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第三話:背中の仁義と、闇鍋の誓い


 野崎の偽装手形を巡る一件から、数日が経った。


 香月は、あの日の喫茶店での佐々木との交渉、そして何よりも、大石の背中を忘れることができなかった。

 法律だけでは救えなかった人間を、法の裏側と、組の「仁義」という力で救った。


 それは、香月の理想を打ち砕くと同時に、新たな現実を突きつけた。

 弁護士としての自分は、一体どこへ向かっているのか。


 神原組事務所の仮設事務所で、香月は机に向かっていた。

 

 法律書を広げてはいるものの、文字が頭に入ってこない。

 潮風が窓を揺らし、製鉄所の鈍い金属音が遠くから聞こえてくる。


 その日の夕刻、香月は組長室に呼び出された。


 「香月先生。今晩は、わしらの飯に付き合ってもらう」


 神原組長は、いつもの分厚い革張りの椅子ではなく、小さな囲炉裏を囲む座布団に座っていた。部屋の中央には、大きな土鍋が置かれている。


 大石若頭、そして何人かの若い衆が、すでに囲炉裏を囲んでいた。

 彼らの顔は、昼間の厳しさとは違い、どこか打ち解けた空気を纏っている。


 「先生、こっちへ」


 大石が香月の隣の座布団を指差す。

 香月は少し戸惑いながらも、その場に座った。


 「今日はな、先生。わしらのささやかな宴じゃ。この街の人間は、辛いことばかりじゃけぇ、たまにはこうして、熱い鍋を囲んで憂さを晴らすんじゃ」


 神原組長が言うと、若い衆の一人が鍋の蓋を開けた。


 湯気と共に立ち上る香りは、醤油と出汁、そして何か複雑な具材が混じり合った、力強いものだった。


 「こいつは、わしらの『闇鍋』じゃ。何が入っとるか分からんのが味噌じゃ」


 大石がニヤリと笑った。


 確かに、鍋の中には色々なものがごちゃ混ぜになっている。

 牛すじ、豚バラ、鶏肉、魚の切り身、練り物、そして見たこともないような内臓まで。


 「さあ、先生も遠慮せんで食うてくれ。これが、わしらの力の源じゃ」


 神原組長が、大きなレンゲで香月の小鉢に具材を取り分けた。

 香月は恐る恐る口に運ぶ。


 意外にも、様々な味が渾然一体となり、奥深い旨味となって押し寄せてきた。


 「美味い…」


 香月が呟くと、組長は満足そうに頷いた。


 「この鍋と一緒でな、わしらの仕事も色々なもんが混じっとる。汚いもんも、危ないもんも、そして守るべきもんもな。先生も、もうこの鍋の仲間じゃけぇ」


 その言葉は、香月の胸にずしりと響いた。


 法廷で正義を叫ぶ弁護士としての自分と、この闇鍋のような裏社会の現実が、彼の心の中で混じり合っていく。

 食事中、若い衆の一人が、組長に質問した。


 「親父さん。この前の潮風会の手打ちの時、組長が『正義は金で決まる』言うたじゃろ。あれは、どういうことなんすか?」


 組長は、箸を置き、静かに語り始めた。


 「この街でな、本当に困っとる人間は、法律だけじゃ救われん時があるんじゃ。警察は動かん、裁判は時間がかかる。その間に、人生はぶち壊しになる。そんな時に、わしらの『力』が要るんじゃ。その『力』を使うには、金がいる。人が動き、情報が動き、時には命がけで動く。だから、正義を貫くためにも、金がいる時があるんじゃ」


 香月は、組長の言葉に耳を傾けた。それは、彼の見てきた現実と重なる部分があった。


 貧しい者は、法律の恩恵を受けにくい。

 金を積めなければ、弁護士を雇うことすら難しい。


 「わしらはな、先生。この街の、底辺にいる人間の最後の砦なんじゃ。警察が来ん、役所が動かん。そんな時、わしらが『仁義』を見せて、どうにかするんじゃ。それは、法律じゃ裁けん、人の心の奥底にある問題じゃけぇ」


 組長の言葉は、香月の心に深く突き刺さった。彼の理想とする法律とは異なるが、しかし、確かにそこには「救い」があった。


 その時、部屋の襖が勢いよく開いた。


 「親父さん! 大石の兄貴! 新顔の部屋住まいが、またヘマやらかしやがりました!」


 息を切らして飛び込んできた若い衆が叫んだ。組長の顔から、穏やかな表情が消え、一瞬にして冷徹なものに変わる。


 「何をやった」


 組長の低い声が、部屋の空気を震わせた。


 「それが…組のシマで、勝手に賭場を開きやがって…しかも、よその組のモンまで巻き込んどったんです…」


 若い衆が報告すると、組長の顔はみるみるうちに怒りで赤く染まった。


 「馬鹿もんが…! この呉の仁義を、舐めとるんか…!」


 組長は、囲炉裏の傍らにあった分厚い陶器の灰皿を手に取った。

 その重々しい灰皿が、組長の怒りの重みを物語っている。


 「大石。その部屋住まいを、ここに連れてこい。わしが、この灰皿で、呉の仁義を叩き込んでやる」


 大石は、無言で立ち上がった。


 その背中には、先日の喫茶店で佐々木と対峙した時以上の、凄まじい威圧感が漂っていた。   

 香月は、ただ息を飲んでその光景を見ていた。

 

