◇喧嘩◇
「……輩。」
耳元で、東城朱美の声がする。
「辻先輩、聞いてますか?」
二分、いや、一分も経っていなかったかもしれない。
二件目のバーでカウンターに座った僕たちだったが、軽くうたた寝をしていたらしい。
バーといってもどうやら東上朱美のバイト先らしく、彼女に気取った雰囲気は見受けられない。
自然体というか、随分とくつろいだ様子である。
ほんの僅かな時間とはいえ、トランペットの心地よい音色に身を任せて寝てしまう僕も大概なのだが。
「あ、ごめん。なんの話だっけ?」
「ですから、持つ者はそれに見合った仕事をするべきだと言っているんです。」
「というと?」
「私、先輩の卒論を全部読んだんです。」
大学図書館には卒業生の卒業アルバムを置いているスペースの傍ら、彼らの論文もまた閲覧が可能だった。
ちなみに、僕のテーマは精神医学の不都合。
「それはどうも。批判はゼミの先生から散々受けてきたからね、今日は勘弁してくれないか。」
「いえ、その逆です。私は先輩みたいな人が現場にいるべきだと思います。」
東上朱美から返ってきたのは意外な言葉だった。
というのも、僕の卒論は周囲ではかなり不評だったからだ。
二年前僕が通っていた学科は精神医学を専攻とするところだった。
医者を真剣に志す人間たちの中で、その存在や在り方を否定するような内容の論文を出したのだから、バッシングを受けるのは無理もなかった。
そもそも、精神科医と臨床心理士というのは全く異なる存在である。
まず、精神科医は治療という観点から投薬を行うことを前提としている。
不眠症を患っている者に睡眠薬を、鬱病の患者に抗うつ剤を投薬することなどがこれにあたる。
一方で、臨床心理士はカウンセリングを繰り返し、クライアント自身の力で精神状態を回復させることが主な仕事である。
どちらが良い、悪いといったこともないのだが、当時の僕は感情論的に薬物治療を否定することばかりを書き連ねていたのだ。
「正直、今思えばどうかしていたよ。僕は経済のことはてんで疎くてね。冷静に考えれば、一人一人の患者に時間をかけて尚且つ投薬はしないほうがいいだなんて、そんな非効率的なことをする医者なんていないだろうに。少なくとも、僕が製薬会社に勤めていたら、そんな医者とは関わりたいと思わないよ。」
今となって客観的に考えてみれば、僕が二年前に出した論文は現実を知らずに理想論ばかりを追い求めたおとぎ話でしかなく、若気の至りにすぎない黒歴史の一つだった。
それでも、決して短くはないその文章を読んでくれた人がいるというのは、少しばかり自分の承認欲求を充たしてくれた。
しかしそれを感じたのもつかの間、それ以上の恥辱を感じることになるのを、僕は免れることができなかった。
「そろそろ帰ろうか。」
僕が席を立とうとするのを、東城朱美は真剣な顔つきでそれを制した。
「それは単に畑を間違えただけの話じゃないですか。阪神ファンサポーターの中で巨人を応援していたら、疎まれて当然です。」
直後、優しく諭すように彼女は語り始めた。
「私、保健室の先生に憧れて今の学校に入ったんです。学生時代、当時の先生にいろいろとお世話になって。」
いつになく柔らかな口調と、落ち着いたジャズのBGMが相俟って、僕は無心で彼女の話に耳を傾けていた。
「でも、先輩の論文を読んで思いました。漠然とした憧れや正義感で何かになろうと思うのはよくないって。それは手段であって、目的ではないじゃないですか。」
彼女の言っていることは概ね間違っていない。
誰も、ただ免許証が欲しいがために自動車学校に通うわけじゃない。
車を運転することができるようになるために免許を取得するのだ。
「私は先輩ほど勉学に励んできた時間が多くありませんし、頭もよくありません。でも、人の役に立ちたいという気持ちは持っているつもりです。」
嫉妬か、はたまた羨望か。なぜそんな目で見つめられるのかが理解できないまま、彼女は言葉を続けた。
「でも、私が抱ける夢ってその程度なんだなって思ったんです。私には先輩ほど、何かを憎むことも、没頭して勉学に励む原動力もありません。きっとそれができるのは選ばれた少数の人間だけなんですよ。先輩がどうしてそこまで薬物治療を憎むのか、精神科医の道から臨床心理士の道に転向したのか、過去に何があったのか、私は知りません。それはなんとなく聞かないほうがいいことだと思っているからです。」
「……。」
「私は弱い人間です。自分の本心より、いつも周囲の雰囲気に流されてしまうんです。自分がありたい自分よりも、あるべき自分や求められる自分を演じてしまうんですよ。それも条件反射的に。けれど、先輩の前では不思議と正直に話ができるんです。」
もうお酒は充分だったのか、彼女はチェイサーを一口飲んだ。
「これって才能だと思います。それに私、先輩が大学を首席で卒業したことだって知っているんですよ。それなのに、一般企業に就職だなんて……。正直納得できません。だってそうじゃないですか。世の中には先輩のようになりたくてもなれない人がたくさんいるんですよ。持つ者はそれに見合った仕事をするべきだといったのはそういう意味です。それでは助けを待つ人も、才能を持たない人も報われません。」
