生誕
私は戦時中に産まれた。
空襲警報に脅えながらの出産だったという。
幼い頃から竹槍を持たされ、お国のために!と訓練を受けてきた。
学校へは行ったが、学校の庭にはさつまいもが植えられていて、私たちは遊ぶことよりも、そうした作物を作ることに専念させられた。
鬼畜米英、そう教わってきた。
米国がいつ侵略してくるのかわからず、常に竹槍を持って生活していた。
空襲警報は毎日のように鳴り響いた。
私たちはその度ごとに豪へ逃げ込み、空襲の恐怖と戦った。
やがて戦争は終わり、父を除く、私と家族たちは生き長らえることができた。
戦後は厳しい時代だった。それでも戦時中にくらべると、配給なども増えて若干マシになっていたように思う。
街にはパンパンと言われる売春婦が米兵たちを相手に商売をしていた。
私のうちにはかろうじて畑が残り、作物を売ることで生計を立てていた。
私には兄弟が五人おり、そのうち三人は里子にだされて、残ったのは私と弟だけだった。
「贅沢言わんなら生きていけるけん」
それを母親は毎回のように口にした。私もいつの間にかそう思うようになっていたように思う。
私は結婚できなかった。年老いた母親を見捨てることができなかったのだ。家督は全部弟がついだ。しかし、弟は花街に酔いしれて、全く帰って来なかった。
帰ってきたと思えば金の無心。
それでも一家の大黒柱だからと、母親は言っていつでもお金を渡した。
私の家は大変貧乏だった。配給がなければのたれ死ぬところだった。
私はモテなかったわけではない。現に、こうして結婚を申し出てくれる人もいる。しかし、私はやはり年老いた母親を見捨てることはできなかった。
徐々に裕福になってくる暮らし。
貧乏とはいえど、三種の神器も手にいれた。私は縫製の工場で働くことになった。
少しずつ復興していく暮らし。お隣の長崎もずいぶん復興したらしい。
あそこは新型爆弾をくらって、もうめちゃくちゃだったはずなのに、時が経つのは早かった。
東京には、どでかい塔が経ったらしいと話に聞いた。どうやらテレビジョンのための塔らしい。
一度母親を東京見物につれていきたいな、と思っていると、母親が弱気なことを言い出した。
「さっちゃん……あたしはもうだめだけん、よか人ば見つけて早く幸せにならなん……」
そんな母親を、
「よか人ば見つけてくるけん、待っとってはいよ」
と宥める毎日だった。
享年七十八才。
母親が亡くなった。私が五十路に差し掛かる頃だった。
母親がいなくなり、私は一気に老け込んだ。生きる生き甲斐をなくしてしまったのだ。
それでも私は生きた。
どこをどうやってか、人様のおかげで今日まで生き抜いてきた。
でも、それももう、長くは続かなかった。
享年七十八才。
奇しくも母親と同じ年、幸子は幸せな人生を送りました。
魂は抜け出て、私は私の遺体と向き合う。微笑むように亡くなった私を私は誇りに思った。
◇
あるよく晴れた日。
水谷家に次男が産まれた。
名前は翔。
明るくこの世で羽ばたいてほしいとの両親の願いでつけられた名前だ。
長男の宏樹はとても喜んで私の手を握った。
私は転生したのだ。
記憶を持ったまま。
いきなり話そうとしても、歯もない赤ちゃんのしゃべりだ。声にならない。
ただ、この家庭はとても仲良しで、私もなんの不安もなく過ごせそうなので、転生したことは秘密にしておくことにした。
誰にも、内緒。