 彼の知る法律の世界ではありえない、暴力と支配の論理。

 しかし、これがこの街の「仁義」なのだと、彼は理解し始めていた。


 この闇鍋のように、善も悪も、理想も現実も、すべてが混じり合った世界。


 そして、自分もまた、その闇鍋の具材の一つとして、この「法獄の海路」を航海していくのだと。


 数分も経たないうちに、大石は一人の若い衆を襟首を掴んで引きずりながら部屋に戻ってきた。

 男は小柄で、恐怖と羞恥で顔を歪ませている。


 「親父さん、連れてきました」


 大石は乱暴に男を畳の上に突き落とした。

 男は痛みに呻きながらも、すぐに両手をつき、震えながら頭を下げた。


 「す、すみません! 親父さん、本当にすみません!」


 神原組長は、囲炉裏の火に照らされた灰皿を  

 手に持ったまま、無言で男を見下ろしている。その沈黙が、男の、そして部屋全体の恐怖を増幅させた。


 「香月先生」


 組長は突然、香月に話しかけた。

 香月は緊張で背筋が硬直した。


 「先生は、法律をよう知っとる。この馬鹿がやったこと、法律で言やあ、何てことになる?」


 香月は唾を飲み込み、震える声で答えた。


 「常習賭博の罪にあたります。加えて、他所の組との縄張り争いに発展すれば、傷害や、銃刀法違反に及ぶ可能性もあります」


 「ほう。傷害、銃刀法…」


 組長はゆっくりと復唱し、手の中の灰皿をさらに強く握りしめた。


 「この組の、この呉の港のシマを、わしらの血と汗と、そして先生のようにな、法律という厄介な盾で守っとるんじゃ。それを、こんな、ちっぽけな私利私欲のためにぶち壊すとは、どういうことじゃ」


 組長は一歩踏み出し、床に平伏している若い衆の真上に立った。

 香月は、これから起こるであろう光景を直視できず、目を閉じかけた。


 その瞬間、大石若頭が、組長の前に静かに割って入った。


 「親父さん。頭を冷やしてください」


 組長は、怒りに燃えた目で大石を睨みつけた。


 「大石、わしの前に立つ気か!」


 「滅相もございません」


 大石は深々と頭を下げたが、組長の前から退かなかった。


 「ですが、今、手を上げるのは、組のメンツのためになりません。外には先生がおる。そして、この馬鹿はまだ、組の看板を汚しただけで、呉の海路までは、汚しとらん」


 大石は組長に一歩近づき、低い声で耳打ちした。


 「この件、広益会が裏で糸を引いとるかもしれん。ここで、こいつを半殺しにするよりも、先生の法律と、わしらの背中を使って、広益会の尻尾を掴む方が、組の利益になります」


 組長は灰皿を握りしめたまま、数秒間、唸るように沈黙した。

 そして、大きく息を吐き出した。


 「…大石、わしの怒りを鎮めたな。よかろう。先生の顔に免じて、そして、組の今後の仕事に免じて、今日はこの馬鹿の命を預ける」


 組長は、持っていた灰皿を、若い衆の頭の横の畳に、ドン、と音を立てて置いた。

 灰皿は畳にめり込み、その一撃の重みが部屋中に響いた。


 「大石。こいつを連れて行け。そして、広益会との繋がりを徹底的に調べさせろ。それができんかったら、次はわしが、この灰皿で、お前の頭を割る」


 「承知いたしました」


 大石は冷静に答え、若い衆の腕を掴んで部屋から連れ出した。


 部屋には再び、神原組長と香月、そして数人の若い衆だけが残された。

 組長は再び囲炉裏の座布団に座り、疲れたように香月を見た。


 「先生。見たじゃろ。これが、わしらの『仁義』じゃ。暴力と忍耐、そして計算。そして、お前さんの持っとる『法律』という、鉄のナイフが、この街でどう使われるか」


 香月は、先ほど灰皿が叩きつけられた畳の凹みから目を離せなかった。

 あの灰皿は、法律よりも、金よりも、この街で最も重い「力」の象徴だった。


 「親父さん。あの…広益会が本当に裏で動いているとして、私にできることは?」


 組長は口角を上げた。


 その笑みは、闇鍋の熱気のように、香月の心臓を焼いた。


 「先生に頼みたい仕事は、もちろんある。広益会は、法律の盾で身を守る、新しいタイプのヤクザじゃと、大石が言うとる。それに対抗するには、わしらの『力』と、お前さんの『法の檻』が必要じゃ」


 組長は、鍋の残りを香月の小鉢に取り分けた。


 「食え。そして、腹を決めろ。次の仕事はな…」


 組長は、葉巻を燻らせ、深く、低い声で告げた。


 「広益会のシマの一つ、広島の尾道。そこの、表向きは堅気じゃが、裏で広益会に資金を流しとる大手建設会社の社長の弱みを、法的に潰せるよう、探してもらいたい」


 それは、組同士の直接的な抗争ではなく、法律を使い、相手の経済基盤を崩壊させる、冷徹な「経済戦争」だった。




 香月の法律の知識は、今や、呉のヤクザの武器として完全に組み込まれたのだ。


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