闇夜のかまいたち
「愚霊から隠れるっても、いくらなんでも、これは……」
そういう才円の頭には、可愛い猫耳がピンと立っていた。メガネは外され、顔には化粧がほどこされていた。才円は猫女に無理やり女装させられ、女中の一人に仕立て上げられていたのだ。いつまでも納得いかなそうな才円に、猫女は口元に、いつものイタズラっぽい笑み浮かべながら言う。
「追われてるんでしょ? 変装してた方が安全よ」
「でも……」
才円はしきりに足をねじって、モジモジしている。スカートがどうにも気になるようだ。
「スカートって慣れれば、結構、スースーして気持ちいいものよ」
「そうかなあ……」
猫女は隠してはいるが、先程から、やたらとチラチラ才円の事を見ている。猫女の才円を見る目がいつもと違うのは、才円の気のせいではなかった。
才円はメガネを取るとかなりの美形で、女装もよく似合っていた。彼が美しい事を見抜いていた猫女は、前々から、才円にこういう事をさせてみたいと狙っていた。人形にお化粧などをするのは、女の子の楽しい遊びの一つである。今回は緊急事態という事ではあるが、こういう形で猫女の夢は、今、叶ってしまっだのだった。
「で、猫女、僕はここで何すればいいの?」
「まあ! 職場の先輩に対して、何、その口の利き方は? 猫女お姉様と呼びなさい!」
「や、やだよ!」
「あんただけ、呼び方違ってたら怪しまれるじゃない! さあ、はやく!」
「でも……」
「はやく!」
「お……お姉……様?」才円はしぶしぶ言った。
猫女は先輩ぶって、厳しい表情でずっと才円を睨んでいる。だが、口元がホロリとゆるむと、後はなだれのように顔が崩れ落ちていって、だらしないニヤケ顔になった。
「か、可愛いいい! こんな妹、欲しかったのおおお!」
猫女は思わず、才円をぎゅううっと抱き締める。
「や、やめろ、バカ猫女! 恥ずかしい!」
「やだ! だって、可愛いんだもーんんん!」
猫女はいつもよりはしゃいでいた。才円には、自分を励まそうと猫女が必死なのが伝わって来た(半分は本気だったが)。まだ、少しひっかかってはいたが、才円は、この女中の格好を受け入れる事にした。
その日の女中茶屋は、妙な盛り上がりを見せていた。新しく入った美少女女中の周りにいつもとは違う人だかりが出来ていたからだ。それは男の客ではなく、ほとんどが女の客だった。
「可愛い! お人形さんみたい!」
「こっち向いて! この、おまんじゅうあげる!」
才円は言われるまま、客達に人形のように弄ばれる。だが、才円のあまりの人気に、猫女はだんだんと機嫌が悪くなっていく。
「猫女様がこんなに暇なの……初めてだわ」
猫女は畳の上にあぐらをかいて、暇そうに才円を睨んでいる。
「猫女……お姉様、た、助けて!」
「やなこった」
こうして、才円の女中デビューの初日は、なんとか無事に終わった。
店でさんざん働いて、相当、疲れている筈なのに、才円はなかなか寝付かれなかった。
自分は愚霊に監視されていた。ひょっとしたら、もっと以前から……そう考えるだけで、嫌な汗で体中がじっとりと湿る。
色々な事を考え過ぎたせいか、今日は背中に妙な視線を感じる。
「まさかな、こんな所まで……」
しかし、なかなか寝返る事が出来ない。才円は後を見るのが恐ろしかった。昼間、自分の周りがあまりににぎやかだったせいか、今の死んだような闇夜は、そんな不安をさらに増させる。
だが、こうして、いつまでも後を見ない事は、誰かが見つめていると認める事になる。才円はどうしても、そんな事は認めたく無かった。
(一度確かめれば、それで終わるさ。やっぱり何もなかったってね)
才円は自分にそう言い聞かせると、思い切って寝返りをうった。その瞬間、思わず目を閉じる。一時の沈黙……。だが、辺りは静かなままだった。才円が恐る恐る目を開けると、真っ白な布団が月明かりで浮かび上がってくる。だが、やはり、そこには何もなかった。才円がふうと大きな溜息をつくと、へなへなと体中の力が抜けた。
才円は、生気を取り戻すと、もう一眠りしようと、無邪気にゴロンと仰向けに寝転がった。すると、天井の隙間の闇から覗く二つの目が、じっと才円の事を見つめていた。
「わあああっ!」
才円は声にならない声を上げ、自分でも訳が分らないくらいに手足をもがかせた。才円は気付くと、目をむいて部屋の隅でガタガタと震え上がっていた。だが、闇の中のその目は、静かな声で才円に話しかける。
「安心しろ。私は愚霊ではない……」
「じ、じゃあ、何だっていうんだよ?」
才円はガタガタと震える口を、必死に動かしてそう叫んだ。
「私は、赤いかまいたちの頭、お銀だ」
才円は目を向いたまま、今、何が起きているか、必死で理解しようとした。
「あ、ああ! 君が、あの有名な義賊の……」
「そうだ」
お銀がそう言うと同時に、天井から何か四角い物が、ドサッ! と重そうに落ちて来た。才円はまた妙な声を上げる。
「それは、うつろ船事件の捕物帳の一部だ。事件の事が色々と載っている。一冊、失敬してきた。奉行所のボンクラどもより、お前の方がよほど役立てそうだからな」
「僕に事件を解決しろと?」
「当たり前だ。お前が助けなくて、一体、誰が、あの無実の男を助けられるというのだ? それに、お前のさいえんす捜査は、いつしか、世の中の無実の罪で苦しんでいる人々を、助ける事になるかもしれないのだぞ」
「で、でも、僕なんかじゃ……」
才円はそう言って悲しげに顔をふせる。すると、天井から、お銀の呆れたような溜息が聞こえて来た。
「お前は一体、今まで、あの男の何を見てきたのだ? 結果などどうでもいい、自分が今、出来る事を全力でやればそれでいい。あの男にそう言われたのではないか?」
才円はハッと顔を上げる。
「お前が本当に、あの男を親友だと思うならば、あの男が誇れる親友でいろ。それが本物の親友というものではないのか……」
天井からは、それきり声がしなくなった。
『結果などどうでもいい、自分が今、出来る事を全力でやればそれでいい、それが本当の男だ』。才円は鉄のその言葉を、いつまでも心の中で繰り返していた。そして、その目には光が少しずつ戻って来ていた。
屋根の上で、お銀が満月を眺めながら座っている。その姿は、全身を赤黒い布で忍者のように覆っている。お銀が顔を覆っていた頭巾を取ると、長い黒髪がこぼれ落ちて、夜風の中を泳ぐように舞っだ。そして、その鬼のような表情をやわらげると、それは可愛い猫女の顔になった。
「まったく、世話がやける子なんだから……」
そう言いながらも、その表情には笑みがこぼれていた。そして、猫女は少し顔を赤らめると、つぶやくようにこう言った。
「でも……あいつなら、きっと、やってくれる」