「君を愛することはない」と言った夫が、三日で前言を撤回しに来た
「君を愛することはない」
婚礼の夜、公爵家の寝室の前で夫はそう言った。
ラウル・ベルネ公爵。二十七歳。王国の宰相補佐。銀灰色の髪をきっちりと後ろへ撫でつけ、黒い礼装の襟元までどこにも隙がない。切れ長の目は冬の朝の窓ガラスより冷たかった。
「この婚姻は、ベルネ家とクレール伯爵家の政略だ。私には、君に割く時間も心もない。期待はしないでくれ。屋敷では好きに過ごしてかまわない。必要なものは家令に言えばいい。以上だ」
一息で言い切って夫はくるりと背を向けた。
セシリア・ベルネ――三時間前までセシリア・クレールだった女は、夫の背中を見送りながら、右手の人差し指で、こめかみを一度だけ押さえた。
以上だ、ですって。
腹が立たなかった、と言えば嘘になる。伯爵家の長女として二十一年、それなりに大切に育てられてきた。婚礼のドレスは母と三か月かけて選んだ。夫になる人に、少しくらいは「美しい」と言ってもらえるかもしれないと、思っていなかったわけではない。
でも、それより先に、別のことが気になった。
「公爵様」
夫の足が止まった。振り返らない。
「一つだけ、お伺いしてもよろしいですか」
「手短に」
「屋敷では好きに過ごしてかまわない、とおっしゃいましたね。好きに、というのはどこまででしょう」
夫がゆっくりと振り返った。銀灰色の眉がわずかに寄っている。
「……どういう意味だ」
「わたくし、実家では十五のときから、伯爵領の出納と、屋敷の切り盛りをしておりました。父がその、数字にあまり強くないものですから」
父は悪い人ではない。ただ、計算をすると三回に一回は桁を間違える。領地の麦の取れ高を、去年の倍で王宮に報告しかけたこともある。止めたのは十五歳のセシリアだった。
「ですから、好きに過ごせと言われると、たぶん、わたくし、お屋敷の書類を見たくなります。よろしいですか」
夫はしばらくセシリアを見ていた。
冷たい目だった。でも、その奥で、何かを量っているのが分かった。この女は何を言っているのか。何が目的なのか。
「好きにしろ」
短く言って夫は廊下の奥へ消えた。
セシリアは寝室の扉を閉めた。
白いドレスのまま、天蓋つきの大きな寝台の端に腰を下ろす。誰もいない部屋は、しんと静かだった。窓の外で、夜風が庭の木々を揺らしている。
膝の上で両手を握りしめた。
喉の奥が少しだけ熱くなった。
――君を愛することはない。
面と向かって言われると、思っていたよりこたえた。好きになってもらえるとは思っていなかった。それでも、せめて、嫌われてはいないと思いたかった。
セシリアはぎゅっと目をつぶった。一、二、三。数えてから目を開けた。
「……いいわ。好きにさせていただきます」
声に出すと、少しだけ、背筋が伸びた。
翌朝、朝食の席に、夫はいなかった。
「旦那様は、日の出前に王宮へお発ちになりました」
侍女頭が紅茶を注ぎながら言った。四十過ぎの、背筋のまっすぐな女性だった。白いエプロンには、皺ひとつない。
「毎朝、そうなのですか」
「はい。お戻りはたいてい夜半を過ぎてからでございます。お食事も、お部屋で書類をご覧になりながら」
セシリアは紅茶のカップを両手で包んだ。ベルガモットの香りが、湯気と一緒に立ちのぼる。
「先代の公爵様ご夫妻は、五年前に亡くなられたと伺いました」
侍女頭の手がポットの上でほんの一瞬止まった。
「……はい。奥方様が冬の熱病で、その翌月に、旦那様……先代様が、後を追うように。旦那様は二十二でいらっしゃいました。葬儀の翌日には、もう王宮へ出仕なさって。それから、ずっと、ああして」
「ああして?」
「笑われなくなりました」
侍女頭はポットを置いて、エプロンの前で両手を重ねた。
「お小さいころは、よくお笑いになる方でございました。庭で、先代の奥方様と、薔薇の数を数える競争をなさったりして。数字がお好きで、いつも奥方様に勝っておいででした」
セシリアはカップの縁に唇をつけたまま、侍女頭を見た。
数字が好きな、よく笑う男の子。
昨夜の、冬の朝の窓ガラスより冷たい目からは、とても想像できなかった。
「奥様」
侍女頭が声を落とした。
