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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

smoky heaven

作者: 柳瀬あさと

 空は晴れていた。地面は乾いていた。

 崩壊した建物の隙間に影は出来、少女と男はそこで休んでいた。

 二人とも地べたに座り込み、だらしなく足を放り出し、斜めに崩れている建物の壁に寄りかかっている。


「……あー……煙草吸いてぇ……オッサン、煙草持ってねぇ?」

「持ってない」


 少女のぼやきに対して、男は切り捨てるように答える。


「なんだよ、煙草ってのは持ってるだけでコミュニケーションが取れる素晴らしい代物なんだぜ?」

「私とコミュニケーションが取りたければ、煙草なんてものは吸うな」

「あらら、嫌煙家?」

「そうだ。煙草なんて百害あって一利無しだ。特に女は吸うな」

「男女差別だね」

「そうじゃない。子供に影響するだろうが」

「大丈夫、子供出来ない身体だから」


 あっさりと少女は言う。男はちらりと少女を見ながら少し考えて、また視線を少女から外した。


「……身体に悪いだろうが」

「そりゃ男も同じだな」

「とにかく吸うな」

「ま、今は吸いたくても吸えないんだけどね。あー煙草煙草煙草。吸いてー」

「中毒か。嘆かわしいな」

「違うっつの。つーかオッサン煙草嫌いすぎ。何でそこまで?」

「歩き煙草をしていた若造のせいで、私の娘の片目は永遠に光を失った」


 すんなりと男は答える。少女はちらりと男を見ながら少し考えて、また視線を男から外した。


「……あー、それはまぁ……嫌いにもなるわなぁ。でもそれ、憎むべきは煙草じゃなくて喫煙マナー守ってない馬鹿だろ。ちなみにワタシの名誉のために言っとくけど、ワタシはばっちりマナー守ってる人間よ?」

「だから、そもそも煙草なんて吸わなければいいんだ」

「んー、まぁそうなんだけど、何となくねぇ、やめられんのよ」

「それを中毒というのだ」

「いや、実際問題そんなに吸ってないし。煙草吸いたくなるのは、現実逃避したくなる時だけ?」

「何故疑問系なんだ」

「いや、考えてみたらそれ以外でも吸ってたから」

「ふん、何だかんだと理由をつけたところで、吸い続けている事実には変わりない。脆弱な精神だ」

「失礼なオッサンだな。ワタシにだってどうにもやめられない理由がちゃんとあるんだぞ」

「何だ? どうせ大した理由ではないだろう。煙草を吸っている者など、健全な人間ではないからな」

「相当嫌ってるな。まぁ自分が健全かって言われたら絶対違うって答えるけどさ」

「そらみろ。どうせカッコイイだの、くだらない理由なのだろう」

「いや、そうじゃなくてさ、煙草って、家族みんなで暮らしてた幸せだった頃の思い出なんだよね」


 淡々と述べる少女を、男はいぶかしむように見つめた。


「……何だ、それは」


 少女はそんな男の様子を気にも留めず、同じように淡々と説明を始める。


「小さい頃さ、うちはまぁかなりの貧乏だったんだけど、母さんも父さんも仲良くて、飯は少しだけしか出なかったけど、明るくって楽しくって幸せな家庭だったんだ。父さんは煙草が大好きで、でも金がないからいつも吸うなんてことは出来なくて。せいぜい一日三本。食後の一服。母さんは、子供の前で吸わないでよ、なんて言いながらも、楽しそうに笑ってた。煙草の煙が揺れてた世界は笑顔で彩られていたわけですよ」


 少女は語る。淡々と、けれど仄かに微笑みながら。それは過去を懐かしむような、今に疲れたような笑み。


「でもそのうち、仕事仲間の裏切りだか何だかで、父さんは仕事をなくして、うちは更にビンボーになって、煙草すらも吸えなくなっちまった。父さんはまぁ色々な精神的負担からワタシを殴るようになってね。血ぃ流れても止まんないくらい殴るわけよ。母さんも泣いてるばっかで止めなくてさ」


