第4話「凡人が、境界を踏み越える」
ガリッ。
ガリガリッ。
爪が石を削る音。
低く濁った唸り声が、いくつも重なって反響する。
死に戻りを繰り返す中で、何度も聞いた音だ。
腹の奥が、きゅっと縮んだ。
(……また、死ぬのか)
逃げ場のない突き当たり。
噛み砕かれた腕。
喉に食い込んだ牙。
息が潰れる、あの感覚。
全部、まだ身体が覚えている。
視線が、自然と足元に落ちた。
手にした剣は、黒と紫が混じり合う柄を持ち、刀身は異様なほど澄んだ銀色に輝いている。
凡人の俺にでも分かる。――吸い込まれるような、異質な魅力。
だが、剣があったところで俺は戦えない。
この剣で、アビスウルフの群れに抗えるのか。
背後で、空気が揺れた。
獣が踏み込む音。
距離が、一気に詰まる。
指先が、白くなるほど震えた。
(……死にたくない)
それだけじゃない。
(俺がこんな目にあってるのは……
ガイアス……あいつらの所為だ)
胸の奥で、怒りが煮え立つ。
熱い。
苦い。
吐き出したい衝動。
俺は、剣の柄を握り直した。
その瞬間、頭の奥が――きしんだ。
「……覚悟は、できたかえ」
女の声。
最初に脳裏へ響いた時より、ずっと近い。
耳元で囁かれているかのように、生々しい。
「わらわに死を捧げよ。
さらば、何者にも屈さぬ力を与えようぞ」
言葉が、脳に突き刺さる。
逃げるか。
死ぬか。
踏み越えるか。
背後から、獣の荒い息遣い。
生暖かい吐息が、首筋を撫でた。
――もう、考える時間はない。
「……いい」
声は、かすれていた。
「生きるためなら……
俺は、何だってする!!!」
一瞬、世界が静まり返る。
「契約成立じゃ」
次の瞬間。
ドクンッ!!
心臓が、ありえない跳ね方をした。
熱が腹の底から噴き上がり、血が沸騰する。
視界が、赤く染まった。
怖さが――消える。
(……あ?)
思考が、霧の向こうへ遠ざかる。
代わりに込み上げてくる、単純で荒々しい衝動。
――壊せ。
「さあ、往け」
剣が、応えた。
黒と紫の文様が脈打つように柄を覆い、
刃は異様な銀光を放つ。
ズン、と空気が沈む。
アビスウルフが飛びかかってきた。
牙。
爪。
黒い影。
――視界が、歪んだ。
次の瞬間、俺は踏み込んでいた。
ズバァンッ!!
斬った。
考えていない。
型も技術もない。
ただ、腕を振り下ろしただけだ。
なのに。
銀の閃光が走り、
獣の胴は、音もなく裂けた。
血が噴き出す。
生温かい液体が、頬にかかる。
理解が追いつく前に、次。
ガンッ!
ズシャァッ!!
振るたびに、骨が砕ける音。
肉が裂ける感触。
剣は重い。
なのに、信じられないほど軽い。
振るたびに、世界が壊れていく。
恐怖はない。
痛みもない。
あるのは――
もっと、壊せ。
脳裏にこだまする、その命令だけ。
群れが次々と倒れ、
身の危険を悟った一匹が背を向けて逃げ出す。
俺は、追っていた。
足が、勝手に動く。
ドンッ!!
踏み込み。
ズパァンッ!!
首が飛び、
床を転がる音が、やけに大きく響いた。
――静寂。
血の匂い。
鉄と獣が混じった臭気が、鼻を刺す。
気づいた時には、
通路に動くものは、何一つ残っていなかった。
はぁ……
はぁ……
荒い呼吸だけが、耳に残る。
その瞬間、
ズキン、と頭が痛んだ。
(……何体、斬った?)
思い出そうとすると、
そこだけが、ぽっかりと抜け落ちている。
膝が崩れ、俺はその場に座り込んだ。
剣は、ゆっくりと錆び始めている。
「……美味じゃった」
満足そうな声。
「じゃが、忘れるでない。
今の力は、常には使えぬ。
次は……もっと欲しくなるぞ?」
俺は、剣から目を逸らした。
そして、床に転がる獣の死体を見て、
はっきりと思う。
何度も死んで、
何度も戻って。
それでも――
この場所を、生きて越えた。
俺は震える手で、荷物の中にあった布を取り出し、剣を包んで背負った。
生きるために。
そして――
俺に地獄を見せたあいつらに、復讐するために。