「差し出がましいことを申します。旦那様は昨夜のようなことを、本心からおっしゃる方ではございません。あの方はただ、誰かに何かを期待されるのが、怖くていらっしゃるのです。期待に応えられなかったときのことを、先に考えてしまわれる」
「……侍女頭さん」
「どうか、見限らないで差し上げてくださいませ。わたくしども使用人一同、心からお願い申し上げます」
侍女頭は深々と頭を下げた。
セシリアはカップを受け皿に戻した。かちり、と小さな音がした。
見限る、も何も。まだ、何も始まっていない。
それでも、胸の奥の、昨夜からずっと冷たかったところに、小さな火が一つ灯った気がした。
「……書類を、見せていただきたいのです。屋敷の出納の。どなたにお願いすればいいかしら」
侍女頭が顔を上げた。目がわずかに見開かれていた。
「家令でございます。ただ、あの者は……いえ。奥様ご自身でお確かめくださいませ」
侍女頭が言いよどんだ、その一瞬をセシリアは覚えておくことにした。
朝食のあと、セシリアは家令の部屋の扉を叩いた。
家令は五十がらみの、腹の出た男だった。先代の公爵のころから屋敷を預かっているという。セシリアが「屋敷の出納の書類を見せていただきたい」と言うと、家令は、ふくよかな頬をゆるめた。
「奥様、そのようなことは、わたくしどもにお任せくださいませ。奥様はどうぞお庭でもご覧になってゆるりと」
「公爵様のお許しはいただいております。好きにしろ、と」
家令の笑みが一瞬だけ、固まった。
セシリアはその一瞬を見逃さなかった。
昼までに、セシリアは過去三年分の出納の書類を全部、自分の居間の机に運ばせた。
侍女たちが目を丸くする中、セシリアは袖をまくり、羽根ペンを握った。紙をめくる。数字を追う。小麦、油、蝋燭、薪、葡萄酒、使用人の給金。数字の列は楽譜に似ている。正しく並んでいれば、心地よく流れる。どこかが狂っていれば、そこだけ音が外れる。
夕方には、外れた音が三つ見つかった。
一つ目。蝋燭の仕入れ。屋敷の部屋数から考えると、ひと月に使う量の、ちょうど倍が仕入れられている。
二つ目。厩の飼い葉。馬が十二頭のはずなのに、二十頭分の飼い葉代が払われている。
三つ目。使用人の給金。給金の書類に並ぶ名前が四十二人。屋敷で実際に働いているのは、侍女頭に訊いたところ、三十五人。
七人分の給金が誰かの懐に入っている。
セシリアは羽根ペンを置いた。窓の外が茜色に染まっていた。
背中に、ぞくりとしたものが走った。怖いのではない。数字が合ったときの、あの感じだ。もつれた糸の端を、指でつまんだときの。
「……見つけた」
その夜の夕食は一人だった。
夫は王宮から戻っていなかった。広い食堂の長いテーブルの端に、セシリアの皿が一つ。燭台の火が銀の食器に揺れている。
スープを一口飲んでセシリアは手を止めた。
ぬるかった。
厨房からこの食堂まで廊下が長すぎるのだ。料理人が作ったときは熱くても、運ぶあいだに冷めてしまう。きっと、夫も毎晩、このぬるいスープを飲んでいるのだろう。何も言わずに。
「……あの方、毎晩これを?」
給仕の少年に訊くと、少年は首をすくめた。
「旦那様は、お食事にはあまり……いつも書類をお読みになりながら、半分ほど召し上がってお部屋に戻られます」
セシリアはぬるいスープの皿を見下ろした。
君に割く時間も心もない。
あの人は自分のスープの温度に割く時間も、ないのかもしれない。
その夜、セシリアはなかなか寝つけなかった。
頭の中で数字がぐるぐる回っている。蝋燭、飼い葉、給金。誰がどうやって、いつから。証拠をそろえるには、あと何を見ればいいのか。
真夜中を過ぎたころ、セシリアは寝台を抜け出した。肩掛けを羽織って、燭台を持って廊下に出る。屋敷の図書室に、領地の古い記録があると侍女頭が言っていた。家令の不正がいつから始まったのか、先代のころの書類と比べてみたかった。
図書室の扉の隙間から、明かりが漏れていた。
そっと開けると、暖炉の火が小さく燃えていた。窓際の大きな机に、書類が山のように積まれている。その山に埋もれるようにして、夫が、机に突っ伏して眠っていた。
セシリアは息を止めた。
王宮から戻ったのだ。いつ戻ったのか、気づかなかった。外套も脱がずに、羽根ペンを握ったまま。銀灰色の髪が書類の上に散らばっている。
