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私は、小さい頃から、空は飛ぶものだと思っていた。
いや、飛べる、とかじゃないんだ。当然飛ぶためにあるもので、道を歩くような感覚でそう思っていたのだ。さいわい、それが世間一般の常識と違うと気がついたのはすぐだった。
だって誰も空を飛んじゃいなかった。
学校で物理法則を学びはじめれば、私はどうしてそんな風に思っているんだろうと不思議さは増していくばかりであった。
しかし、頭ではそう疑問に思うものの、身体は違った。
だって私の身体は確かに飛び方を知っていたのだ。飛ぶ瞬間に全身に妙な力が渦巻いて、胃が持ち上がったような感触がして、足の裏から順に身体にかかる重力がなくなっていく。そうして私の身体は宙に浮きはじめるのだ。
じゃあどうして私はそんなリアルな感触をどうして知っているのか。
考えれば考えるほど納得がいかなかった。まぁ、とりあえず私の考えが世間から見て異常なことくらいはわかっていたから、日々ひそかに練習してきたのだけど。
両親か、幼馴染くらいにしか言ってこなかったことだったし。その両親にも幼馴染にもバカにされてきたし。その点、教授が同意してきたのには驚きだったのだけれど。
でも、今日はなぜか出来そうな気がしたんだ。飛ぶ瞬間に全身に走るあの変な感じが、ときどき空気に漂っていたから。他の講義中からそれが気になっていたのだけど、放課後耐え切れなくなって、屋上に上がってフェンスに手をかけたところで、佐上教授に見つかってしまったわけだ。
うん。冷静になって考えてみればこの上なくバカだ。
失敗していたら一発でおだぶつだった。
そんなわけで教授にはお世話になってしまったのである。
でも私は飛び方については絶対の自信を持っている。浮遊のときのあの力の入れ方さえわかってしまえばこっちのものなのだ。例えば、自転車をこぎはじめるあの感じ。途中のこぎ方は知っているのだけれど、こぎはじめの力の入れ方がわからないという感じなのだ。
しかも、やっぱり今日はあの変な力が漂っているし。むしろ漂いまくりだし。
……って、え?
なんか濃度増してきているんですけど。というより、その力自体みたいなのが近付いてきているというか……!
あまりの力の濁流に思わずベンチから立ち上がったときだった。
「うわぁぁぁあああ!!」
声をなさけなく裏返らせた悲鳴が聞こえてきた。しかも、その声は――
「教授!?」
わかってしまったら、何もしないわけにはいかない。私は抱えていたカバンを投げ出すと声の聞こえてきた方に走り出した。
大学の構内を出て道路にいきついた。
そこでは、うなるエンジン音とともに、猛烈な勢いで車が爆走していた。ボロイ白のワゴンだ。あいている運転席横の窓から顔を出していたのは案の定、佐上教授であった。
しかもあたりに、あの変な力も渦巻いている。私の身体にこびりついてくるくらいだ。
ついでに言えば――
「嘘でしょ!?」
車が飛んだり跳ねたりしていた。カエルのような動きで二車線の道路を飛んだり跳ねたりと車が暴れまわっていたのだ。ここが、大学裏の人通りも車通りもない場所でなかったら今頃たいへんなことになっていただろう。
当然、その車を運転している教授が無事でいられるはずもなく、顔のいたるところに青アザができているのがここからでも見えた。
「教授ぅー!?」
思わず声をあげると、教授と視線があった。すると教授はあせった表情になった。
そこで私もハッとする。自分でここに人通りがあったら、と考えていたじゃないか。気がつけば車はすぐそこに迫ってきていた。
「やっべぇ!!」
私は叫びながら道の端に飛び込んだ。その瞬間、私の立っていたところをものすごい速さで車が通っていった。間一髪でよけられたようだ。……これも空を飛ぶために地上で訓練を続けてきた成果である。脚力だけは異常についた。人生なにがどう作用してくるか分からない。
しかし、このあたりに漂っている力は長年私が追い求めてきたものだ。
空を飛ぶために必要な力。――それが教授の乗っているワゴンを暴走させているのだろう。なんとなく分かった。
そのとき飛び跳ねる車の中から教授が叫んできた。
「小峰君、逃げたまえ!! どうやら、この史料が原因のようなんだ!! 飛行機のオーパーツがカタカタ震えているんだよ!!」
やはり。私の直感は当たっていたようだ。しかし、本当、人生なにがどうなるか分からない。まさか長年追い求めていた力を、こんな場面になってようやく理解するだなんて。
「きょ、教授はどうするんですか!」
