【90日目②】あなたと一緒に(きりかside)
今日は12月31日。
実家へ帰省するため乗り込んだ電車の中で、
スマートフォンの通知音が響いた。
ディスプレイを確認すると――。
『小説賞 締め切り』
その単語を目にした瞬間、私はハッとして息を呑む。
そうだ。
今日は優希がずっと憧れていた出版社が開催する、
小説賞の締め切り日だった。
「目標10万文字!」――彼がかつて設定したリマインド通知が、
消されぬまま今日まで生きていたのだ。
――久しぶりに、彼の言葉に触れた。
座席に深く腰掛けているというのに、足元が歪むような感覚がした。
罪悪感が一気に押し寄せ、呼吸すら苦しくなる。
このままスマホを閉じてしまおうと思った。
けれど、自ら傷口を抉るように、私の指はブックマークへと伸びていた。
ずっと目を逸らし続けていた、WEB小説の投稿サイト。
優希はいつもここに小説を投稿していた。
私は「読み専」として彼をフォローしていたが、
別れてからはログインすることを避けていたのだ。
久しぶりに、彼の小説を読み返してみよう。
震える指でログインし、新着通知を開くと――。
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お気に入りユーザーの更新
『90日で小説を1作書き上げるまでの記録!』 古川優希
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目に飛び込んできたのは、見たこともない優希の「新作」だった。
(更新されてる)
あまりの衝撃に、心臓が跳ね上がった。
なぜ、どういうこと、と頭が真っ白になる。
震える指を必死に滑らせ、1日目、2日目、3日目と記事を読み進めた。
(夢でも見ているの?)
けれど、読み進めるほどに確信は深まっていく。
何十作と彼の原稿を読んできた私には、
これが間違いなく彼の文章だと分かった。
そして――彼が綴る「元カノ」が、私であることも。
すべてを読むには時間が足りない。
焦る気持ちで目次だけを追っていると、ある日付で指が止まった。
【76日目】結婚を知った日(12月17日投稿)
再び、心臓を鷲掴みにされるような痛みが走る。
(優希……!)
顔を上げたと同時に、電車が駅に到着した。
私は弾かれたように鞄をひっ掴むと、開いたホームドアの先へ駆け出す。
そして元来た方向へと引き返していく電車に、夢中で飛び乗った。
◆ ◆ ◆
薄暗い病室には、無機質な生命維持装置の音と、
酸素マスクから漏れる微かな呼吸音だけが響いていた。
白いシーツに沈む優希の身体は、枯れ木のように細く、わずかな肉も残っていない。
……彼が意識を失ってから、もうすぐ一年。
医師からは「回復の見込みはない」と宣告されていた。
彼のベッドの脇に置かれた丸椅子を引き寄せ、
私はゆっくりと腰を下ろした。
おそるおそる指に触れようとしたが、
許されないような気がして、手を引っ込める。
規則的に鳴り続ける「ピッ、ピッ」という機械音が、
残酷な命の秒読みのように感じる。
身寄りのない彼のデスクには、花の一輪も置かれていない。
その空っぽの風景が、彼の孤独を際立たせているようで、
胸が張り裂けそうになった。
(この状態で、どうやって小説を?)
パソコンが置かれている様子はない。
私はもう一度スマホを取り出し、ブログを読み返す。
原稿を書いていると思われる場所は、彼の部屋。
(でも、優希の身体はここにある)
改めて目を通し、じっくり読み込むと、
ところどころ浮世離れしたような、不可解な記述がいくつもあった。
『――まあ、僕自身、よくこんな身体で原稿書けるなってびっくりしてますからね』
他人との接触がない。
食事を摂っている様子もない。
曖昧になっていく記憶に、薄れる意識――。
『それが、死にゆく僕が最後に出来ることだから』
ぎゅっとスマホを握りしめる。
(まさか、"幽体"が書いていた?)
そんなことがありえるの?
けれど優希は、一度決めたら諦めない人だ。
その執念が、この肉体を抜け出したのだとしたら……彼なら、やりかねない。
「……本当は、こんなに喋る人だったのね」
じわりと、目尻に熱いものが込み上げる。
私は、作家になりたいという彼の夢を
誰よりも近くで応援していたはずだった。
(こんな姿になってまで、一人で書き続けていたの?)
堪えきれずに溢れた涙が、頬を伝って彼の手の甲を濡らした。
「ごめんね、優希」
2025年1月12日。
あの日――私は彼に、別れを告げた。
15年も共に歩んできたというのに、
私が最後に選んだのは、残酷な裏切りだった。
両親の反対に抗いきれず、
優希が差し出してくれた手から逃げたのだ。
『さようなら』
彼が書いた物語のヒロインのように、冷たく突き放した。
私の言葉に絶望した優希の顔は、今でも脳裏に焼き付いている。
別れ話をした帰り道、彼が車に撥ねられたと聞いた。
不運な事故だと周囲は慰めたけれど、
魂を抜かれたようになった優希が、
はたして正しく足を踏み出せたのか――私には確信が持てなかった。
傷心の私に、親は別の結婚を勧めた。
意気地なしの私は、それを了承することで
"優希を選ばなかった人生"を正しいと思い込もうとした。
でも――。
「断ったよ。全部」
私は、首元の銀のチェーンを指ですくい上げた。
たわんだ鎖の先で、指輪が病室の僅かな光を反射してきらりと輝く。
去年のクリスマスに、彼が申し訳なさそうに贈ってくれた婚約指輪だ。
『きりか
結婚おめでとう
幸せにね』
ブログの最後の文章が、蘇る。
(だめよ。行かないで)
「ねえ、優希。悲恋にしないで」
もう一度、あなたと一緒に、同じ夢が見たい。
やせ細った彼の手に指を絡め、縋るように強く握りしめた。
「次の新作、待ってるよ」
沈黙が支配していた病室で。
繋いだ手のひらの中に、確かな感触が伝わった。
――ひくりと。
文字を綴るかのように。
優希の人差し指が、動いた。