寝顔は昼間とまるで違った。眉間の皺がほどけて、口が少しだけ開いて、ずっと幼く見えた。二十七歳の宰相補佐ではなく、薔薇の数を数えて母親に勝っていた男の子のように。
セシリアはソファの背にかかっていた膝掛けを取って夫の肩にそっとかけた。
夫は身じろぎもしなかった。
ふと、夫の腕の下の書類に、目が行った。
王宮の書類だった。北の三つの州の、今年の麦の取れ高と、冬に備えて国庫から回す麦の量。宰相閣下に上げる前の、下書きらしい。夫の几帳面な字で、数字がびっしりと並んでいる。
セシリアの目が三行目で止まった。
足し算が一か所、違っていた。
二つ目の州の合計が、百袋多い。たぶん眠気でペンが滑ったのだ。このまま上がれば、北の州に回す麦が百袋足りなくなる。冬の終わりに、どこかの村で誰かがひもじい思いをする。
セシリアは迷った。
夫の書類に、勝手に手を入れるわけにはいかない。でも、このまま朝になって、夫が気づかずに王宮へ持っていったら。
セシリアは机の端の予備の羽根ペンを取った。インク壺に浸して、書類の余白に、小さな字で書きこんだ。
――この行、百袋多いかと存じます。お確かめくださいませ。
それから、燭台を持って、足音を立てないように図書室を出た。
自分の部屋に戻って、寝台にもぐりこんでから、心臓がどくどく鳴っていることに気づいた。
余計なことをした。きっと、怒られる。君に割く時間も心もない、と言った人の書類に、名前も書かずに落書きをした。
セシリアは毛布を頭までかぶった。
――でも、百袋は、百袋だもの。
二日目、セシリアは侍女頭と料理長を居間に呼んだ。
厨房の隣の小部屋に、炭の保温台を置くこと。そこで料理を温め直してから食堂へ運ぶこと。それだけでスープは熱いまま届く。料理長は太い腕を組んで「なぜ今まで誰も思いつかなかったのか」とうなった。
「思いついても、言える方がいなかったのでしょう」
侍女頭がちらりと家令の部屋のほうを見た。
昼過ぎ、セシリアは家令を居間に呼んだ。
机の上に、三枚の紙を並べた。蝋燭、飼い葉、給金。外れた音の、三つの証拠。家令の丸い顔から、みるみる血の気が引いていった。
「お、奥様、これは何かの間違いで」
「間違いでしたら、ご説明いただけますか。七人分の給金を受け取っている方々のお名前を、ここに書いてくださいませ。わたくし、今から一人ずつ、お会いしに参りますから」
家令の額に、汗が浮いた。
セシリアは両手を膝の上で重ねて待った。
実家でも、同じことがあった。十五の冬、伯爵家の家令の不正を見つけた。あのときは怖くて手が震えた。父に言いつけるまでに、三日かかった。
今は震えない。
君を愛することはない、と言われた夜に比べたら、ずっと平気だった。
「……申し訳、ございませんでした」
家令が床に膝をついた。
「わたくしの一存ではございません。叔父上様が……旦那様の叔父上、ベルネ子爵様が、屋敷の金を少しずつ回せと。旦那様は政務でお忙しく、屋敷の書類などご覧にならないから、と」
セシリアの指先が、膝の上で冷たくなった。
叔父。夫の。
夫の両親は五年前に相次いで亡くなったと聞いている。二十二歳で公爵家を継いだ夫を、親族はどう見ていたのだろう。屋敷の中で、誰が味方で、誰がそうでなかったのだろう。
あの人はたった一人でぬるいスープを飲みながら。
「このことは、公爵様に、わたくしからご報告いたします。あなたは今日のうちに、受け取った分の金額をすべて書き出しておいてください。逃げたら、その分だけ罪が重くなりますよ」
家令はがくがくとうなずいた。
三日目の昼過ぎ、屋敷に客が来た。
「ベルネ子爵様が、奥様にご挨拶をと」
侍女頭の声がいつもより硬かった。
応接間に入ると、六十近い男が、暖炉の前の一番いい椅子に、脚を組んで座っていた。夫と同じ銀灰色の髪。けれど、目の色は濁っていて、指には大きな金の指輪が三つ光っている。
「やあ、これはこれは。甥の嫁御どの。婚礼の席ではろくに話もできなかったね」
子爵は立ち上がりもせずに、セシリアを上から下まで眺めた。
「聞いたよ。屋敷の書類を、いじっているそうじゃないか。伯爵家ではお嬢様にそんなことをさせていたのかね。いやはや、田舎の伯爵家は大変だ」
