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紫陽花(あじさい)と鴨(かも)  作者: ろいやるぱふ
春紫苑
17/41

◆高校生◆


 目が覚めると、そこは高校の保健室だった。頭部に微かな鈍痛の余韻を感じることができる。




 「あ、歩海。目覚めた?」




 春のうららかな桜の香りと消毒液の匂いが、風とともに千鶴の声を、運んでくれた。




 「うん、ごめん。またやっちゃったみたい。」

 

 中学時代、何度か同じような経験をしていたこともあり、千鶴も私自身も、以前よりずっとこの事態には 落ち着いて対処できるようになっていた。



「朝ごはんは?」


 私は首を横に振った。


「もう、食べないとダメだよ。購買でパン買ってくるから待ってて。」


「いいよ。食欲ないし。」


「いいからいいから。」



 そう言うと千鶴は颯爽と保健室を出て行った。


 

 中学時代、不可思議な体調不良という理由が、高校進学の免罪符になりえないことを知っていた私は、多少無理をしてでも学校に通い、勉強をすることに専念した。



 晴れてこの春から無事高校生となったのだけれど、入学早々にして倒れてしまったらしい。



 


 好尚台(こうしょうだい)中学から電車で一駅ほど離れた住宅街の真ん中、好尚台第一高校の普通科は、校風や偏差値も至って平均並みの共学制である。



 とはいえ、学校の出席日数も少なく、塾へも通えなかった私にとっては決して低い難易度ではなく、見事合格を勝ち取った日は思わず震え上がったのを覚えている。



 中学時代の同級生が同じクラスにほとんどいない中、千鶴が同じクラスだったのは正直頼もしかった。



入学初日から女子の間ではある程度のグループが出来上がっていて、もともと人見知りの私はうまく溶け込めずにいた。



 対して、千鶴はそのかわいらしい容姿のせいもあって、クラスのみんなとは男女問わず分け隔てなく話せている様子だった。



とはいえ、昔から気心が知れた仲ということもあって、千鶴は何をするにも私と一緒だった。



 保健室の扉が開き、ハムカツサンドと紙パックのピーチティーを手にした千鶴が帰ってきた。




「授業中だから購買空いてたよ。ついでに私もチョココロネ買ってきちゃった。」


「ありがとう。あとでお金渡すね。」


「え―、いいよ。それより私、今度はクリームパンが食べたいなあ。」



 学食の購買は休み時間になるとすごい人だかりになる。



 クラスの間では目当てのものが売り切れる前にそれを入手しようと、仲の良い友達とそれを共有し、作戦を講じるのが常なのである。



 もっとも、運動部の連中や先輩集団を相手に、それを成し遂げるのは至難の業なのだけれど。

 

 「うん……。多分無理だけど、一応覚えておくね。」


 「それよりも歩海。今日の部活見学一緒に行かない?」


  



 高校入学から早一週間、放課後は自分の興味のある部活を見学することができることになっていた。




「今日は一応病院行くから。明日ならいいよ。」


「そっか。じゃあ今日は別の人と回るね。」


「千鶴はどこに入るつもりなの?」


「私は吹奏楽続けるつもりだよ。でも他の部活見るのって楽しいじゃん。ほら、格好いい先輩がいるかもしれないし。」



 千鶴は決して男好きなわけではない。


 中学時代から男子の支持は高かったけれど、不思議と色恋沙汰とは縁がなかった。


 私が知らないだけかもしれないけど。



 「それよりも歩海は部活決めたの?」




 中学時代、出席日数が少なかった私は、そもそもまともに部活に励んだことがなかった。



 唯一の経歴は、ただでさえ活動の目立たない文芸部の幽霊部員だけである。



「帰宅部ってないの?」



「はは!歩海、言っておくけど帰宅部って部活じゃないからね?」



 そんなはずはない。


 私は先日合格祝いとして母に授けてもらったスマホの画面を千鶴に突き付けた。



「え、なになに。『帰宅部は、帰宅について、研究及び実践する部活動である。帰宅部は、その研究テーマが帰宅であるために、その活動の大半は学校外で行われる。そのため、帰宅部員以外の生徒からは、部活動に所属していないのが帰宅部だと思われているが、これは誤りである。むしろ学校に出てきたときはもちろんのこと、休日もほぼ毎日欠かさず部活動に参加するなど、その熱心さは他の部活動の比ではない。もし仮に、帰宅部は部活じゃないなどと心無い発言をする者があれば、帰宅部の実情について全く理解していないと言えよう。』なにこれ?」




 事実、ネット上にこの記事は存在した。私が勝ち誇った笑みを浮かべていると、意外にも千鶴は少し寂しそうな表情を浮かべていた。



「せっかく同じ高校に入学できたんだし、何かやってみようよ?なんなら一緒に吹奏楽やらない?」



 千鶴には申し訳ないが、正直それはあり得ない選択だった。コンクールのために練習するだけならまだしも、休日や長期の休みも返上で、野球部をはじめとする運動部の応援に駆り出されるなんて、私は御免だ。



「考えてみるね。」



 千鶴の性格からして、こんなことを正直に話しても埒が明かない。


 嘘は人間関係の潤滑油というけれど、それはきっと正しいのだろう。


 嘘をつく人だけが悪いんじゃない。


 嘘をつかせる人にだって少なからず原因はあるのだ。



 「無理にとは言わないけどさ。」




 私にとって、部活に入ること自体は決して嫌なことではなかった。



 これまで特にやりたいことも見つからず、何かに夢中になったこともなかった私は、いい加減そんな自分に嫌気がさしていたのである。



 何かに没頭することができれば、新しい自分になれるような微かな希望さえ胸に抱いていた。


 

 ふとした瞬間、自分は感情の欠落した人間で、よもや不感症なのではないかと思うことがある。



 それは昔からの話で、特に千鶴と一緒にいるとそれを痛切に感じるのだった。



 「運動部は向いてなさそうだし、吹奏楽も含めて文化部で考えてみるよ。」



 「文化部でまだ見学に行っていないのは……。美術部とかどう?」




 美術部。これまで縁も所縁もない世界だった。


 

 ほかに行きたい部活もなかったし、所詮見学である。


 軽い気持ちで、私は千鶴の提案を了承した。



 「じゃあ明日ね。お大事に。」


 「ありがとう。また明日ね。」



 別れの挨拶をすると、千鶴は保健室から去っていった。



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