花はささやく
江戸の賑やかな大通りに、最近、開店したばかりのおしゃれな呉服屋があった。不運な事に、ここは開店してすぐに、うつろ船事件の被害にあってしまった。新装開店で勇んでいただけに、町の人達の間では同情の声がよく聞かれたが、皮肉にも、それによって、この店の名は江戸中に広まる事になった。
さて、この店の裏庭には大きな倉がある。そこが愚霊に盗みに入られた問題の場所だった。この倉の周りには広い庭があり、高い塀で四角くグルリと囲まれていた。
その塀の隙間から、可愛い子供の顔がヒョッコリと突き出て、なにやら辺りをキョロキョロと見回している。その子供とは、もちろん才円だ。
才円は辺りに誰もいないのを確かめると、小さな体をうまく折り曲げて、堀の隙間から中へと這っていった。才円が人の家にコッソリ忍び込むのは、もちろん初めての事だ。緊張で思わず喉がゴクリと鳴る。
庭へ出ると、あふれだすように一面の花々が才円を迎えてくれた。その中央には背の高い木が大きな影を庭中に落としていて、ヒンヤリとした風が才円の頬を撫でていく。時折、遠くから、かすかにこの店の呼び込みの声が聞こえて来るが、それ以外は時が止まったかのように静まり返っていた。
才円は、とにかく愚霊が忍び込んだ倉を調べてみたかった。そこに、何か事件の手掛かりがあるかもしれないと思ったからだ。
「さいえんすの捜査は、やっぱり現場検証が基本だろうからね……」
才円はつま先立ちしながら、とにかく倉のある場所を探して回った。
すると、庭を大体一週した頃、土を踏み荒らした複数の足跡が、アリのように一列にどこかへ向かっているのが目に入った。
(これだ!)
才円は思わず声を上げそうになる。それが、愚霊が倉へ押し入った時の足跡に間違いなかったからだ。なぜなら、主人は近所でも有名になるほど庭園にこだわりを持っていて、店の者達の庭の出入りを固く禁じている。
だが、主人は店が被害にあってからは、庭の事など忘れ、事件当時のままに放っておいたらしい。しかし、それは才円にとってはラッキーな事だった。
才円はふところから大きな虫眼鏡を取り出すと、顔を地面にこすりつけるようにして、その足跡をまじまじと眺め始めた。愚霊達は、そうとう重い物を盗んでいったらしく、その足跡はクッキリと刻まれていた。
だが、才円は、すぐに肩を落として大きな溜息をつく。
(なんだ、ワラ草履か……ワラ草履なんて、どこの店も同じだ。これだけで、下手人を割り出すのは難しいな)
才円はいきなり捜査の壁にブチ当たってしまった。もしこれが現代なら、皆、たいていは靴を履いていてる。靴底というものは多種多様で、どのメーカーの靴かが分り、それにょり趣向などが判明する事もあっただろう。いや、それ所か、最新のDNA捜査により、今頃、事件はとっくに解決していたかもしれない。しかし、どうあがいても、今は江戸時代。彼はこの未開拓の時代に、常に悩まされ続けなければならないのだ。
才円は気を取りなおすと、とにかく、足跡を追って倉へと向かった。
倉への道にも綺麗な花が咲き乱れていたが、ある箇所にいくと、まるでえぐられたように花がなくなっており、その下の地面に花達がパラパラと落ちていた。
(可哀想に……)
才円は思わず足を止め、腰をかがめて、その花の一つを拾い上げてやる。
よく見ると、茎には刃物の切り口があった。おそらく、下手人が通行の邪魔だと刀で切り落としたのだろう。その後で、下手人に踏まれたらしく、ワラ草履の跡がスタンプのように付いていた。才円は、憐れみを込めた目でしばらく花を見つめていたが、その目が急に、電球が付いたようにパッと輝いた。
(あった! 鉄あにいを無実にする証拠が!)
