あきはばら通りの女中茶屋
才円は小脇に大きな書物を数冊も抱え、夕闇を一人で歩いている。だが、その方向は、なぜか彼の家のある方角とは、全く逆の方向だった。
やがて、辺りに人の姿がチラホラと見え始めると、町の喧騒も激しくなってきた。
この辺りは、色々な奇妙キテレツな店があって、『飽き飽きした人生もバラ色になる!』と言われ始めた事から、飽きはバラ、『あきはばら』通りと呼ばれている。
才円が、あきはばら通りの一層、賑やかな大通りに入ると、大きな茶屋(茶などを出す休憩所)が目の前に現れた。店の外装にはきらびやかな飾り付けがなされ、中からは陽気な三味線の音が手招きするように流れて来る。
そこは勉学一筋の才円には似合わないように思えたが、彼はためらいもなく、その店ののれんをくぐった。すると、すぐに女中が飛び出して来て、艶やかな長い黒髪を大きく揺らしてお辞儀しながら、大声でこう言った。
「お帰りなさいまし、だんな様~」
女中は、猫のような、その釣り上がった大きな黒い目を細めながら、上目使いに才円を見上げた。その口元には勝ち気なイタズラっぽい笑みが浮んでいる。西洋人のように整った美しい顔に、白い肌が目に眩しい。歳は十七、八と言った所だろうか。
『お帰りなさいまし、だんな様』というのは、この店の特殊な挨拶で、女中達の御主人様になった気分を客に味わって欲しい、という店側の気の利いたサービスだった。
そして、全ての女中の頭の上には、なぜか猫の耳のようなものがあり、服は一見、西洋のメイド服に見えるが、実際は、カラフルな着物に西洋のフリルを味付けるという、和と洋をグチャグチャに混ぜたような格好だっだ。だが、全体を通して見てみると、まるで絵巻(絵付きの物語)の中の美少女が、現実世界に飛び出して来たような、そんな不可思議で幻想的な空気が、この店全体を包んでいた。
「なんだ、才円か……愛想振りまいて損した」
才円を出迎えたその女中は、相手が才円だと気付くと急に態度を変え、開け放した笑顔で才円の髪を乱暴にクシャクシャと撫でた。才円が無表情のまま奥の方の席に着くと、その女中は仕事を放り出し、猫がすり寄るようにして才円の横にチョコンと座ると、才円の顔をその大きな目で覗き込む。
「冷凍豆ひき汁」
才円は注文だけすると、小脇に抱えていた本を広げて、黙って読み始めた。女中は両手で頬杖をつくと、そのクリッとした黒目を寄せて、まだじっと才円を見つめている。
「はあ……女中茶屋のナンバーワン、この猫女さまが、隣に座ってあげているというのに……相変わらず、そっけないなあ、才円は」
ナンバーワンと自分で言うだけあって、猫女のまわりには、既にそわそわした客が集まり始めていた。それに気付いた猫女が、甘えたような笑顔で可愛く招き猫のポーズをチョイとしてやると、客達は『萌え~』という謎の言葉を発しながらバタバタと倒れていく。
「な、なんで、あたしに寄って来るのって……こんな、頭、悪い男ばっかなの?」
猫女はその笑顔を固めたまま、周りに聞こえないようにそっとつぶやいた。
バン! ドッシン! ゴロゴロゴロ……
その時、店の外で信じられないくらいにうるさい音が聞こえて来た。それは、雷と太鼓とシンバルを一緒に鳴らしたような大騒ぎだった。
女中達は思わず、本物の猫のように体をビクンと跳ねさせたが、猫女だけは、またか……ともらしながら、首を小さく左右に振っただけだった。
「てやんでい! べらぼうめっ! おととい来やがれえ!」
外からは、今度は時代劇でよく聞いたようなセリフが聞こえて来る。だが、急に静かになり、後にはただ、荒い鼻息だけが残っていた。やがて、その荒い鼻息は、ジリジリと店に近付いて来て、店内に軽い緊張が走った。そして、店ののれんがパン! と弾かれるように上がると、そこには、色黒で眉の太い、りりしい青年の顔が覗いていた。
その頭の上には、鏡餅のような大きいコブがあり、今の騒動の激しさを物語っている。そして、相手を飲み込んでしまいそうなその力強い目は、店内をギョロギョロと見渡し始めた。
