愚霊を捕らえたうつろ船
同心は奉行所を抜けだすと、近くの薄暗い雑木林の中に、その姿をまぎらせようとしていた。だが、どれだけ進んでも、人の背ほどもある草が、同心をさいなむようにまとわりつき、同心は次第に体力を奪われていく。そうしているうちに、草木が伸び放題で日も差さないような、荒れ果てた場所に迷い込んでしまった。
「くそっ! 捕まってたまるか、くそっ!」
その時だった。同心の上空に、ボウッと光りながら浮いている何かがあった。同心は、それを見ると思わず声を上げた。
「う、うつろ船……」
うつろ船は、同心の頭上で狂ったように飛び回った。ジグザグに飛んだり、消えては現われたり、と、まるで同心をからかっているようだった。同心はそれをしばらく呆然と見つめていたが、やがて、頭を抱えてその場に崩れ落ちる。それと同時に、うつろ船は消え去った。
「そのうつろ船は、あなたの部屋の天井裏から、お銀がお借りしてきたものです」
同心が、その声のした方を見ると、草をかき分けて才円が現われた。
「そして、あなたがどのようにして、うつろ船を空に飛ばしたのか……もちろん、それも既に分っています。では、これから僕が、あなたの代わりに解説してあげましょう」
才円はふところから小さな笛を取り出すと、思い切り息を吸い込み、笛を吹いた。薄暗い雑木林の中に、キーンという、うつろ船が現われる前の、あの奇怪な音が響き渡る。
「まず、この笛が、開始の合図です」
すると、木の上に誰かが現われた。その人物は手に持っている大きな丸い物に手を入れ、何かを引き抜いた。すると、その丸い物はボウッと光り出し、うつろ船の姿を闇に現わした。その光に、うつろ船を持っていたお銀の顔も闇に浮かび上がる。
「うつろ船はようするに、ただの提灯です。中のロウソクの囲いを、外したり、付けたりする事で、光らせたり、消したりしているのです」
才円は、うつろ船を指さして続ける。
「そして、実際は、うつろ船はあの程度の大きさです。そうでないと、さすがに簡単には持ち運べないですからね。しかし、愚霊がうつろ船に乗って来たという噂をわざと流し、人々の心の中に『うつろ船には人が乗れる』という印象を強く残す事によって、人々は暗示にかかったように錯覚し、うつろ船が大きく見えるのです」
だが、才円は手をあごに当てると、少し考え込むように言った。
「しかし、うつろ船を飛ばす方法は分らなかった。最初は、凧や風船かと思ったんですが、それでは、高速飛行やジグザグ飛行は出来ない……ですが、ある時、あるものを見て、その謎は解けました」
才円は、そう言って微笑むと、また笛を吹いた。すると、今度は、遠くの木の上にも誰かが現われた。それはお銀の仲間だった。その人物もお銀と同じく、手元に大きな丸い物を持っている。そして、それもボウッと光りはじめ、またうつろ船の姿が現れた。
すると、まるでそれが合図であるかのように、木々の上に、たくさんのうつろ船が光りながら現われた。それは、まるで巨大な蛍の空中パーティのようだった。
「うつろ船がたくさん……そう、これが、うつろ船が、空を高速で飛び回れるカラクリなのです」
才円がそう言うと、すべてのうつろ船が消え、お銀のうつろ船だけが、闇にボンヤリと光っている。そして、お銀がニヤリと笑い、自分のうつろ船を消すと、それと同時に、はるか遠くにいた者が、自分のうつろ船を闇の中に光らせた。その時、その場は異様な感覚に包まれた。なぜなら、お銀のうつろ船が、一瞬で、はるか遠くまで移動したように錯覚して見えたからだ。
「パラパラ絵巻をご存じですか? 少しずつ動いている絵を重ねて、一気にパラパラとめくると、絵が動いているように見えるという……」
才円は持っていたパラパラ絵巻を、パラパラとめくって見せる。その絵巻の中では、うつろ船が、高速飛行やジグザグ飛行で飛んでいた。
「うつろ船が、高速で空中を飛び回る方法もこれと同じです。うつろ船を持った仲間達を、あらかじめ、あちこちの屋根の上に待機させておき、笛の開始の合図により、出したり消したりを繰り返す……あなたは、こうして、夜空にパラパラ絵巻を描いたという訳です」
同心はもう話す事さえしなかった、動く気力さえ無かった。才円のような子供に、自分が企んだ悪事を全て打ち崩されてしまったのだから。
「さあ、もう自主してはいかがでしょうか?」
才円がそう言うと、同心は何を思ったか、急に髪を振り乱して立ち上がり、狂ったように怒鳴り始めた。
「貴様のような子供が! 子供が! 子供など、黙って大人の言う事を聞いていればいいものを! 許さん、絶対に許さんぞおっ!」
同心は目をむくと、腰の刀をギラリと抜いた。その目は明らかに常人のものではなかった。彼はあまりのショックで、もう自分でも何をしているのか分らなくなっていた。
「うおおおおお!」
同心は魔物のような声を発しながら才円に向かっていく。才円は恐怖のあまり、体が動かず、ただ、愛する親友の名を呼ぶ事しか出来なかった。
その時だった。草むらの中から黒い影が獣のように飛び出し、才円がまばたく一瞬に、同心を一本背負いで投げ飛ばした。同心は背中で地面をズリズリと滑っていくと、大木にドン! とブチ当って、白目をむいて、その場にグッタリとのびきった。
