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第一話:血と鉄の挨拶



 昭和50年代初頭。呉の街は、潮風と油の匂いが混じり合う、生きた鉄の塊だった。

 港湾には巨大なガントリークレーンが空を掻き、製鉄所の高炉からは、この国の熱狂にも似た炎が噴き上がっている。


 香月慎吾は、薄汚れた安物のスーツの上からネクタイを締め直し、助手席の窓越しにその景色を見つめた。

 20代後半。


 つい数年前まで、彼は「法」という名の絶対的な正義を信じていた。


 貧しい生まれから自力で這い上がり、司法試験をパスした時、この世の不条理は全て法律という名の定規で正せると思っていた。

 しかし、現実は違った。


 隣でハンドルを握る佐伯俊夫は、定年を間近に控えたベテラン弁護士だ。

 佐伯の顔は、この呉の潮風と、何十年ものあいだ飲み込んできた裏の「手打ち」の煙で燻されたように、深い皺と諦念に満ちている。


 「緊張しているな、香月」


 佐伯がタバコに火をつけ、灰を窓の外に払った。


 「初めて神原組の事務所へご挨拶に伺います。緊張しない方がおかしいでしょう」


 「神原の親父はな、怖いもんじゃねぇよ。ただの『商人あきんど』だ。この街の鉄、金、そして血の流通を仕切ってきた、古参の商人よ」


 佐伯の言葉には、どこか自嘲にも似た響きがあった。

 佐伯は今日で、弁護士としての看板を下ろす。


 彼の最後の仕事は、この理想に燃える若者を、呉の裏社会の「非公式顧問弁護士」として、神原組長に売り込むことだった。


 「私の仕事は、法の正義を守ることです。非公式の、顧問弁護士ですか」


 香月は絞り出すように言った。

 まだ、彼の心臓には「正義」が残っていた。


 「正義、か。香月。この街で正義ってのはな、誰が、どれだけ、金を積めるかで決まる。法律は、その金額に合わせて形を変える、便利な道具よ」


 佐伯はそう言い捨てると、古びたビルの前で車を停めた。

 看板には『有限会社 神原興業』とだけ書かれている。


 

 事務所に入ると、外の喧騒が嘘のように遠ざかった。

 室内は静寂に包まれ、重い空気が満ちている。


 神原龍造、神原組組長。


 50代半ば。

 肉厚な体躯に、見る者を値踏みするような鋭い眼光。

 彼は高級な座卓を挟んで座り、香月を一瞥した。


 「佐伯先生、よう。あんたの引退は寂しいが、後釜が若ぇのはいいな。未来がある」


 「神原の親父さん。香月はわしより優秀だ。法律にも、何よりもハングリーだ。あんたの役に立つ」


 佐伯は香月の貧しい出自と、這い上がりの精神を、神原組長への売り文句にした。

 香月は、自分の過去が、ヤクザの顧問弁護士という名の汚れ仕事の「箔」として使われていることに、強い屈辱を感じた。


 「ふむ」


 神原組長は卓上に置かれた分厚い封筒を、香月の前に滑らせた。


 「挨拶代わりだ、若いの。仕事を与えてやる」


 封筒の中には、建設現場での労災事故に関する新聞記事の切り抜きと、警察の調書らしき書類が入っていた。


 「うちの若いモンが関わった、建設現場での労災事故だ。高所からの転落。表向きは事故で処理されとる。だがな、これには少し裏がある」


 組長は懐から、一粒の飴玉を取り出し、ゆっくりと口に含んだ。


 「事故を起こした連中の身柄を、穏便に引き渡す。ただし、遺族への『見舞金』と称して、敵対する組の建設利権をこっちに回させる。そして、警察の捜査には、一切の金の流れが見えんよう、法律で完璧に火消しをする」


 組長は、冷たい目で香月の目を見据えた。


 「これは事故じゃねぇ。組内の金銭、シマ争いが絡んだ、立派な『手打ち』だ。若ぇ先生。あんたには、この血生臭い『手打ち』を、法律という名の聖書で清める役目を負ってもらう」


 香月の胸が激しく脈打つ。


 労災事故を利用した利権の強奪。

 警察への工作。法律を悪用した完璧な証拠隠滅の助言。

 それは、彼が信じた弁護士の仕事とは、あまりにもかけ離れた、法の檻の向こう側の世界だった。


 「...引き受けましょう。ただし」


 香月は、震える声で切り出した。


 これが、彼の最初の「手打ち」だった。

 彼はこの瞬間、自らの理想を、呉の潮風に流れる油と血の匂いに混ぜて、飲み込むしかなかった。


 神原組長は、口の中で飴玉を転がしながら、顎を上げた。

 その仕草は、若輩の弁護士が何を言い出すのか、愉しんでいるようにも見えた。


 「ただし、ですか」


 「私は、あなた方にとって『法律の番人』ではありません。『法の盾』です。犯罪を助長する証拠隠滅や、明確な違法行為の教唆はしません。しかし、警察や検察の捜査網の外で、あなた方が『手打ち』と呼ぶ交渉を、法の隙間で最大限に合法的に成立させる方法を提示します。その境界線を、私は守らせていただきます」


