第4話 相沢美久の猫パニック事件
美久の猫に関する受難の歴史は、まるで年表のように刻まれている。
7歳(小学2年生) 友達の家に遊びに行った時のこと。「うちの猫、超人懐っこいから!」と言われて期待したのに、美久が玄関に入った瞬間、茶トラの猫は階段を駆け上がり、2階の奥の部屋に逃げ込んだ。
扉の隙間から、怯えた目がこちらを見ている。
「あれ?チャチャ、どうしたのかな」
友達の母親も首を傾げる。普段は来客に愛想を振りまく猫だというのに。
リビングで、みんなが交代でチャチャと遊ぶ中、美久は一人でゲームをしていた。『ポケモン金』。手持ちのポケモンは、なぜかネコ系ばかり。
(大丈夫。私は太陽だから)
心の中で繰り返しながら、画面に集中するふり。でも、友達の楽しそうな笑い声が聞こえる度に、胸が締め付けられた。
「美久ちゃん、大丈夫?」
優しい友達の一人——それが千春だった——が気づいてくれた。
「うん!ゲーム楽しい!」
精一杯の笑顔。もう、この頃から笑顔の仮面は完成していた。
「...ごめんね、うちの猫」
「ううん、気にしないで!きっとお昼寝の時間なんだよ」
でも千春は、美久の震える声に気づいていた。そっと隣に座って、一緒にゲームをしてくれた。時々猫の話をしながら、でも決して美久を傷つけないように、言葉を選んで。
その優しさが、美久を救っていた。そして、この日から千春は美久の一番の理解者になった。
13歳(中学2年生) 修学旅行で訪れた「猫島」。瀬戸内海に浮かぶ小さな島で、人口より猫の数が多いことで有名な観光地。
港に船が着いた瞬間から、異変は始まった。
桟橋にいた50匹以上の猫たちが、一斉に逃げ出したのだ。まるで津波警報でも鳴ったかのように、我先にと高台へ避難していく。その光景は、今でも「相沢美久の猫パニック事件」としてクラスメイトの間で語り継がれている。
「すげー!」
「美久、何か変なオーラでも出してる?」
「猫避けスプレーでも撒いた?」
クラスメイトたちは面白がったが、美久の心は千々に乱れていた。
その夜、宿で一人トイレに籠もって泣いた。個室の中で、声を殺して。
(なんで私だけ...)
涙は止まらなかった。洗面台の鏡に映る自分の顔が、醜く歪んで見えた。
でも、翌朝には笑顔を作った。それが、美久の身につけた処世術だった。泣いても、状況は変わらない。なら、笑っていた方がいい。
意外だったのは、クラスメイトたちの反応だった。
「美久、昨日はごめんな」
「笑っちゃって悪かった」
「今度、猫じゃない動物園行こうぜ」
不器用な優しさ。中学生なりの気遣い。美久は、その温かさに救われた。
17歳(高校3年生) 初めて猫カフェに行った日。アルバイトで貯めたお金を握りしめ、期待に胸を膨らませて入店。
「いらっしゃいませ〜!」
店員さんの明るい声。店内は清潔で、キャットタワーやおもちゃが配置され、10匹以上の猫たちがくつろいでいた。
美久が一歩足を踏み入れた瞬間——
まるでドミノ倒しのように、猫たちが動き始めた。一匹がキャットタワーの最上段へ。続いて二匹目、三匹目...あっという間に、すべての猫が美久から最も遠い、天井近くの場所に集結した。
「あ、あの...」
店員さんも呆然としている。こんなことは初めてだという。
結局、入店料を払って中に入ったものの、30分間、美久は猫たちを見上げているだけだった。時々、猫たちもこちらを見下ろす。その目は、警戒と好奇心が入り混じった複雑な色をしていた。
「すみません、今日は猫たちの機嫌が...」
店員さんが申し訳なさそうに返金を申し出た。
「大丈夫です!見られただけでも幸せです!」
明るく答えながら、心の中では別のことを考えていた。
(いつまで「眩しい太陽」でいなきゃいけないんだろう)
でも、その帰り道、思いがけないことが起きた。
「お客様!」
猫カフェの店長が、息を切らせて追いかけてきたのだ。40代くらいの女性で、エプロンにはたくさんの猫の毛がついている。
「はい?」
「あの、もしよければ...また来てください」
「え?」
「今日のことは本当に申し訳なくて。でも、諦めないでほしいんです」
店長の目は真剣だった。
「実は私も、昔は猫に避けられる体質だったんです」
「!本当ですか?」
「はい。でも、時間をかけて、少しずつ距離を縮めていきました。今では、こうして猫カフェを経営するまでになりました」
希望の光が、美久の心に差し込んだ。
「だから、また来てください。今度は...何か対策を考えておきますから」
その言葉に、美久は涙が出そうになった。理解してくれる人がいる。応援してくれる人がいる。それだけで、心が温かくなった。