第3話「削られていく選択肢」
走った。
ただ、生き延びるために。
ポーションを飲んで動けるようになったとはいえ、腹の奥がまだ鈍く痛む。
それでも、足は止まらなかった。
(……動ける、動かなきゃ死ぬんだ)
ポーションがくれたのは、それだけだ。
速さでも、力でもない。
「体を動かせる」という、最低限。
背後から、爪が石を叩く音が追ってくる。
鼻を鳴らす音。
低く、湿った唸り。
――闇の狼
俺は三叉の通路を一気に駆け抜け、
反射的に――後ろ、つまり来た道へと走った。
(このまま逃げ切れれば……!)
そう思った瞬間。
前方の闇が、ぬっと動いた。
低い姿勢。
光を弾く、二つの目。
――もう一匹。
(……は?)
背後の気配が、さらに近づく。
爪の音が、重なる。
挟まれた。
前からのみではなく、後ろにもいたのだ。
逃げ場はない。
前も後ろも、魔物。
(嘘だろ……)
考える暇もなく、
牙が迫り、視界が暗転した。
また、三叉路に戻る。
冷たい床。
腹の痛み。
耳に残る、爪の音の記憶。
(……やっぱり)
来た道は、もう使えない。
最初に来た道を引き返せば、別のアビスウルフがいる。
最初から、塞がれていたのだ。
俺は荒い呼吸のまま、即座にポーションを飲み、通路を見渡す。
左。
アビスウルフが来る通路。
右。
ガイアスたちが進んだ通路。
(右は……)
一瞬、思考がそちらに向かう。
右へ進み、ガイアスたちに助けを求める?
――無理だ。
俺を囮にしたことが冒険者ギルドに知られれば、
《銀翼》はただでは済まない。
つまり――
俺に告発する意思がなくても、「消した方が都合がいい」
(行ったら、間違いなく殺される)
感情じゃない。
予想でもない。
これは、判断だ。
右は選べない。
来た道も、選べない。
残るのは――左。
だが。
左からは、必ずアビスウルフが来る。
暗闇に慣れ、音と匂いで追ってくる群れ。
(今のままじゃ……無理だ)
俺は、動かずに周囲を見渡した。
逃げない。
走らない。
どうせ、どこへ行っても死ぬ。
だったら――見る。
床。
壁。
天井。
その時、視界の端に、違和感が引っかかった。
床に、小さな石が転がっている。
(……あれ?)
今まで、何度もこの三叉路で死んだ。
何度も、ここに戻ってきた。
なのに――
今まで、気にも留めなかった。
しゃがみ込み、拾い上げる。
小さな石。
淡く光を返す表面。
(……ライトストーン)
松明の代用品。
冒険者なら、駆け出しでも持っている安物の道具。
(こんなもの……)
そう思いかけて、止まった。
(確か、固いものに強く打ちつけると……)
記憶が、一本に繋がる。
(強い光を放つ)
暗闇に慣れた目。
薄明かりしか知らない魔物。
(……光)
俺は、左の通路を見る。
アビスウルフが来る道。
死の恐怖が迫ってくる道。
でも――
(怯ませるくらいなら……)
周囲を探す。
壁の一部に、露出した魔石。
硬い。
角張っている。
距離。
位置。
一度きり。
(失敗したら、また死ぬ)
それでも、他に選択肢はない。
左の通路から、爪の音が近づいてくる。
俺はアビスウルフをできるだけ引きつけ、
ライトストーンを強く握りしめた。
魔石に向かって――俺は目をつむった状態で全力で叩きつける。
「くらええええッッ!!!!」
キィィィンーーー.......
――閃光。
世界が白く弾け、耳鳴りのように周囲の音が消える。
次の瞬間、
獣の悲鳴が上がった。
混乱した声。
後ずさる気配。
(……効いた)
倒していない。
殺してもいない。
ただ、怯ませただけ。
でも、それでいい。
今だけでいい。
俺は、左の通路へ踏み出した。
初めて――
アビスウルフがきた道を、俺は進んだ。
だが。
しばらくも進まないうちに、
通路は――行き止まりに変わった。
壁。
逃げ場は、ない。
(……は?)
光の効果は、もう切れている。
背後から、再び殺意の気配が近づく。
希望に縋って走り出した先で、圧倒的な絶望感が降りかかる。
胸の奥が、冷え切った。
どこへ行っても死ぬ。
唯一の突破口になりえた左の通路も、行き止まり。
(もう……終わりだ)
そう思った瞬間。
視界の端に、
“それ”があった。
壁に、一本の剣が突き刺さっている。
古びている。
錆びている。
なのに――
妙に、目が離せなかった。
(……なんだ、これ)
俺はほぼ無意識の状態で、それに触れた。
触れた瞬間、
古びていた剣は、黒と紫の鮮やかな柄を現し、
刀身は一切の曇りもない、銀色の輝きを放った。
同時に。
今までの死が、一気に流れ込んでくる。
噛み砕かれる感触。
息が潰れる恐怖。
裏切られた怒り。
繰り返した後悔。
全部。
それを――
誰かが、味わっている感覚。
女の声が、頭の中に響いた。
「……ほう」
低く、楽しげな声。
「お主、随分と上等な“死”を抱えておるのじゃな」
息が止まる。
(……今、喋った?)
「珍しいのう。何度も死んだ経験が、生きている人間に蓄積されておる。こんな味は、初めてじゃ」
剣は、動かない。
だが確かに――
俺が何度も死んだことを、知っていた。




