7.原因
古びたマットレスが沈み、かすかな埃が舞い上がる。リゼットはベッドに身を沈め、ぼんやりと天井を見つめた。
ようやく灰猫亭に帰ってきた。窓の外は、すっかり夜の闇に沈んでいる。
街灯の明かりが遠くに滲むばかりで、人の声も、馬車の音も聞こえない。つい先ほどまで歩いていた王都の大通りとは、まるで別世界だ。
今日は服を選んだだけだというのに、どっと疲れた。明日のことを考えると今から気が重いが、明日のことは明日考えよう。
リゼットは瞬きの回数を少しずつ減らし、深い眠りに落ちていった。
*
朝十時。今日の迎えも時間ぴったりにやってきた。昨日と違うことといえば、馬車にカイの姿がないことだ。
監査院に到着し、リゼットは少し身構えた。何せ防壁になる男がいないのだ。
しかし、今日身にまとっているのは薄汚れた服ではない。まともな格好になったのだから、この場所にも馴染めるはずだ。
リゼットは灰色の布をピンと伸ばし,その扉を開けた。
ぽつぽつと階段を登っていると、ひょろりと背の高い男がリゼットを覗き込んできた。そばかすの散った顔には、どこか気弱そうな雰囲気がある。
「あのう、すみません。昨日、ローゼンさんと一緒にいらっしゃった方ですよね?大変恐縮なのですが、この書類をローゼンさんに渡しておいてもらえませんか?」
「え、なんで」
「いや、ローゼンさんってほら、少し怖いというか……あ、今のは言わないでくださいね!それでは、お願いします」
頼りなくひっくり返った声を張り、書類をリゼットに押し付ける。断ろうと顔を上げると、男の背中はもう遥か彼方だった。
手元の書類に目を落とし、それから周囲を見回す。あちこちから、好奇の目が向けられていた。近くにいた職員たちは、私と目が合うなり、そそくさと歩き始める。
そんなに気まずそうにしなくても、と思ったところでハッとした。
リゼットは自分の袖口に鼻を寄せ、そっと匂いを確かめる。変な匂いはしないと思うが、もしかすると灰街の空気が染みついているのかもしれない。
リゼットは気を取り直して、教えられた道順を思い出しながら長い廊下を進む。似たような扉がいくつも並ぶ広い廊下に、何度か足を止めては周囲を確かめる。
そうして、ようやく見覚えのある重厚な扉にたどり着いた。扉を二度、叩く。
「入れ」
低く落ち着いた声が返ってきた。
そっと扉を押し開けると、香ばしい匂いが、紙とインクの匂いに混じって漂ってくる。
広い執務室の奥、窓を背にした執務机にカイが座っていた。片手にはコーヒーのカップ。もう片方の手で書類を繰りながら、こちらに目もくれず仕事を続けている。
大きな窓から差し込む陽光が、室内を明るく満たしていた。
窓を背にした執務机には影が落ち、カイの顔も半ば陰っている。その髪は、いつもよりいっそう深い色を湛えていた。
光を背負っていると言うのに、まるで夜明けを拒む空のような、暗く澄んだ色だった。
「寝てないの?」
「ああ、昨日はお前の服選びで一日潰れたからな。仕事が溜まってる」
「へえ、たった一日で仕事が山積み?意外と要領悪いんだ」
リゼットが揶揄すると、紙面を追っていたカイのペン先がぴたりと止まった。
ペンを手離し、机に両肘をつく。そして、顔前で組んだ両手の上に顎を乗せ、その口元に優雅な笑みを浮かべた。
背後の窓から差し込む光が、彼の顔に濃い影を落としている。
「助手のくせに、ずいぶん口が達者だな」
今日は比較的ぽかぽかした陽気だったはずだが、なんだか寒気がする。
おそらく先ほどの気弱そうな男は、カイのこういうところが苦手なのだろうと合点がいった。
リゼットはそんなカイの様子に目もくれず、執務机の手前に置かれたソファとローテーブルの間を抜け、彼のもとへ歩み寄った。
「この書類、ひょろっとした男の人に渡された。ずいぶん怖がってたけど何かしたの?」
「ひょろっとした男というと、会計課のミロ・フェルナーか。そばかす顔の?」
「たぶん」
「あいつがおどおどしてるのはいつものことだ。金勘定をする連中は、何かと気苦労が多いんだろ」
カイはさして興味もなさそうに、ミロから預かった書類を机の端に積まれた書類の山に放り込んだ。




