◆匂い◆
「……歩海、大丈夫?」
耳元で呟く聞き慣れた声に体が反応し、私は目を覚ました。
ぼやけていた視界がゆっくりと、鮮明さを帯びていくのが分かる。
霞んでいた視界が段々とその輪郭を露わにすると、潤んだ瞳で心配そうにこちらの顔をのぞき込んでいる人物の姿を捉えた。
そこにいたのは同じクラスの友人、赤坂千鶴の姿だった。
上下が紺色で統一された制服は、一年以上着ていたとは思えないほど綺麗な状態で、皺ひとつ見当たらない。
胸元には私と同じ好尚台中学校の校章が付けられている。
校章に刻まれた桜を撫でるように滴る健やかな黒髪が、胸の下で程よく整えられていた。
幼いころから、肩にもかからない長さで髪を切ってきた私からすると、千鶴のような髪型が似合う女の子は、少し羨ましい。
朦朧とした意識の中、そんなことを考えていた。
それとなく彼女から視線を外し、周囲の様子を確認しようと試みる。
しかし、辺りを見渡すまでもなく、消毒液のような独特の匂いが鼻を突き、ここが学校の保健室だと気づいた。
千鶴の姿を確認するや否や、彼女の後ろほうから、白衣を纏った女性が歩み寄ってくる。
「お、冬月、目が覚めたか。」
今にも泣きだしそうな千鶴とは一転、比較的落ち着いた様子で話しかけてきたのは、東城朱美。この学校の養護教諭だ。
これまで、私が東城と直接言葉を交わしたことは、数える程度しかない。
しかし、過去に何度かこのベッドを利用していた私は、彼女を訪れる生徒との会話を聞いていたおかげで、東城の人となりを把握していた。
好尚台中学の卒業生で、福祉系の大学に進学した後、この学校に勤めているらしい。
男子生徒、女子生徒、教師陣の間で美人と噂されているにも関わらず、三十四歳になった今でも独身の理由は誰も知らない。
「全校朝礼の途中、体育館で倒れたそうだな。赤坂が言うには、頭を打ったらしいが、まだ痛むか?」
そう言われて、側頭部のあたりに手をやると、若干腫れていることが分かった。
言われてみれば、確かに鈍痛がする。
そう素直に答えると、東城は何故か軽いため息をついた後、苦笑を浮かべながら話を続けた。
「言われてみれば、か……。自分のことなのにまるで他人事のような言い草だな。頭の鈍痛を顔色一つ変えずに訴えられるとは大したもんだ。」
まだ、少し寝ぼけているのだろうか。
私は言葉の意味が分からず、困惑した。
そして、頭の痛みがひいていったことを確認した後、ようやく、東城が皮肉を言っていることを理解した。
「今月に入って三回目か。今までは軽い目眩で済んでいたようだし、意識を失うまでには至っていなかったが、今回のは軽視できないな。頭は打ち所が悪いと、後遺症が残ることもあるからね。今日は念のため早退して、脳外科の検査を受けておいで。親御さんには連絡入れておいたから。」
一転して柔らかい口調でそう言ってきた東城の言葉を受けて、私は「はい。」と、首を縦に振った。
そして今更になって、東城の隣りにいた千鶴に声をかける。
「千鶴、ありがとう。もう大丈夫だよ。」
千鶴は、私が幼いころから近所に住んでいる、数少ない友人だ。ここ数週間、私が学校を休みがちだった期間は、よく自宅までプリントを届けてもらっていた。
今回もおそらくは、私が意識を失っている間も、ずっと付きっきりでみてくれていたのだろう。
「ここのところ歩海、なんだか調子悪そうだったから、ずっと心配していたんだよ。さっき倒れた時、いくら声を掛けても反応しないから、このまま動かなくなったらどうしようと思って……。」
「…………。」
その時に限って言えば、本来は尊ぶべき彼女の優しさは、私の心をひどく憂鬱な気持ちにさせた。
自分には持ち得ない清純さを突き付けられる、嫉妬に似た感覚。
無実の罪で咎められ、叱責を受けるような感覚。
なんとも形容し難い、複雑な感情が私の体内をこだまする。
むしろ東城のように、皮肉の一つでも言ってくれたほうが、まだよかった。
今、千鶴の純粋な心に触れることは、私にとってとても窮屈なことのように思えて、返す言葉に詰まってしまう。
すると、そんな私の心境を察したかのように、東城が言葉を挟んだ。
「赤坂は大袈裟なんだよ。貧血なんてそう珍しいことじゃない。ましてや君たちのように、発育途上でホルモンバランスが崩れやすい、十代の女の子は特にね。それより、さっきも言った通り、冬月は早退させる。赤坂、悪いが冬月の代わりに、教室から鞄を取ってきてくれないか?」
千鶴は一瞬何か言いたそうに不満げな表情を見せるも、小さな声で「はい。」と呟き、保健室を出て行った。
廊下を歩いていく千鶴の背中を見つめながら、東城が切なそうな表情を浮かべている。
「なあ、冬月。」
「はい。」
「赤坂はいいやつだな。」
「……はい。」
私はそう答えた後、軽く自分の歯を噛んでみた。
先ほどの夢とは違い、しっかりと嚙み合った確かな感触のあと、そこに少しだけ血の匂いが混ざっているのを感じた。