚本雅を見つめると、彼女はにこりと笑って見せた。
「もうすっかり暗くなったし、一人だと危ないから。」
たしかに、ここ最近物騒なニュースも立て込んでいる。
ビールを勢いよく飲んでいた東城に対して、彼女がお茶しか飲んでいなかったのは、はじめからこうなることを予測していたからなのだろうか。
「ありがとうございます。なんだかすみませんでした。」
本当はお酒が飲みたかったのではないかという私の邪推を察したのか、塚本雅は少し慌て答えた。
「本当に気にしなくていいのよ。私もともと飲めないから。歩海ちゃんは優しいのね。」
料理ができて、よく気が利いて、優しくて。
もし私が大きくなったら、彼女のような立ち振る舞いのできる女性になりたいものだ。
憧れというと大げさかもしれないけれど、塚本雅にはそれに似た類の感情を抱かされた。
本当は、人が人に憧れるのは間違いだと私は思う。
憧れはその相手の表面的な部分だけを抽出して、美化しているに過ぎないと思うからだ。
けれど、頭ではそう思っていても、相手を好意的に思う感情は自然と湧き上がってくる。
この対象が異性になったとき、人はそれを恋というのだろうか。
まだ経験のない私にそれを語る資格はないけれど、東城の言葉を信じるのであれば、それはきっと悪いものではないのだろう。
帰りゆく東城の背中を見送りながら、私はそんなことを考えていた。