 それは、香月が最後に残した、理想家としての微かな矜持だった。

 法の精神そのものではなく、法の条文という「壁」の内側に留まろうとする、必死の抵抗だ。


 佐伯俊夫は、その言葉を聞き、深く息を吐いた。諦めか、あるいは安堵か。

 佐伯は知っている。この街で一度裏社会の仕事を引き受ければ、「壁」などいつか崩れ去る砂山のようなものだと。


 神原組長は、しばらく無言で香月を見つめた。その眼光は、香月の薄っぺらなスーツの奥にある、彼の過去と未来を見透かそうとするように鋭い。


 そして、組長は、ふっと笑った。


 「ええぞ、若ぇ先生。その線引きとやらを、しっかり引いてみろ。だがな、佐伯先生に教わっただろう? この海路では、線を引く者こそ、最も汚れるもんだ」


 組長は分厚い封筒の代金として、札束を包んだ茶封筒を、座卓の上を滑らせた。

 香月は、その重さと匂いに、体が硬直するのを感じた。


 「報酬は、件の事故の『見舞金』の五分だ。まずはその労災事故の件、徹底的に調べろ。警察がどこまで知っているか、遺族が何を望んでいるか。そして、うちのモンが、どう動くべきか、その道筋を法律で舗装してみせろ」




 その夜、香月は事務所に戻ることもできず、呉の港を見下ろす高台のバーでウイスキーを呷っていた。

 手元の書類には、労災事故の被害者が所属する労働組合の抗議文、そして、神原組と敵対する「潮風会」という小さな組が、事故を起こした建設会社の利権に食い込もうとしているという警察の非公式メモが挟まれていた。


 「これは事故じゃねぇ... 立派な『手打ち』だ」


 神原組長の言葉が脳裏にこだまする。


 香月の仕事は、次の三点に集約された。


1. 遺族との示談:法廷闘争ではなく、莫大な「見舞金」で遺族の口を封じ、訴訟そのものを回避する。これにより、警察や行政の追及の余地を潰す。


2. 利権の奪取:建設会社と、利権を狙う潮風会との契約書、権利関係を精査し、潮風会が法的に手出しできない抜け穴を見つけ、神原組に流れる合法的なルートを作る。


3. 警察の火消し:神原組から建設会社、そして遺族へと流れる金の流れを、法律上の『贈与』や『業務委託』に見せかけ、組の関与が表面化しないよう、完璧な偽装を施す。


 「合法的なルート...」


 香月は、グラスの氷を指で回した。


 それは、法律という白い聖書を、汚れた血と金で読み替える作業だ。

 彼はすぐに、その道の第一歩として、佐伯に教えられた老練な税理士に電話をかけた。


 「先生。建設会社の、過去三年の帳簿を徹底的に調べたい。特に『雑費』と『業務委託費』を。そして、絶対に当局に組との接点が見えない送金ルートを作りたいんです」


 税理士は、電話口で何も驚かず、冷めた声で答えた。


 「香月先生。呉で大きなカネが動く時、法律屋と税金屋は常に車の両輪ですよ。ただし、お宅の仕事は『法廷で勝つこと』じゃない。『誰にも法廷に持ち込ませないこと』でしょう? 対価は高いですよ」


 金と法と、そして血。


 香月は、自らの『法の盾』が、実際は『法の抜け道』を作り出すための道具に過ぎないことを、最初の電話で痛感した。




 数日後。


 香月は、神原組の関連企業である『神原興業』の、壁の薄い仮設事務所にいた。

 彼の前には、建設会社の社長と、潮風会の若頭が、互いに威嚇しあうように座っている。


 そして、神原組長の使いとして、佐伯にそっくりな、顔に深い傷を持つ古参のヤクザが、静かに煙草を燻らせていた。


 香月が用意した分厚い書類は、建設会社の契約上の瑕疵、潮風会が利権に手を出した際の過去の脱税の痕跡、そして、遺族への『見舞金』として用意された、贈与税を回避するための複雑なスキームを示していた。


 「社長。この契約書では、御社は潮風会の要求に応じる法的義務はありません。しかし、私はここに、潮風会が過去の脱税で告発されないための、完璧な『火消し』を用意しました」


 香月は、潮風会の若頭に、その書類を滑らせた。それは、組の弱みを握り、同時に助ける、毒と薬を合わせた交渉術だった。


 「その代わり、この建設現場の二次下請けの権利は、全て神原興業へ移譲していただきます。これは法的に正当な『契約変更』です。そして、遺族への『見舞金』は、神原組からの匿名での『寄付』として処理する。警察も検察も、この金と利権の流れに、組の影を掴むことはできません」


 香月は、この時、自分が法律の条文をパズルのピースのように操り、法の精神を嘲笑するような完璧な『手打ち』のシナリオを完成させていることに、深い戦慄を覚えた。


 佐伯の言った通りだ。


 彼は、法獄の海路で、誰よりも汚れた航路を漕ぎ始めている。


 「これが、私の『法の盾』です。誰も傷つかず、法も裁けない。完璧な、血の通わない解決です」


 香月は、この言葉を吐き出した瞬間、自分の胸に残っていた「正義」という名の碇が、音を立てて海底に沈んだのを感じた。

 この日から、若き弁護士、香月慎吾は、呉の街で「血と鉄」を法律で洗浄する、裏仕事師としての道を歩み始めることとなる。




 彼は今、法律の番人ではなく、法獄の海路に漕ぎ出した、一艘の汚れた舟となろうとしていた。

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