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第二話:偽装手形の鉄火場


 『神原興業』の仮設事務所は、香月が初めて訪れた時よりも、さらに湿っぽい空気に満ちていた。

 外は、呉の冬の冷たい雨が降っている。


 香月慎吾は、分厚い法律書を閉じ、組長から預かった古びた灰皿を片付けようとしていた。  


 先日の『手打ち』から一週間。

 彼のスーツは、もう潮風と油、そして隠しきれないタバコの匂いが染みついていた。


 「おい、香月先生! 頼むけぇ、親父さんに顔を貸してもらえんか!」


 突然、扉が荒々しく開けられ、中年の男が飛び込んできた。

 男の名は野崎。


 呉の海岸沿いで小さな鉄工所を営んでいる。    

 顔は土気色に汚れ、着古した作業着は雨で濡れていた。


 組事務所の前に乗りつけるには、あまりにも地味な、この街の「裏」を知らない善良な顔をしていた。


 香月は、野崎をソファに座らせ、熱い茶を淹れた。

 佐伯から教わった「裏の弁護士」としての心得の一つだ。


 相手の緊張を解き、感情を引き出す。


 「野崎さん。親父さんは今、手が離せん。私が神原組の顧問弁護士です。話を伺いましょう」


 野崎は、茶を飲むこともできず、震える手で懐から一枚の紙切れを取り出した。


 「これじゃ... 偽装手形じゃ、先生! うちの工場を担保に、金貸しから三千万借りたが、組のモンに騙されて金額が書き換えられとったんじゃ。利子を引いても、五千万。こんなもん、わしらのような弱小企業が払えるわけ、ないじゃろ!」


 野崎の目に、みるみるうちに涙が溜まっていく。


 「わしは真面目にやっとったんじゃ! ようよう、戦後の復興からここまでやってきた。工場は、わしの、わしの命そのものじゃ。それを取り上げられたら、わしゃどうすりゃええんじゃ...!」


 香月は、手形を受け取った。


 一見しただけでは分からない、巧妙な改ざんだ。しかし、法の知識を持つ者が見れば、野崎が不利になるよう仕組まれた罠だと一目瞭然だった。


 貸し手は、神戸の金融業を隠れ蓑にした「広益会」。


 神原組とは古くから対立する、新興の暴力団だ。彼らは、法と金融の知識を武器に、小さな企業の喉笛を締め上げることで、呉の財産を虎視眈々と狙っていた。


 香月の脳裏に、二つの道が浮かんだ。


 一つは、「法」の道。

 この手形を裁判所に持ち込み、筆跡鑑定と契約時の証拠を突きつけ、偽装手形として無効を訴える。


 法廷で正義は勝つかもしれない。


 しかし、その間、野崎は広益会の連中からの苛烈な「追い込み」に耐えねばならない。

 裁判は長引き、鉄工所は確実に潰される。


 もう一つは、「法獄」の道。


 神原組の力を使い、広益会に対して物理的な「手打ち」を仕掛ける。

 組の力を背景に、偽装の事実を突きつけ、手形を強引に回収する。


 野崎は助かるが、香月は完全に裏社会の代理人となり、法の盾を血で染めることになる。


 香月は、自らの震える手のひらを見た。


 (わしは、何のために弁護士になったんじゃ。法律で、貧しい人間を助けるためじゃなかったんか?)