その青年は、さらしに着物を軽くはおっただけの簡単な服装で、ひきしまった筋肉質な体が陽射しに黒くテカッていた。そして、さらしには、無造作に差した銀色の十手(罪人を捕らえる為に使う道具)が鈍く光っている。そう、彼は岡っ引(昔の警官)であった。
「おうっ! やっぱり、いたな、親友!」
青年は顔をクシャクシャにして優しそうな笑みを浮かべると、可愛い女中達には目もくれず、まっすぐに才円の所へ飛んでいった。
「鉄あにい!」
いつも無表情の才円の顔がみるみる輝いていく。猫女はそれを横目で見て、不機嫌そうにツンとそっぽを向いた。
才円が自分に合わないこんな店に来る理由はこれだった。時折、ここをおとずれる親友に出会えるチャンスを、才円は待っていたのだ。
「そ、その頭……」
才円はすぐに異変に気付き、声をひそめて心配そうに言った。だが、鉄は得意気に笑う。
「なあに、ちょっとした捕物(逮捕劇)さ。 貧乏人をいじめる悪い奴等がいたもんでね」
鉄はさらしから十手を取り出すと、才円の前にサッとかざしてみせる。才円の目には、鉄が悪人達を、まるで手まりのように、地面に叩きつけては蹴り飛ばす絵が浮かんでいた。
「この『竜花火の鉄』がいれば、江戸の町も安泰だぜ!」
鉄はそう言うと、店中に響くような大声で高らかに笑った。
……とは、あくまで鉄の言い分だが、町の人々は、彼を『昼花火の鉄』と呼んでいた。昼の花火……つまり、勢いはあるが役には立たない、そういう意味だ。彼は鉄砲玉のような男だが、ゆえにドジばかりやらかしていたのだった。
しかし、これは悪口ではなく、彼への親しみを込めて、愛称として付けられたものだった。
正義感に溢れ、弱い人をみると放っておけない、腕っ節も相当なもの。まるで溶かしたばかりの鉄のように熱いこの男。こんな鉄を町の誰もが愛していた。そして、それは才円も同じだった。鉄だけが、こんな時代に剣が苦手な才円をバカにしなかった。そして、才円は鉄のそういう男らしい所にずっと憧れていた。
「なによ、ここに美少女がいるってのに、男同士でイチャイチャして!」
猫女が体を異様にねじらせながら、才円と鉄の間に割って入って来る。
「ねえ、鉄あにい。才円ったらね。毎日、こんなの背中に貼られてるんだよ」
猫女は才円の上体を乱暴に倒すと、背中から悪口の紙を剥がして鉄に見せた。才円は慌てて鉄から顔をそむけ、顔をそっと赤らめる。どうやら鉄に見られるのだけは恥ずかしいようだ。
「いくじがないというか……なんか言ってやってよ」
才円は恥ずかしそうにうつむいている。だが、鉄は、そんなウツな空気を吹き飛ばすように大声で笑った。
「ハハハハ! 女ってのはどうも勘違いしていけねえな。腕っぷしが強いのと、男らしいのは別もんだぜ、乱暴者と正義の味方が違うようにな」
才円は思わず鉄の顔を見上げる。鉄も才円を見つめると、その大きな腕で才円の肩を優しく抱き寄せた。
「でも、なにも正義の味方になれって訳じゃあない。あんなもん、誰もがなれるもんじゃねえからな」
鉄は少し遠い目をすると、古びたボロボロの十手を、懐かしそうに見つめながら言った。いつも男らしいその顔に、今まで見せた事のない、少年のような無邪気な笑みが浮かんでいた。
「まあ、どんな事だっていいやな。今、自分が出来る事を、誰かの為に一生懸命やる。結果なんかどうでもいい、人に負けてもいい。ただ、今を、最高の自分で生きる。それが出来るのが……本当の男ってもんじゃあねえかなあ……」
鉄はそう言うと、また才円を見つめ、あのクシャクシャな優しい笑顔で笑った。才円は目に涙さえ浮かべ、何度も何度もうなずいていた。二人の世界からすっかり追い出された猫女は、呆れた表情をしながらも、こんな二人に密かに暖かい視線を送っていた。
これが、この三人のいつもの日常だった。ささやかではあったが、それなりに幸せな日々だった。しかし、こんなささやかな幸せでも、いつか壊れる日があるのだと、この時の才円は思い付きさえしなかった。