母の愛が心の穴をふさぐ。穴開き心臓は左右シャントで右心負荷
この世で、この世界で、一番尊いもの。
もちろんそれは母の愛である。母の愛に比べれば他のものなんかはなんと無機質で記号化されたものにすぎないだろうか。
そもそも母の愛と比べること自体が間違っている。母の愛を認識した時既にそこは愛に包まれていて母の愛の影響なくして物事を捉えることは不可能だからだ。母の愛とはなんと深く、絶対的なのだろうか。
絶対的。このことばが自然に用いられるのはビルの上から自由落下している人ぐらいだろう。それほどこの世の中は予想外で不可思議だ。
母の愛は絶対的だ。知識も能力もLandau反射もまだない赤ん坊にとってそれはなんという奇跡だろう。
世界中のどの国にも、どの哺乳類にも、どの虫たちにも母の愛が存在する。
さてではここに母の愛などまるで信じない一人の少年がいるとする。彼はこういうかもしれない。「私は母親に虐待された」と。またあるときはこういうひねくれたことを言う学者もいるかもしれない。「母親の子を愛する感情は本能に過ぎない。原始的でけして尊くないものだ」と。
しかし少年は思うだろう。「自分は母親に愛されたかった」と。
学者は思うだろう。「私の尊い主張もずいぶん原始的だ」と。
母親の愛の絶対性は他の価値観すらゆるがす。光の速さのような絶対性。それはすなわち、ゆがんだ状態で観測される母の愛も存在するということも意味するんだが。
そもそも俺は自分の母親を知らない。
何かを体験したことのないものが思うことは二つ。「しなくてよかった」と「したかった」。
母の愛に触れたことがなく、「しなくてよかった」と思いたい年頃の俺は当然世の中の愛というものを恨む。うらむ。うらめばうらむほど対象のその深さに気づかされる。こうしてうらむのは自分自身となる年頃。それに触れた。愛に触れたことない自分でも気づく圧倒される感情の到来。そして気づく。
愛とは相互作用
しかし、母の子への愛に対して子は母に何ができるのか。俺にはそのときただ相手を信じ、愛し、泣き、微笑むだけでいいということを知らなかった。
「君が楽しければ僕も楽しい。」
その言葉は胎盤にいたときに聞いた母の声のように脳にしみこんでいった。
自分が楽しめばいい。こんな単純で自然なことを今まで気づかなかったのだ。
胸にいつの間にか開いていた穴が埋まっていくのを感じる。
しかし、胸の穴を埋めたのは母の愛ではなく悪性の腫瘍だった。
僕は半年ももたたずに全身転移≪ステージ4≫で死んだ。