狙われた才円
鉄の打ち首の日まで、あと数日と迫っていた。
確かに鉄は拷問により自白した。だが、それは拷問の苦しさからではなかった。
鉄の様子は最初から何か妙だった。ある程度、愚霊の何かを知っている筈なのに、黙して何も言わない。ウソや曲がった事が大嫌いで有名な男だから、この態度は、なおさらおかしく思えた。
しかし、ある日、突然の自白。一体、彼の心の中には、何が秘められているのだろうか?
そんな鉄の命を救い出せるのは、もはや才円の科学捜査だけだった。科学により、決定的な証拠を突きとめるしか、もう手は残されてはいなかった。
窓の外は赤く染まり、小雨がパラパラと降り始めている。部屋のいろりには鍋がかけられ、その蒸気がこのあばら屋を暖めていた。才円は黙っていろりの炎を見つめている。頬を伝う涙の跡が炎に照らされ、キラキラと光っていた。
(僕なんかじゃ、どうせこの程度か……)
才円の脳裏に、自分をからかう生徒達の姿や、鉄が自分を励ます顔などが、次々と浮かんでは消えていった。
(僕は鉄あにいのような、男らしい男になりたかった。勇気も貰った。だけど、結局、僕は何もしてあげられなかった)
才円はゴロンと寝転がると、湯気ですっかり曇ったメガネ越しに、蜘蛛の巣だらけの天井を見上げた。
(僕には、やっぱり、無理なのかな……)
才円は自分に何度もそう問いかける、しかし、才円の心の奥底では、悲しい答えが既に出ていた。
才円はそうやって、しばらく天井を見つめていたが、やがて、ゆっくり上体を起こすと、のろのろとかわや(昔のトイレ)に向かった。才円が戸口を開けると、外はもうすっかり灯り一つ無い暗闇になっていた。
しばらくして、才円が落ち着いた表情で戻って来ると、家の中にありえない光景を目の当たりにして、思わず体が音を立てて後ずさった。
まるで部屋の中を汚すように、泥だらけの足跡が入り口から奥まで伸びていた。そして、その奥の壁には大きな紙が貼られ、墨で大きくこう書かれてあった。
『じゃまものには し』
それは明らかに愚霊からの脅迫状だった。ほんの少し、ちょっと家を出た間に、これは行われたのだ。今、こうしている間にも、自分の背中を、愚霊が恐ろしい目付きで睨んでいるかもしれない。そう考えると、才円は背筋がゾッとし、体が勝手にガタガタと震え出した。
猫女は、女中茶屋に住み込みで働いていた。昼は助平な男どもにジロジロ見られ、夜は遅くまで店の後片付け。最近は、鉄の事件の事まであり、今の猫女は、体も精神も疲れ果てていて、幸せを感じる時といえば寝る時だけだった。
「にゃあ~、みな、ひざまづくがいいにゃあ……」
猫女は謎の寝言を言い、妙なうすら笑いを浮かべながら、今、幸せの絶頂にいた。
だが、そんな幸せな夢の中で、猫女は何か妙な違和感を感じていた。なぜか、先程から、誰かに見られている気がしてならない。
そんな夢とも現実とも分らない世界の中で、猫女がボンヤリと目を開けると、猫女を見つめる誰かの顔が、すぐ目の前にあった。
「にゃあああ!」
猫女は猫のように飛びのくと、部屋の隅まで転がりながら逃げた。しかし、突然、今まで見せた事のない鬼のような形相になると、ドスの効いた声でこう叫んだ。
「何者だ!」
「ぼ、僕だよ、才円だよ……」
猫女はその声に、慌ててもとの猫女の顔に戻した。
「なあんだ~才円かあ」しかし、猫女はすぐに目をパチクリさせる。
「……じゃないわよ! なによ、こんな夜中に、美少女の部屋へ忍び込むなんて!」
「だって、僕、狙われているんだよ!」
「へ?」
才円は猫女の胸元にいきなり飛び込んだ。
「ちょっ……!」猫女は顔を赤らめ、思わず身を固くする。
「助けて! 僕、殺されちゃうよ!」
才円はそう叫んで、小さな体を震わせている。才円が猫女にこれほど感情を見せたのは初めてで、猫女は正直、驚いていた。
(普段、学問がどうとか難しい事ばかり言ってるけど、やっぱりまだ子供なんだな……)
猫女は優しく目を細めると、才円の髪を優しく撫でながら、そっと抱き締めてあげた。
「大丈夫、お姉さんが守ってあげるから……」