 そこで少女は一度大きく息を吐き出す。溜息に似ているその仕草。男は黙ったまま少女をじっと見つめる。


「それでワタシは思うわけだ。ああ、血が飛び散る世界は悲しいなぁ、痛いなぁ。煙草の煙が揺れてた世界が恋しいなぁ、皆笑ってたのになぁ、と」


 男は何も返さない。


「だから煙草は幸せの象徴。現実で嫌な事があるとね、煙草でも吸って逃避したくなるんですね。うーん、弱いな、ワタシ」


 ククッと、軽く喉を震わせて笑う。それを聞いて、男はようやく少女から視線を外した。そして、緊張を解くように息を大きく吐いた。


「……そうか」


 男の低く静かな声を聞き、少女は照れたように笑う。


「あら? これってもしかして軽くトラウマ?」

「自覚が無いならトラウマだろう」

「あ、やっぱり?」

「まぁいい。分かった。煙草をやめろとは言わない。ただ、私の前では吸うな」

「おお、妥協案。喜んで受け入れます」

「……人生色々だな」


 男は微かに微笑んで言う。淋しげに。


「……色々っすよ」


 少女もまた微笑む。諦めたように、華やかに。

 そのまま少し沈黙が二人の間を流れ、静かな空気がその場を優しく包む。

 やがて、遠くから音が聞こえた。


「……あー……オッサン、非常に残念な事をあんたに伝えなきゃならない」

「私もだ」


 はじめに言ったのは少女。

 続いて言ったのは男。


「銃撃の音がする」

「近付いてるな」

「という事は、だ」

「ああ。敵同士に戻らなければならない」


 音が激しくなる中、二人は顔を見合わせて泣きそうに笑った。

 そして二人は立ち上がる。違う軍服に身を包んだ二人が。


「立てるか?」


 右の太ももに大怪我を負い、止血のために巻いた布の上から、今もまだ血が滲み出しているのは少女。斜めに歪んだ壁に手をつきながら、ずるずると力なく立ち上がる。


「……何とか。オッサンは?」


 左の二の腕に大怪我を負い、きつく巻いた布に滲み、今もまだ血が指先へと伝っているのは男。バランスを保ちながら器用に立ち上がる。


「問題ない。大怪我だが利き腕とは逆だ」

「チクショウ、羨ましいじゃねぇか。こっちは踏ん張りが利かないってのに」

「出血量は似たようなものだ。このままではどちらも終わりだな」


 その時、盛大な、空気をビリビリと震わすほどの爆音が辺りに響いた。

 途端、二人は素早くお互いに銃を向ける。

 爆音の余韻で二人の耳は少し機能が衰えた。それを差し引いても、辺りは急激に静かになっていった。

 わんわんと反響のようなものがそれぞれの耳に響いている。それ以外の音は聞こえない。それでも、二人は銃を下ろそうとしない。


「いやー、駄目だね。敵と話なんてするもんじゃないよ。どうにも情が移ってしょうがない」


 先に口を開いたのは少女。さっきまでと同じ大きさで喋っているはずなのに、少女には自分の声がよく聞こえていなかった。それでもそんな素振りは見せず、嘲笑に似た笑みを浮かべながら男を見据える。


