人間の考え分からん件 (読み切り)
朝になると、あの人間は必ず起きる。
それが何時なのか、私は正確には知らない。
ただ、窓の外が少しずつ明るくなって、部屋の中に薄い光が差し込む頃になると、隣の部屋から音がする。
布団が動く音。
床を踏む音。
水の流れる音。
そして、しばらくすると扉が開く。
私はいつもの場所から顔を上げる。
あの人間が出てくる。
眠そうな顔をしている。
髪は少し乱れている。
しばらく立ったまま、何かを考えているように見える。
けれど――何を考えているのかは分からない。
それが、私にはずっと不思議だった。
人間は、何を考えているのだろう。
私たち猫は、少なくとも自分が何を考えているのかは分かっている。
今日は何を食べよう。
窓辺は暖かそうだ。
少し眠い。
外の鳥が気になる。
昨日見つけた場所へもう一度行ってみたい。
そういうことを、私は頭の中で考えている。
だから、人間も同じように何かを考えているのだと思っていた。
けれど。
人間の考えていることだけは、どうしても分からない。
あの人間は、朝になると服を着替える。
毎日、違う服を着る。
その必要があるのかどうかも、私には分からない。
今日は上が白くて、下が黒い。
昨日は上下とも暗い色だった。
その前の日は、少し青かった。
服の色を変えることに、何か重要な意味があるのだろうか。
私は何度も考えた。
もしかすると、服の色によって一日の運命が変わるのかもしれない。
白い服の日は良い日。
黒い服の日は悪い日。
青い服の日は、何か特別なことが起きる。
そう考えたこともある。
けれど、何日観察しても、その法則は見つからなかった。
あの人間は、服を着終わると、小さな光る板を手にする。
四角い板。
指で何度も触っている。
画面を見ている。
時々、眉を動かす。
口元が少し緩むこともある。
私はその横から画面を覗き込んだことがある。
たくさんの文字が並んでいた。
文字そのものは読める。
けれど、それを見た人間がなぜそんな顔をするのかは分からない。
面白いのだろうか。
悲しいのだろうか。
怒っているのだろうか。
ある朝、あの人間は画面を見ながら突然、小さく笑った。
「……ふっ」
私は驚いて顔を上げた。
何がそんなに面白いのだろう。
部屋には私と人間しかいない。
誰も何もしていない。
私は人間の顔を見た。
人間もこちらを見た。
目が合った。
しばらく、お互いに動かなかった。
人間は何か言った。
「どうした?」
私は答えなかった。
答えられないのではない。
答える必要があるのか分からなかった。
人間は少し首を傾げた。
そして、私の頭に手を伸ばした。
撫でられた。
私は目を細めた。
気持ちいい。
それは分かる。
けれど、どうして撫でたのかは分からない。
それが人間だった。
しばらくすると、人間は家を出た。
玄関の扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。
私は玄関の前まで行った。
もう姿は見えない。
静かになった部屋に戻る。
そして私は、いつものように窓辺へ向かった。
窓の外には街がある。
たくさんの人間が歩いている。
走っている人間もいる。
立ち止まっている人間もいる。
何人かで集まっている人間もいる。
私はそれを眺める。
人間は、本当に不思議だ。
みんな、それぞれ違う方向へ歩いている。
でも、何か目的があるようにも見える。
しかし、その目的は私には分からない。
あの人間も、毎朝どこかへ行く。
私は以前、一度だけ後をついていこうとしたことがある。
玄関から外へ出て、少し離れたところから歩いてみた。
人間は気づかなかった。
駅へ向かっていた。
駅にはたくさんの人間がいた。
そして、人間たちは同じ方向へ歩いていった。
大きな乗り物が来る。
扉が開く。
人間たちは中へ入る。
あの人間も入った。
私は遠くから見ていた。
扉が閉まった。
乗り物が動き出した。
私はその場に残された。
あの人間がどこへ行ったのか、分からなかった。
だから家に戻った。
そして夕方。
玄関の音がした。
あの人間が帰ってきた。
私は驚いた。
どうして戻ってこられたのだろう。
朝に乗り物へ入ったのに。
どこへ行って。
何をして。
どうして。
何のために。
私は何度も考えた。
けれど、答えは出なかった。
夜。
人間は椅子に座っていた。
手にはまた、あの光る板。
画面を見ている。
私は少し離れた場所から人間を観察した。
朝とは違う顔をしている。
疲れているように見える。
けれど、何があったのかは分からない。
私は人間の近くへ歩いていった。
足元に座る。
人間がこちらを見る。
「……どうした?」
また同じ言葉。
私は人間を見上げる。
どうしたのかと聞きたいのは、こちらだった。
今日、何があったの?