セシリアは扉の前で立ち止まった。
家令が子爵に知らせたのだ。昨日の昼、セシリアに証拠を突きつけられた直後に。
「ご挨拶が遅れました、叔父様」
セシリアはドレスの裾をつまんで礼をした。
「書類の件でしたら、ちょうどよかった。叔父様に、お伺いしたいことがございましたの」
「ほう?」
「厩の飼い葉代のことです。ここ三年、毎月、八頭分が余計に払われております。払い先の商人の名前を調べましたら、叔父様の領地の商人でした。偶然でしょうか」
子爵の、組んだ脚が、ぴたりと止まった。
「……何のことか、分からないな」
「それから、給金です。屋敷で働いていない七人分の給金が、毎月、家令を通してどこかへ消えております。家令は叔父様のお言いつけだと申しておりました」
「あの男の言うことを、真に受けるのかね」
子爵が椅子から立ち上がった。セシリアより、頭一つ背が高い。金の指輪が暖炉の火にぎらりと光った。
「お嬢さん。嫁いで三日の小娘が、ベルネ家のことに口を出すものではないよ。ラウルは忙しい。こんな細かいことで、あれの手を煩わせるつもりかね。あれは君のことなど、気にも留めていないだろうに」
セシリアの指先が、冷たくなった。
――君を愛することはない。
知っているのだ、この人は。夫が妻をどう扱っているか。屋敷の中でセシリアが一人きりだと。
喉の奥がひりついた。足が少しだけ震えた。
十五の冬を思い出した。伯爵家の家令の不正を見つけたとき。父に言いつけるまでに、三日かかった。あのときも、こんなふうに足が震えた。
でも、あのとき、三日かかっても、言った。
「叔父様」
セシリアは顔を上げた。
「公爵様が、わたくしのことを気に留めていらっしゃるかどうかは、関係ございません。屋敷のお金は公爵家のお金です。公爵家のお金は領地の民の納めた税です。それを叔父様の商人が、三年間、少しずつ持っていった。わたくしはそれを見つけた。見つけたものは公爵様にご報告いたします。妻としてではなく」
声が震えなかった。
「数字を見る者として」
子爵の顔が赤黒く染まった。
「小娘が……!」
「お帰りの馬車は、玄関にご用意してございます」
侍女頭が応接間の扉を、大きく開けた。その後ろに、料理長と、厩番の男たちが立っていた。太い腕を組んで。
子爵は何か言いかけて口を閉じた。それから、乱暴に外套をつかんで、足音も荒く応接間を出ていった。
扉が閉まったとたん、セシリアの膝から力が抜けた。
侍女頭が慌てて駆け寄ってきてセシリアの腕を支えた。
「奥様!」
「……だいじょうぶ。ちょっと、足が」
セシリアは侍女頭の腕につかまったまま、笑った。笑いながら、手が、がくがく震えていた。
「怖かった……」
「ご立派でございました」
侍女頭の声が少しだけ潤んでいた。
料理長が扉の向こうで鼻をすすった。
「奥様。今夜のスープはとびきり熱くしておきますんで」
三日目の夜。
セシリアは居間で、報告書の最後の行を書き終えた。
不正の内容、金額、関わった者の名前、叔父の子爵とのやりとり。それから、屋敷の出納をこれからどう改めるかの案。蝋燭の仕入れ先を二つに分けること。給金は侍女頭と家令の二人で確かめてから払うこと。厨房の保温台のこと。
十二枚になった。
セシリアは羽根ペンを置いて、両腕を上に伸ばした。肩がぽきりと鳴った。
窓の外はもう真っ暗だった。夫は今夜も、王宮から遅く戻るのだろう。報告書は明日の朝、執事に預けよう。読んでもらえるかどうかは分からないけれど。
扉が乱暴に叩かれた。
返事をする前に、扉が開いた。
夫だった。
黒い外套を着たまま。王宮から戻ってそのまま来たらしい。銀灰色の髪が少しだけ乱れている。息がわずかに上がっていた。
「公爵様?」
「セシリア」
はじめて名前を呼ばれた。
セシリアは椅子から立ち上がった。夫は扉の前に立ったまま、動かない。冷たい切れ長の目が、まっすぐにセシリアを見ていた。
「話がある」
「はい。わたくしも、ご報告が――」
「前言を、撤回したい」
セシリアの手が机の端で止まった。
前言。撤回。
頭の中で言葉がぐるぐると回る。三日前の夜。好きに過ごしてかまわない。好きにしろ。……それを撤回する、ということは。