その黒い影とは、あの白髪の老人であった。白髪の老人は才円の方へ向き直ると、曲がった背中をシャンと伸ばし、元気な声でこう言った。
「捕物なら俺の出番だぜ、親友!」
白髪の老人が白髪と白ヒゲを取ると、そこには、色黒で男らしい鉄の顔が現れた。
「鉄あにい!」
才円は気が付くと、鉄の厚い胸に飛び込んでいた。
こうして、うつろ船事件は見事に解決した。
鉄は無事に釈放され、才円と猫女と鉄の三人は、久しぶりの再会を、女中茶屋でのんびりと楽しんでいた。
「しかし、鉄あにいったら、なんでウソの自白なんかしたの? 物凄く心配したんだからね」
才円が納得いかない顔で聞いて来る。
「いやあ、すまなかった。あれも仕事のうちでな。まあ、今から、全てを話すから聞いてくれ」
鉄はそう言って、二人の顔を交互に見ると、似合わない神妙な顔をして、ゆっくりと話し始めた。
「愚霊の盗みの手口を見てオイラは思った。『以前にも、見た事がある』と。それも、今、牢の中にいる、有名な盗賊達の手口だってな」
「へえ」才円は思わず身を乗り出す。それを見て猫女は、やれやれという表情で微笑んだ。
「オイラは、うつろ船事件を解く鍵がここにあると思った。だが、囚人達から、色々と詳しい事を聞き出す為には、オイラも囚人になって、そいつらに仲間だと思わせるしかなかった。だから、わざとウソの自白をしたんだ」
「で? それでどうだったの?」才円は腰を浮かせて、さらに身を乗り出す。
「いやあ、とんでもなかったぜ! 実は、全ての牢の床下に秘密の抜け穴があって、あの同心が頭となって、愚霊として、そこから盗みに行ってたんだぜ。どうも、全てはあの同心が計画したらしい」
「へえ~~」一通り聞くと、才円は椅子にドカッと腰をあずけて溜息をつく。どうやら満足したようだ。
「でも、なんで、あんなおじいさんの格好して、時々、僕の後をつけてたの?」
才円がそう言うと、鉄は、うっ! という顔をする。
「ま、まあな……牢から抜け出せるって知った時、すぐに、お前や猫女の事が気になった。オイラの為に何か無茶して愚霊に狙われてねえか? ってな。それで、時々、白髪の老人に変装して、陰からお前達を見守ってたって訳さ」
鉄はそう言うと、照れくさそうに熱いお茶をぐいと飲み干した。才円と猫女はクスクスと笑いながらそんな鉄を見ている。
「さあて、もう仕事しないとね。一応、今は勤務時間だから」
猫目はそう言うと、舌を小さくペロッと出して、慌ただしく席を立っていった。
すると、残された才円と鉄の間に、なぜか不思議な沈黙が流れ始めた。それは、今まで感じた事もない変な感覚だった。
才円がたまらず辺りをキョロキョロと見始めると、鉄は口元の湯飲みで顔を隠したまま、聞こえないくらいの小声で言った。
「才円、オイラはお前の事をずっと見てたぜ……そして、思い出した。俺の兄貴の事を」
才円はハッとして顔を上げ、鉄を見上げた。鉄は静かに続ける。
「兄貴もオイラのようにドジな岡っ引きで、何をやらせても駄目だった。だけど、弱いやつを偉そうな奴らから守る、それだけは一歩も譲らなかった、命がけだった。そのせいで、最後は不幸な死に方をしたかもしれない。だけど、兄貴は確かに男だった」
鉄は湯飲みを置くと、才円とは目を合わせないまま、懐から古びたボロボロの十手を出して、懐かしそうに眺めた。才円の目から、自然と暖かな涙が一筋こぼれ落ちた。
「これは兄貴の命だった。町のみんなの色んな辛い思いが刻まれているんだ。そして、兄貴自身の、無念の思いも」
鉄は震えるほどに十手を握りしめる。
「なあ、こうは思わないか? 自分に出来る事があるならば、たとえ、それがどんなに小さくっても、やるしかねえって。そうすれば、そんな力が集まって、こんな世の中だって、きっと、いつか変わるって!」
鉄がそう言って才円を振り返ると、才円はただ黙って深くうなずいた。
「この十手を見る度に、オイラは兄貴にそう言われているような気がするんだ。だから、オイラは、いつか、そんな兄貴の無念の思いを……」
「ああっ、そうだ、才円! お姉様からの事件解決のご褒美、まだだったわね!」
その声に才円が振り返ると、猫女の表情は、ねずみを狙う猫のようにみるみる変わっていった。
「え?」才円は嫌な予感に思わず身構える。横を見ると、猫女が、そのプックリとした唇をすぼめて、もう目の前まで迫って来ていた。
「だ、だから、そういうの、やめろったら! バカ猫女!」
「いーじゃない。猫女様の唇を、一体、どれほどの客が欲しがってると思ってるの? オラオラ~」
猫女が、才円に猫のようにじゃれつくのを、鉄は温かい目で見守っている。
「やれやれ、せっかくのオイラの泣かせる話が……ま、いっか」
鉄は十手を大事そうに懐にしまうと、倒れるほどに椅子に体をあずけ、店内に響き渡るほどの大声で叫んだ。
「とにかく、今日はいい日だ! みんながいる! オイラは幸せだな!」
鉄がそう言うと、三人は顔を見合わせて大声で笑った。それは、ささやかながらも幸せなあの日々が、また三人の元に戻って来た事を喜んでいるのだった。