◇15年前◇
「辻先輩、聞いてますか?」
大学図書館の仕事を終えて帰り支度をしていると、東上朱美が不機嫌そうな表情で歩み寄ってきた。
「何?」
「いや、だから進路です。卒業後はどうするのか聞いてるんです。」
姫百合学院大学の付属図書館は、一八時の閉館を過ぎ、僕と彼女を残すだけとなっていた。
普段、勉学に勤しむ人々のために保たれている静寂は、閉館とともにその役目を終えていた。
「普通に就職するけど。」
「普通に、といいますと。」
「海星広社。」
僕は内定をもらっていた広告代理店の名前を口にした。
彼女は一瞬、きょとんとした表情を浮かべたのち、何故かあきれたような顔つきで言葉を続けた。
「私はてっきり、臨床心理士としての道に進むと思っていました。」
「どうして?」
「どうしてって…。そりゃあ、大学院まで行って専門知識を身に付けたんなら、それが自然な流れかと。」
「まあ、それも考えてはみたけどね。そもそも、心理学は学問として好きなだけで、仕事にするつもりじゃなかったし。なにより、僕には向いてない。」
どういうわけか、彼女は腑に落ちない顔をしている。
「まあ、私がどうこう言える義理ではありませんよね。色々とお世話になりました。」
学生課で斡旋してる図書館司書のアルバイトは、今日で最後を迎えていた。
普段は口の悪い彼女も、どういう風の吹き回しか、今日はやけに仰々しい。
「どういたしまして。じゃ、勉強頑張ってね。」
そういって帰路に着こうとすると、彼女の指が僕の耳をつまんだ。
「……っ痛!」
「本当、最後までとことん薄情な人ですね。そんなんで本当に社会人としてやっていけるんですか?甚だ心配ですね。一瞬でもあなたみたいな人間に礼を尽くそうとした自分が情けないです。」
「うわ~、言うねぇ。」
「今日はおごりますから、最後くらい付き合ってください。多分もう会うこともないでしょうから。色々と聞きたいことだってあるんです。」
「いや。君、酔うと面倒くさいから…。」
そう言いかけたとき、彼女の指に力が入る。耳がちぎれそうだ。
「分かったよ。」
「そうですか。では行きましょう。」
半ば強引な手口で僕の了承を得た彼女は、悪びれもせずにそう言った。
彼女と初めて出会ったのは去年のことだった。
いつも通り、カウンターで図書の貸し出しをしていると、彼女は現れた。
当時は大学一年生である新入生の利用も多く、初めて見る顔ぶれも珍しくなかったが、
その中でも彼女は異質な存在だった。
「それ貸してください。」
カウンター越しに言い放った彼女が指を指しているのは、仕事の合間に僕が読んでいた本だった。
セーレン・キルケゴール著、死に至る病。
「もしかして貸し出し中ですか?」
「いや、興味本位で棚から持ってきていただけです。どうぞ。」
普段、利用者の顔なんていちいち覚えていないのだが、彼女にいたってはそうもいかなかった。
凛とした顔立ちと透き通るような白い肌。
それまでは集中して読書をしていた館内の学生連中も、
その多くが彼女の存在に意識を向けている様子だった。
それからというものの、彼女は頻繁に図書館を訪れては、本という本を読みあさっていた。
専門書や参考書がほとんどだったが、まれに小説も嗜んでいるようだった。
ついでにいうと、僕に本の場所を尋ねてくるときは決まって、なんとも曖昧な注文ばかりだった。
悲しい話が読みたいとか、懐かしい感じの本はありますか、といった具合だ。
正直面倒だったが、なんとなく無碍にもできず、
独断と偏見で適当な本を選んでは貸し出しを行っていた。
院生の図書館司書と、大学生の利用者。
僕たちはただそれだけの関係だった。
しかし、二年という月日が、どういうわけか、
僕と彼女との間に奇妙な友好関係を育んでしまっていたようだ。