正直、ここまで面と向かって言ってくる人は初めてだったせいか、僕は戸惑いを隠せなかった。
僕の得意とする謙遜やはぐらかしが通用する相手ではないことが分かったうえで、慎重に言葉を吟味する。
「もし君がピカソやモーツァルトの娘として生まれていたらどうかな。なんの躊躇いもなく画家や音楽家を目指していたかな。」
「それは正直分かりませんね。けれど、少なくとも先輩は誰かに強制されたわけではなく、自分の意志で勉強を続けてきたんですよね?」
「それは確かにその通りだ。けれど、君は何か勘違いをしているみたいだ。僕は何も、誰かの役に立ちたいという理由で勉強を続けてきたわけじゃない。」
東上朱美は意外そうな顔をしていた。
「僕はただ、知りたいだけだよ。」
「知りたいっていうのは、いったい何を?」
「この世界さ。」
「答えが曖昧過ぎてわかりません。」
「目の前にどれだけ素晴らしい景色が広がっていても、その文化的な価値や歴史を知っているのといないとでは、その認識はまったく違うものになる。景色だけならまだいい。これが人間だったらどうだろう。無知というのは、時として人をどこまでも残酷にしてしまうものだよ。そういったことを極力少なくするためにね、知識っていうのは大切だと僕は思うんだ。けれど、知識っていうのはあくまで知識でしかないんだよ。石ころに躓いて転んだときの起き上がり方を伝えるのに、石ころを見たことも転んだこともないんでは話にならないと思わないかい?」
「それは、自らの苦悩や体験を通して当事者の気持ちが分かるようになりたいとか、そういった類の話でしょうか。」
「かすってはいるけれど少し違うね。僕はそこまで自己犠牲に美徳を見出す人間じゃない。見ず知らずの人のために自分が痛い思いをしてまで何とかしてあげたいと思うようなマゾでもない。結局、僕みたいな人間にできることなんていうのは、せいぜい人間が躓いてしまいがちな石ころの大きさを伝えることくらいなもんさ。」
「……。なんかよくわかりません。その回りくどいうえに分かりづらい例え話をする癖、どうにかならないんですか?」
「要するにさ、僕は君と違って不特定多数の人間の手助けなんかさらさら興味がないんだよ。人間というのは根本的に利己的な生き物だからね。危機的状況の中で助けを乞う人間の言うことなんて、大半が自分に都合のいいわがままばかりさ。仮に、善意からそんな奴らに手を差し伸べて助けてあげたところで、彼らの心に生じるもっとも大きな感情は何だと思う?それは助けられたことに対する感謝なんかじゃない。自分は助かったのだという、安堵の気持ちさ。僕はもともと博愛主義でも、キリスト教徒でもないからね。隣人愛的な感情で行動することはできないんだよ。」
「少し腑に落ちませんが、大体理解しました。でも先輩、世の中には本当に困っている人だっているんですよ?そんな人たちのために日々ボランティア活動をする人だっています。けれど、物理的な問題はなんとかなることがあっても、心のケアというのは専門家じゃないとできないんです。先輩にはそれを実行できる知識と能力があります。それを自ら手放すだなんてもったいないと思いませんか。」
東上朱美はなかなか食い下がらない。
「君はトロッコ問題を知っているかい?」
「何ですかそれ。」
「有名な倫理学の思考実験でね。君はある日、トラブルに巻き込まれる。路線を走っていたトロッコが制御不能になり、その先には五人の作業員がいる。この現場にたまたま居合わせた君の目の前には分岐器があり、進路を変えることのできる唯一の人間だ。しかし、変更した進路の先にも一人だけ作業員がいる。どちらを選んでも死者が出てしまうこの状況で、君はどうする?」
五人を助けるために一人を犠牲にすることは許されるか。一見道徳的に正しく見えたとしても、認めることができない逆説を、彼女はどう考えるのだろう。
「そんな見え透いた誘導尋問に、私が引っかかるとでも思っているんですか?覚えたての言葉や理論を振りかざす中学生みたいなことしないでください。先輩がいま語っているのはパラドックスじゃなくてただの詭弁です。話をはぐらかさないでください。」
「君も強情だね。まあいいや。僕が言いたいのはどっちが正しいかなんてことじゃない。たまたま分岐器に居合わせただけの人間が、人の命を背負ったり、罪悪感に苦しむ必要なんてないということさ。結局、僕も利己的な人間の一員というわけだ。もしこれが赤の他人ではなく、結婚相手や息子、好意的に思う人だったら話は別だけどね。僕は自分が助けたいと思う人のためにしか、分岐器のレバーを操作しないと決めているんだ。」
そこまで言うと、彼女は呆れたように軽い溜息を一つついた。
「結婚とか子供とかいう前に、先輩って彼女すらいたことないですよね?かっこいいこと言ってるつもりかもしれませんけど、童貞がいくら叫んだって説得力ありませんから。というか、いい加減彼女の一人でもつくったらどうなんですか。私は絶対無理ですけど。」
胸が痛い。どれだけ完璧な理論も、圧倒的な事実の前では全くの無力だということを、彼女は知っているらしい。彼女のような人間を言葉で言い負かそうとした僕が愚かだった。
「傷ついたよ。」
「私、ガリ勉は嫌いなんです。」