「まったくだ。煙草がなくてもコミュニケーションは取れるようだしな」


 男もまた少女の声が良く聞き取れていなかったが、微かに聞こえる声と唇を読んで会話を続ける。痛みを堪えるような苦渋の顔で。


「あ、本当だ」


 少女は笑う。同じように唇を読み取って。男も苦笑する。状況は変わらない。


「……さて、どうする?」

「んー、どうしようかね」

「正直に言おう。出来れば殺したくは無いと思い始めてる」

「そいつはありがとう。まったく同じ言葉を返すよ」

「しかし、そうも言ってられない」

「悲しい事にそうだな。どうするかね。年長者が決めてくれよ」

「そうだな、では……誰かが我々の方に声をかけたら、始めるか」

「うん、それでいいよ。だけどさぁ、オッサン」

「何だ?」


 男の短い問いかけに、少女の顔が泣きそうに歪む。それでも微笑んでいるようだった。

 唇を読み取りあっての会話。

 自身の声もよく聞こえない。

 だから、自分が何を言っているのか、わからない。

 わからない。


「……じゃあもしも、もしも誰も私たちに気付かなくて、声もかけなかったら、このまま一緒に逃げないか?」


 男の顔は一度虚を衝かれた表情で固まり、そして次第に溶けるように微笑む。


「……ああ、いいなぁ、それ」


 零れるように、小さく言った。

 わからない。

 自分が何を言っているのか、わからない。

 ただ、少女の微笑が嬉しそうなものになった事だけは、男にもわかった。

 空は晴れていた。地面は乾いていた。

 空気に鉄錆びた匂いと火薬の匂いが混じって流れる。

 崩壊した建物の隙間に影は出来、そこで怪我を負った少女と男は向き合っていた。

 銃を構えて、照準を互いに絞り、それでも微笑んでいた。

 それが最後だった。


「誰かいるのか!?」


 第三者の声がその場に響く。

 銃声。






「『グレンツェ』!」


 頭上から厳しい声が掛けられる。第三者は建物の残骸の上から現れていた。太陽を背負っての逆光で銃を構えたシルエットしかわからなかったが、叫ばれた合言葉から味方とわかり大声で合言葉を叫び返す。


「『グレンツェ』! 『グレンツェ』!!」

「味方か」


 あからさまにほっとした声が落ちてくる。それに安心して自分の身分を名乗る。


「はい、帝国陸軍特殊作戦師団戦闘部隊第五中隊所属、カール・ガウスです」


 現れた人物は銃を降ろし、ゆっくりと瓦礫を探るように下へと降りてくる。


「……そこの敵兵は死んでいるな、よし。私は同じ戦闘部隊第一中隊指揮官、ゲルト・アレントだ。自分の所属はどうした?」

「はい、敵兵と混戦、その際に逸れ、負傷をしたため動けずにいました」

「では我々に合流するといい。ついてるな。ちょうど先ほどの爆撃で敵軍が撤退、ここはほぼ制圧した」


 ゲルトはにやりと笑うと、持っていた布でカールの負傷部分をさらにきつく止血する。


「出血がひどいな。歩けるか」

「ありがとうございます。基地に戻るだけなら問題はないかと」

「結構、それでは行こう。それとも少し休むか?」

「休む、必要は無いのですが……あの、こんな時になんですが、一つお尋ねしてもよろしいですか?」

「何だ、言ってみろ」


 一瞬躊躇って、それでもカールは口に出した。


「……煙草は、お持ちでしょうか?」


 カールの言葉にゲルトは苦笑する。怒る気配は無かった。


「呑気だな。一服したいのか」

「いえ、ただ少し、現実逃避がしたくて……」

「ふん、その気持ちは分からなくもない。まぁいいだろう、余裕もある。本来なら後でゆっくり吸えと言うところだが、私もそんな気分だ」


 言いながらゲルトは懐から潰れた紙の箱を取り出す。そして苦笑して「誰にも言うなよ」とよれた一本をカールに差し出した。


「ありがとうございます」


 受け取るとすぐにそれを咥え、ゲルトが煙草と共に取り出したライターから火をもらう。紫煙を立ち上らせながら深く吸い、長く吐き出す。


「……不味い……」


 自然に漏れた声に、ゲルトはまた苦笑した。


「お前、もらっておいてそれはないだろう。ああ、だが、そうだな……こんなに美味くて不味い煙草は無いよ」


 どこを見るともなくぼんやりしているカールに対し、ゲルトは空を仰いで眩しそうに目を細めた。


「この戦争は、いつ終わるのでしょうか」


 周囲は一つとして原形を留めていない建物の群れ。瓦礫の山となった荒地。


「さぁな、豪勢な建物の中でふんぞり返っている奴らに訊いてくれ。だがもう敵は末期だろう。こんな女子供を前線に送り込むようじゃな」


 言葉に怒りや憐れみを込める事も無く、感情の起伏の無い声でゲルトは答える。


「そうですね」


 答えるカールの声もまた同様だった。


「よし、ではいくぞ」

「はい」


 煙草を咥えたまま、カールの一時的な上官が身を翻す。返事をしながらも、カールはすぐには後を追わなかった。


「どうした?」

「いえ、何でもありません」


 振り返るゲルトに、今度はしっかりとついていく。もう留まる事も振りかえる事もなかった。カールは頭の中で故郷に置いてきた妻と娘の事だけを思い浮かべ、生き残る為に前へと足を動かす。


 ―――そうだ、帰らなければ。勝たなければ。祖国の為に。待っている家族の為に。だから、逃げたいだなんて、泣きたいだなんて、嘘だ。


 晴れた空の下、残されたのは地面を血で濡らした少女の死体。

 その少女の口に、さっきまでカールが咥えていた煙草があった。


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