胸の奥がすうっと冷えていった。
「……屋敷の書類に、手を出すなと、おっしゃりたいのですか」
「違う」
「では、勝手に厨房を変えたことでしょうか。料理長には、わたくしから無理を言いました。もしお気に召さなければ、すぐに元に」
「違う」
「それとも、家令のことを、もうお聞き及びに――」
「違う。そうではない」
夫が一歩、部屋の中に入ってきた。
「今夜、食堂でスープを飲んだ」
「……スープ」
「熱かった」
夫は外套の襟元を、指で引っ張った。
「この屋敷で、熱いスープを飲んだのは五年ぶりだった。料理長に訊いたら、奥様のご指示だと言った。侍女頭に訊いたら、奥様が三年分の書類を二日で読んで、家令の不正を見つけたと言った。家令の部屋に行ったら、あの男が泣きながら、叔父のことを全部話した」
夫の声がだんだん速くなっていく。
「私は五年間、気づかなかった。屋敷の書類など、見る暇がないと思っていた。叔父が何かしていることも、薄々は分かっていたのに、確かめる暇がないと。……暇がないのではなかった。誰も、信じられなかっただけだ」
セシリアは言葉を失った。
冷たい人だと思っていた。氷のような目の、情のない人だと。
違った。この人はたった一人で、五年間、誰にも背中を預けられずにいたのだ。
「それで」
夫はそこで言葉を切った。
口を開いて、閉じた。銀灰色の眉がぎゅっと寄っている。耳の先が燭台の火で赤く見えた。
「それで、思った。三日前の夜に、私は、取り返しのつかない愚かなことを言ったと」
「……君を愛することはない、ですか」
「そうだ。あれを、撤回したい」
セシリアはまばたきをした。
撤回。愛することはない、を撤回する。
ということは。
「……公爵様。三日です」
「分かっている」
「三日前に、愛することはないとおっしゃった方が、三日で」
「分かっている。自分でも、どうかしていると思う」
夫は外套の内側から、何かを取り出した。
紙の束だった。セシリアは目を見張った。今朝、侍女に頼んで、執事の部屋に届けさせた、屋敷の出納の改め案の下書き。報告書とは別に、先に一枚だけ書いておいたもの。
「これを、王宮で読んだ。三回読んだ。宰相閣下の書類より、ずっと分かりやすかった」
「……それは、あの、お目汚しを」
「それと、もう一つ」
夫は外套の内側から、もう一枚、紙を取り出した。
王宮の書類だった。北の三つの州の、麦の取れ高。二つ目の州の行の横の余白に、小さな字が書きこまれている。
――この行、百袋多いかと存じます。お確かめくださいませ。
セシリアは口を押さえた。
「昨日の朝、王宮で、宰相閣下にお渡しする直前に気づいた。見たことのない字だった。図書室で眠ってしまった夜に、誰かが書いたのだと思った。肩に膝掛けがかかっていた」
夫の指が余白の小さな字を、そっとなぞった。
「確かめたら、本当に百袋多かった。このまま上げていたら、北の村が一つ、春まで持たなかったかもしれない」
「……勝手に、申し訳ございません」
「今朝、君の改め案の字を見て同じ字だと分かった」
夫は紙から顔を上げた。
「誰が書いたのか、一日じゅう考えていた。屋敷に、こんな字を書く者はいない。数字の間違いに気づいて、名前も書かずに、そっと直していく者は。……君だった」
セシリアは言葉が出なかった。
膝掛けをかけたことも、余白に書いたことも、気づかれているとは思わなかった。気づいても、怒られるだけだと思っていた。
「それから、今日、叔父が来たそうだな」
夫の声が少しだけ低くなった。
「応接間で、君が叔父を追い返したと聞いた。料理長が涙ぐみながら話していた。数字を見る者としてと言ったそうだな」
セシリアの頬が熱くなった。料理長、そんなことまで。
「叔父のことは、明日、私が片をつける。君にあんな思いをさせたのは、私が五年間、目をそらしていたからだ」
夫は紙をたたんで、大切そうに外套の内側へしまった。
それから、もう一度、セシリアをまっすぐに見た。
「数字の並べ方が、美しかった」
セシリアは口を半分開けたまま、固まった。
美しい。
婚礼のドレスを、母と三か月かけて選んだ。誰かに美しいと言ってもらえるかもしれないと、少しだけ期待していた。