上擦りそうになる声を抑えて私も道路の外から叫び返す。教授は暴走する車の中で懸命に身体をひねると、助手席においてある包みを抱えた。もはやハンドルは無視だ。意味をなしていない。普通にやっていたら怒られる行動だが、いまはそれどころじゃないのだ。
たぶんその抱えた白い包みのなかに入っているのが史料のオーパーツなのだろう。
というより、オーパーツどころの話ではなく、いますぐ車をどうにかしろという感じなのだが、さすが変人と噂の教授。自分の命より、史料のほうが重要らしい。さっき話していたときは噂とは違って至極まともなひとに思えたが、どうやらそれは勘違いだったようだ。……いや、空を飛ぶといっている生徒の話を受け入れてわざわざ史料を引っ張り出してくるあたりすでに普通ではないが。
オーパーツとは、その時代には到底見合わない技術を描写したような史料のことを言う。飛行機の史料、ということはその史料が飛行機のない時代のものなのに、飛行機のような形をしているということだろう。
まるで有名なアニメ映画のようじゃないか。破壊の呪文でもあるんだろうか。
私はついにこらえきれなくなってニヤリと口の端に笑みをこぼしていた。
「私はこいつをもって車から飛び降りるさ! 史料を放っておけないからね!」
教授がそう叫び返してくる。しかし、教授は車から飛び降りたらその瞬間、全身を複雑骨折できそうな、たよりない身体つきをしている。到底無理だろう。
「だから小峰君、早く逃げ――」
教授の次の言葉も言い終わらないうちに私は駆け出していた。
足に力がたまってくる。乳酸がたまるみたいに、空気に漂う不思議な力は私の足に取り込まれていき、質量を伴うように中心に芯を形づくっていく。アキレス腱から背骨にむかって力は流れていき、それと同時に足元から重力がなくなっていく。
肋骨のなかにもむくむくと力はたまっていく。
空腹感のような、胃もたれのような感触が球体となって背中側の肋骨の空間に膨らんでいき、それが足からのぼってきた力と触れ合った瞬間。
私はトンッと地面を蹴って空に踏み出した。
「きた……!」
小さく呟く。胃の浮遊感とともに私の身体は宙に浮きだしていた。足からのぼった乳酸のような感触のする力が肩甲骨の少し下の背筋から空中に吐き出され、それと同時に私の身体も上空へ押し出される。
「とんでる!!」
地面すれすれを滑空しながら私は叫んだ。この感触だ。これなのだ。
やっぱり私は飛び方を知っていた。
その証拠に私は空中をふらつくこともなく、空を切って飛んでいた。
漂う力を身体に流して飛んでいた。
ほどなく教授の車に近付くと、暴走する車の横に並行飛行する。そして運転席に近付く。
「小峰君、飛べたのか!!」
車が暴走しているのを忘れたように教授は目を輝かせて私に話しかけてきた。もう前も見ていない。やっぱりこのひとは変人だ。不思議な力とか、オーパーツとか、自分が好きなものが関わると暴走するらしい。まあ、ひとが空を飛んでいたらそれが普通か。むしろ飛んでいることを普通に受け入れて、その感動を表している方がすごい。やはり教授は変人だ。
私はそう苦笑しつつも、嬉しさは隠しきれなかった。だって長年の夢を叶えられたのだ、これで興奮しないやつがあろうか。
「詳しいことはあとで! さ、教授車のドア開いて! 私の手につかまってください!」
私の言葉に教授は慌てて扉を開いた。胸には後生大事に包みを抱えている。
思わずそれに視線を向けると教授は誇らしげに言った。
「まだ研究していないからね、逃すわけにはいかないのさ」
……誇らしげに言うことじゃない。
いろいろ文句は心の中にあふれてきたが、私はジト目を向けるだけに留めておく。そして、差し出してきた教授の手をかたく握ると一気に上昇した。
風を切る。
空を切る。
みなぎる力にテンションも上がる。
「うふふふふっ」
気付けば笑い声が漏れ出ていた。教授がなにか言葉にならないことを叫んでいるが、私はただただテンションが上がっていた。
飛んでいるのだ。
やっぱり私は飛び方を知っていたのだ。
ぐんぐん高度を上げる。顔にあたる空気抵抗さえ心地よい。
そうして高度が10階建ての大学の校舎を超えた。あたりを見回せば、街が全望できた。雲もこんなに近い。はるか下の方では、車が真正面から電柱にドカンとブチ当たったようだ。
よし、そろそろ教授も叫べないほど怖くなってきたようだし降りようか。そう考えて、そこではたと気がついた。
「あれ、私、着陸の仕方知らない」
「ちょっと!? 小峰くぅぅぅぅううんっ!!!!」
教授の絶叫があたりに空しく響く。すでに下降しようと力の向きを下に向けていた私の身体はゆらゆらと胃を浮かせるように蛇行しながら落ちていった。