 だが、前回、神原組長が言った言葉が蘇る。



 「この街で正義ってのはな、誰が、どれだけ、金を積めるかで決まる。法律は、その金額に合わせて形を変える、便利な道具よ」



 香月は、法廷での優雅な勝利よりも、野崎の明日を救うことの方が、今、この場では重要だと悟った。

 そして、その『救済』には、裏の力が必要だ。


 香月は立ち上がり、事務所の奥にある組長室の扉を叩いた。


 組長、神原龍造は、分厚い革張りの椅子に座り、葉巻を燻らせていた。

 その横には、佐伯によく似た顔の、神原組の若頭、大石が控えている。


 大石は全身から静かな威圧感を放っていた。


 香月は、手形と広益会の情報を差し出した。


 「親父さん。この野崎さんの件、法律でやれば三年はかかる。その間に広益会は野崎さんの工場を叩き潰すでしょう。ですが、法律で無効化する証拠は揃っています」


 神原組長は、葉巻をゆっくりと灰皿に置いた。


 「弁護士が、組に何を望む?」


 香月は、深く頭を下げた。

 自分の理想が、砕け散る音を聞いた。


 「広益会が、法廷に出る前に手を引くよう、交渉の場を設けていただきたい。そして、その交渉の『場を仕切る力』を、お借りしたい」


 香月の言いたいことは明確だった。

 ヤクザ同士の『喧嘩』ではなく、組の威圧と、香月が握っている『法律』という武器を組み合わせ、広益会に撤退を強いることだ。


 神原組長は、顔色一つ変えずに、隣の大石に目をやった。


 「大石。広益会の、あの若ぇの…確か名前は佐々木と言ったか。あいつは法の抜け道を使う、新しいタイプのヤクザじゃ。先生の言う通り、法廷に出てこられたら、やりにくい」


 大石が、低い声で答える。


 「親父さん。潮風会の件で先生の腕は分かりました。法律で人を殺す、あんたはええ度胸じゃ。佐々木には、わしから一本、電話を入れます。『呉の昔の仁義』ってやつを教えてやらんといけんのう」


 「仁義、か」


 神原組長は笑った。


 「この鉄くずの街じゃ、仁義ってのは、誰が、先に鉄を打てるかってことだ。大石、先生と行ってやれ。法律と、お前の背中、両方見せつけてやれ」




 その日の夕刻。


 呉港を見下ろす、古びた喫茶店の奥の個室。

 香月は、野崎の弁護士として、大石若頭を伴い、広益会の若手幹部・佐々木と対峙した。


 佐々木は、派手な背広に金の腕時計。


 いかにも、昭和の終わりに台頭し始めた、金に聡い暴力団員だ。


 「やあ、香月先生。先生も泥仕事をするとは、知りませんでしたね。その手形、ちゃんと法律通り、裏金で処理したものです。裁判で勝てるとお思いですか」


 佐々木は嘲笑した。


 香月は冷静に、目の前に手形のコピーと、野崎が契約時に受け取った証拠書類を置いた。


 「佐々木さん。これは、野崎さんの弁護士として用意した、筆跡鑑定の初動調査報告書です。この手形は、法的に無効。しかし、あなたがそれを裁判に持ち込めば、野崎さんの件だけでなく、あなたが過去に行った十数件の類似手口の詐欺も、検察の目に触れることになる」


 香月は佐々木の顔を見た。

 汗が滲んでいる。


 「神原組は、この件に『仁義』を切ると決めた。私は、法律であなたを追い詰める。大石若頭は、あなたを物理的に追い詰める。どちらを選ぶか」


 横で無言だった大石が、タバコの火を消し、冷たい声で言った。


 「佐々木。わしらは、昔からこの呉で、血と鉄を流してきた。神戸の新しいやり方も結構じゃが、ここのルールは、わしら神原組の仁義じゃ。手を引け。野崎の鉄工所は、神原組のシマじゃ」


 大石は、佐々木に組の威圧を、香月は法律の死角を突く。

 佐々木は、神原組との抗争という、最も割に合わない選択を避けたかった。


 数分の沈黙の後、佐々木は屈した。


 「...分かりました。その手形は『回収不能の不良債権』として処理します。二度と野崎には手を出しません。その代わり、先生。この一件、あんたが握った過去の脱税の件は、くれぐれも外には漏らさないでもらおうか」


 取引は成立した。


 野崎の工場は守られ、神原組は面子を守った。そして香月は、法律を完全に裏社会の道具として使いこなした。

 喫茶店を出て、夜の港の潮風を浴びながら、香月は深く息を吐いた。


 「先生。これで、わしらと同じ海路の住人じゃのう」


 大石はそう言って、香月の肩を叩いた。


 その重みは、彼の弁護士としての理想が、完全に砕かれたことを示すようだった。




 彼は今、法律の番人ではない。法獄の海路を進む、光を失った一艘の船となっていた。

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