闇夜のうつろ船と灰色の怪人
時は元禄。東京がまだ江戸と呼ばれていた、今から数百年もの大昔。
車や飛行機などなく、人々は歩いて山を越え、夜はロウソクの炎だけで暮らした。今ではそれを想像する事さえ難しい、そんな時代。
もちろん事件の捜査だって、現代とは違って科学捜査などはなく、時には、無実の罪で罰せられる人もあったかもしれません。
ここは、そんな江戸と、よく似たパラレルワールド。
よく似てるけど、どこかがちょっと違う……そんな世界での物語です。
月が出ないこんな夜は、墨で塗りつぶしたような真っ黒な闇だけがどこまでも広がっている。まだ電灯や車などが発明されていない江戸の夜は、まるでこの世の終わりのように暗く静かで、なにか恐ろしい。
たとえ、闇の中から妖怪がひょいと一つ目を出して「やあ」と言っても、巨人の巨木のような毛だらけの足が、目の前に立ちはだかっていても、ありそうだとつい納得してしまうだろう。
だけど、今夜はそんな摩訶不思議な事が、実際に起ってしまったのだ。
この静かな江戸の夜を、突如、切り裂くように鳴るキーンという甲高い不気味な音。それは辺りに耳鳴りのように鳴り響き、家々をビリビリと震わせ始めた。だが、その音は次第にかすれるように消えていき、やがて、またもとの静寂が江戸の町に戻った。そして、空には、いつものまあるいお月さまがポッカリと浮かんでいる。
いや、何かがおかしい……月なのに雲の前に飛び出しているではないか。
よく見ると、それは月ではなく、巨大な釜のような物が、ボウッと光りせながら夜空に浮かび上がっていたのだ。そして空から地上の人々を見張っているかのように、空中でずっとユラユラと揺れている。
しかし、その空飛ぶ釜は、ゆっくり動き出したかと思うと、その数十メートル先でフワフワと浮いていた。空飛ぶ釜は、わずかまたたく間に、これだけの距離を移動したようだった。
すると、それを皮切りに、空飛ぶ釜は狂ったように空を飛び回り始めた。ジグザグに移動したかと思えば、消えては現われ、そしてまた恐ろしい程の距離を移動した。空飛ぶ釜はそういう事を何回か続けたかと思うと、まるで遊びに飽きた子供のように、急にプイっと夜空から消え去ってしまった。
その夜は、たくさんの江戸の人々が、その空飛ぶ釜を目撃したのだと言う。そして、その空飛ぶ釜は、いつしかうつろ船と呼ばれるようになった。その正体が謎なので、ぼんやりしているという意味の虚ろから、名付けられたのかもしれない。
だが、この事件は、それだけでは終わらなかったのだ。
ギラギラと照りつける夏の太陽の下、納豆でもかき混ぜるように人が溢れかえる江戸の大通り。たえず人々の話し声や、売り子の呼ぶ声、荷車の馬のいななきなどが聞こえ、様々な音が入り交じって洪水のような大合唱になり、毎日がお祭りとそう変わらなかった。
その一角で、瓦版(昔の新聞)を売るおじさんが、ある事件を大声でまくしたてている。道行く人々はいぶかしげにその声に振り返っては、吸い寄せられるように続々と集まって来るのだった。
「出たよ! うつろ船に乗ってやって来た、全身灰色の謎の妖怪、愚霊!」
瓦版売りがそう叫べば、その隣の瓦版売りが、もっと声高に叫ぶ。
「怪奇! 愚霊に連れ去られた家畜達! こっちの瓦版には、もっと詳しい事が書いてあるよ!」
そう、あの事件は、ただ、不可思議な物体が空に現われた! だけで終わるものではなかった。
このうつろ船が夜空に現われると、その夜は必ず、全身灰色の謎の生命体、愚霊の集団が、どこからともなく現われ、裕福や貧乏を問わず、その家からお金や家畜などを片っ端から盗んでいくのだった。そして、時折、不敵にも犯行現場に勝利の宣言を残していく。それは『みすてりい文字』と呼ばれた。
だが、相手が、うつろ船に乗ってやって来た謎の生命体では、奉行所(昔の警察)の捜査は、ただ混乱する一方で、いつしかその被害数は数百件にも膨れあがっていた。
やがて人々は、まるで幽霊の話でもするように、恐れながらうつろ船事件の話を口にするようになり、今や江戸の町は、この話題で持ち切りになっていた。
うつろ船について様々な憶測が飛び交い、うつろ船の名を付ければ何でも売れた。時にはデマも飛び出したかと思えば、中には信仰する者さえもいた。
中には、今、巷で有名な義賊『赤いかまいたち』が、愚霊に化けているのだという声もあった。赤いかまいたちとは、悪人達からお金を取り返す為だけに盗みをはたらく正義の義賊だ。『それはありえない』という声と『それが真実だ』という声で、一時、多くの瓦版屋の間で大論争が起きるほどの騒ぎになった。しかし、ある日、愚霊と赤いかまいたちが同時に現れた日があり、論争はあっさりと終わった。結局、赤いかまいたちの人気を裏付けただけで終わった。
世間はこのようにして大騒ぎをしていたが、結局、誰もその真相は分らなかった。
だが、世間がこれほど騒いでも、全く興味を示さない人物が、たった一人だけいた。
彼の名は、手九野 才円。歳は十二。その顔にあまり表情はないが、丸い黒縁メガネの奥の目はとても優しかった。折れそうな細い体と丸く美しい顔は、彼の繊細で大人しい所をよく現わしていて、時には女の子と間違えられる事もあった。
そんな彼は今日も、着物に袴姿で、腰の刀を重そうに引きずりながら、寺子屋(昔の学校)からの帰り道を急いでいた。
その背中には、『腰抜け』『意気地無し』などと書かれた紙がいくつも貼ってあるが、才円はそれにはかまわず、近所の貸し本屋に滑り込むと、居眠りしている店主の前で大声で叫んだ。
「おじさん! 新しい西洋の本、入った?」
「ああ、ビックリした。才円ちゃんか。ハイハイ、ちゃんと取ってあるよ」
店主がシワだらけの手で本を差し出すと、才円はひったくるように受け取って、その場に座り込んですぐに読み始めた。店主はそれを暖かい目で見つめている。
「それはそうと、才円ちゃん……また背中、何か書いてあるよ」
「はい。みんな十二にもなって、まだこんな漢字が書けなかったので、僕が教えてあげたんです」
店主はやれやれと大きく首をすくめて少し微笑むと、また居眠りを始めた。才円は目を輝かせながら、英語だらけの西洋の本にいつまでも見入っていた。
今の世は、剣が全てを支配する武士社会。だが、才円は剣が大の苦手……いや、むしろ毛嫌いしていた。暴力的なものは彼の性には合わないのだ。
そういう事で、彼はいつもまわりからバカにされていたが、その代わり、西洋の学問については誰よりも詳しかった。
彼はあっという間に独学で英語を習得し、西洋の学問書から様々な知識を得た。その中で、彼はなにより『さいえんす』(科学)に惹かれた。
そして、さいえんすの観点から見れば、うつろ船も何かのカラクリに過ぎない、彼はそう考えていたのだった。