どこへ行っていたの?
誰と会ったの?
何をしていたの?
どうして疲れているの?
どうして朝になると出ていくの?
どうして夜になると帰ってくるの?
そして――
あなたは、何を考えているの?
私は何も言わない。
言っても、人間には分からないからだ。
人間は私の頭を撫でた。
一度。
二度。
それから、手を止めた。
私はその手を見る。
大きな手。
朝にも触れられた手。
私は少しだけ、その手に頭を寄せた。
人間は何も言わなかった。
ただ、もう一度撫でた。
その理由も、やっぱり分からなかった。
私はよく考える。
人間には、心があるのだろうか。
もちろん、あるのだろう。
そうでなければ笑ったり、怒ったり、悲しそうな顔をしたりする理由がない。
でも、心があるのなら。
どうして私は、それを見ることができないのだろう。
私たち猫は、猫同士ならある程度分かる。
尻尾の動き。
耳の向き。
声。
目。
歩き方。
少しの変化で、相手が何を考えているのか想像できる。
けれど人間は違う。
人間は、あまりにも分からない。
何を考えているのか分からない。
何を見ているのか分からない。
何を求めているのか分からない。
それでも、毎日ここにいる。
朝になると出ていって。
夜になると帰ってくる。
そして、時々私の頭を撫でる。
それだけは分かる。
ただ、それが何を意味しているのかまでは分からない。
ある日。
私は猫の友達にこの話をした。
「人間って、何を考えてるんだろう」
友達は少し考えてから言った。
「さあ」
「お前のところの人間は?」
「分からない」
「何をしてる?」
「毎日どこかへ行く」
「どこへ?」
「分からない」
「何のために?」
「分からない」
私たちは顔を見合わせた。
「……人間って、変だな」
「うん」
それだけだった。
その日の夜。
私は窓の外を眺めていた。
街にはたくさんの明かりがついている。
その下を、たくさんの人間が歩いている。
みんな、どこかへ向かっている。
でも、その理由を私は知らない。
もしかすると、あの人間たちも自分がどこへ向かっているのか分かっていないのかもしれない。
もしかすると、何かを探しているのかもしれない。
もしかすると、何も考えていないのかもしれない。
あるいは。
私には想像もできないようなことを、ずっと考えているのかもしれない。
結局、何も分からない。
私は窓に映った自分の顔を見る。
そして、その向こう側にいる人間たちを見る。
ふと、妙なことを思った。
もしも人間が私たち猫のことを理解できないように。
私たち猫も、人間のことを理解できないのなら。
それは、悪いことなのだろうか。
分からないまま一緒に暮らすことは、間違っているのだろうか。
私は答えを出せなかった。
ただ、そのとき玄関から音がした。
あの人間が帰ってきた。
私は窓辺を離れ、玄関へ向かう。
扉が開く。
人間が入ってくる。
いつものように、少し疲れた顔をしている。
私を見る。
そして、少しだけ笑う。
何を考えているのかは、やっぱり分からない。
人間は靴を脱ぎ、部屋へ入る。
私はその後ろを歩く。
今日も、分からない。
明日も、きっと分からない。
それでも私は、この人間のそばにいる。
人間が何を考えているのか分からないまま。
そしてたぶん。
人間のほうも、私が何を考えているのかなんて、知らない。
そのことだけは、なぜか少しだけ嬉しかった。