言われたのは数字の並べ方だった。
頬がかあっと熱くなった。怒っているのではなかった。どうしてか、ドレスを褒められるより、ずっと、ずっと、うれしかった。
「……ずるいです」
「何がだ」
「そんな言い方。数字を褒められたの、生まれてはじめてです」
夫は少しだけ目を見開いた。それから、ほんのわずかに、口の端を上げた。
笑った。
三日間ではじめて見る笑顔だった。冷たい切れ長の目が少しだけ柔らかくなる。それだけでまるで別の人に見えた。
セシリアの心臓が、どくん、と跳ねた。
だめ。三日前に、愛することはないと言われたのだ。三日で撤回されて、三日で舞い上がるなんて、伯爵家の長女としてあまりに安すぎる。
セシリアは背筋を伸ばした。両手を、体の前で重ねた。
「公爵様。撤回のお申し出、承りました」
「……ああ」
「ですが、すぐにお受けするわけには参りません」
夫の笑みがすっと消えた。
「愛することはないと言われた夜、わたくし、少し泣きました。少しですけれど」
夫の肩がぴくりと動いた。
「ですから、撤回なさるなら、それなりの証明をいただきたいと思います」
「証明」
「はい。条件が一つございます」
夫は黙ってうなずいた。どんな条件でも呑む、と言わんばかりの目だった。真剣な、まっすぐな目。
セシリアは机の上の報告書を手に取った。十二枚。三日分の、セシリアの仕事。
「毎朝、わたくしと一緒に、朝食を召し上がってください」
夫がまばたきをした。
「……それだけか」
「書類を読みながらでは、いけません。お皿の上のものをちゃんと見て、熱いうちに召し上がって、わたくしと話をしてください。一日に三言以上」
夫はしばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
「三言以上、とは」
「天気の話でも、王宮の話でも、何でもかまいません。それを、毎朝。ひと月続いたら、撤回をお受けいたします」
「ひと月」
「ひと月です」
夫はセシリアを見下ろした。セシリアは目をそらさなかった。
やがて、夫が、右手を差し出した。
握手を求める手だった。政務の場で取り決めを結ぶときの手。
セシリアはその手を握った。
大きくて温かかった。三日前の夜、背中を向けて去っていったときの冷たさは、どこにもなかった。
「承知した」
夫は言った。
「明日の朝から。……それと、もう一つ」
「何でしょう」
「その報告書を、今、読ませてほしい」
セシリアは手の中の十二枚を見た。それから、夫を見た。
「今からですか。もう夜ですよ」
「今がいい」
夫はセシリアの向かいの椅子を引いて、外套のまま腰を下ろした。報告書を受け取って一枚目をめくる。
燭台の火が二人のあいだで揺れた。夫の切れ長の目が、紙の上の数字を、ゆっくりと追っていく。ときどき、指が止まる。セシリアの書いた一行を、指先でなぞる。
セシリアは向かいに座って夫の横顔を見ていた。
君を愛することはない、と言った人が。
セシリアの書いた数字を、今、こんなに大切そうに読んでいる。
翌朝、ベルネ公爵家の食堂で、使用人たちは信じられない光景を見た。
長いテーブルの端に、皿が二つ並んでいる。湯気の立つスープ。焼きたてのパン。旦那様が書類を一枚も持たずに、奥様の向かいに座っている。
「……今朝は、晴れている」
「はい、晴れていますね」
「スープが、熱い」
「保温台のおかげです」
「……君は、パンにバターを塗りすぎる」
奥様がスプーンを持ったまま、目を丸くした。
「それは三言目ですか? それとも、ただの悪口ですか?」
旦那様は答えなかった。黙って、自分のパンにもバターを厚く塗った。奥様と同じくらい。
給仕の少年がこっそり侍女頭に耳打ちした。
「旦那様、今、笑いました?」
侍女頭は銀の盆を抱えたまま、目尻を下げた。
「ひと月も、もたないでしょうね。撤回のお受けのほう」
食堂の窓から、朝の光がたっぷりと差しこんでいた。
テーブルの上で、旦那様の手が、奥様のバターナイフに、そっと伸びた。
(完)
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毎日19:10ごろ、読み切りの恋愛短編を投稿しています。