才円は奉行所の門の前に立っていた。この巨大な門は、見上げるだけで後に倒れそうになる程で、その絶対的な国家権力を、町人達に誇示しているようにも見えた。
この門の向こうに鉄あにいがいる……才円はそう思うと、会いたくて、いてもたってもいられなかったが、まずは、ある人物に会って、ある物を見せなければならなかった。
しばらくすると、奉行所の門が、悲鳴のようなきしむ音を立てながら、重そうにゆっくりと開く。
そして、その中から、黒い羽織を着流しにし、腰に特注のきらびやかな刀を誇らしげに差した中年の同心(現在の刑事)がヌッと現われた。その顔は無精ヒゲが伸ばし放題で、実際の歳よりも老けて見えた。
彼は腹をボリボリとかきながら、あくびまじりで辺りを見回したが、足下の才円に気付くと、あざ笑うように言った。
「ワシを呼んだのはお前か? なんだ、まだ子供じゃないか」
いきなりの無礼に、才円はムッとしたが、今は、ある物を見せる方が先だった。
「うつろ船事件の担当の方ですね。実は、僕……鉄あにいが無実だという証拠を持って来ました」
「なに?」同心は半笑いの表情で、才円をジロジロと見回した。
「僕なりに、西洋のさいえんす捜査で行われている、生物学から考えてみたんです。例えば、死体にわいたウジ虫の状態から、死亡時刻を割り出したりとか……」
才円は、そんな気持ち悪い事を、まるで世間話のようにサラッと言う。同心は思わず眉をひそめて才円を睨んだ。
「だけど、今回は殺人ではないので、何かないかと、色々と探してみました」
才円は巾着から、先程の、足跡付きの花を取り出す。
「これは犯行現場に落ちていた花です。下手人は犯行時に、庭の花を切り落として、踏んでいったようです。この切り口と足跡がそれを示しています」
才円はそう言うと、花を同心にヒラヒラと見せた。同心はただ黙っている。
「だけど、一つだけ気になる事があります。それは、この花が咲いた状態で踏まれていたという事です」
「花は大抵、咲いているものではないか?」同心は小馬鹿にするように口を挟む。
「いえ、この花はニホンアサガオと言って、丑の刻(一時から三時)から龍の刻(七時から九時)の間にだけ咲くんです。つまり、この時間内に、犯行は行われたという事になります!」(ニホンアサガオは、一時頃から咲き始め、四時頃に満開、九時頃までにしぼむ)
同心の眉がピクリと動いた。
「しかし、その時間は、鉄あにいは居酒屋にいたんです。目撃証言だってあります。どうか、鉄あにいの事を、もう一度、よく調べなおして下さいませんか!」
大人しく才円の訴えを聞いていた同心だが、横を向いて少し考え込むと、才円の方に向き直り、ようやくその重い口を開いた。
「それがどうした?」同心はふくみ笑いでそう答える。
「え?」
「西洋の捜査はどうかしらんが……ここは日本だ。取り調べは日本のやり方でやる」
「日本の……やり方って?」
同心は、もはや才円に背を向け、その場を立ち去ろうとしていた。
「まあ、下手人ってのは、少し痛めつけてやれば、本当の事を吐くものだよ」
才円の顔からさっと血の気が引いた。才円の耳に鉄の苦しげな悲鳴が聞こえたような気がした。才円のキツク握りしめたその拳は、怒りにワナワナと震えだす。
「ご、拷問したんだな、鉄あにいを! それで無理に自白させたのか! そんな証言、西洋じゃ証拠として認められてないよ!」
才円は矢のように同心の足に飛びついた。すると、同心は急に怒りをあらわにして、才円の体を強く押し、その小さな体はたやすく地面に転がった。
「ここは大人の仕事場だ! お前みたいな子供は、何でも黙って大人の言う事を聞いていればいいんだ!」
同心は、才円に怒声を浴びせると、地面を踏みつけるようにして奉行所の中へ消えていった。才円はその場にうつぶせになったまま、ポロポロと大粒の涙を何度もこぼした。