第3話 記憶の中の祖母
美久の「猫に嫌われる歴史」は長い。
記憶にある最初の事件は5歳の時。1998年6月15日、梅雨の晴れ間。場所は祖母の家の庭。紫陽花が青く咲き誇り、蝸牛がゆっくりと葉の上を這っていた。
「みーちゃん、みーちゃん」
幼い美久は、白い子猫に向かって手を伸ばした。ピンクのワンピースを着て、髪には祖母が結んでくれたリボン。誰が見ても可愛らしい女の子だった。
でも、子猫の反応は——
「フーッ!」
威嚇の声。全身の毛を逆立て、背中を丸めて、小さな牙を剥き出しにする。まるで美久が巨大な肉食獣であるかのように。
「うわあああん!」
美久は泣きながら家に駆け込んだ。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を、祖母が優しく拭いてくれた。
「美久ちゃん、泣かないで」
祖母の手は、洗濯石鹸の匂いがした。皺だらけだけど、温かくて優しい手。
「だって、猫さんが逃げちゃった...」
「そうねえ」
祖母は美久を膝に乗せ、ゆっくりと背中をさすった。縁側から見える庭では、白い子猫が警戒しながらこちらを窺っている。
「美久ちゃんは特別なのよ」
「とくべつ?」
「そう。猫さんたちには眩しすぎるの」
祖母は、美久の頭を優しく撫でながら言った。その手つきには、何か確信めいたものがあった。
「眩しい?」
「太陽みたいに明るすぎて、近づけないの。でもね、いつか雲がかかって、ちょうどいい光になる時が来るわ」
その時は意味が分からなかった。5歳の美久には、祖母の言葉は謎めいた呪文のようだった。でも、祖母の声には不思議な説得力があった。
「ほんとう?」
「本当よ。祖母ちゃんが保証する」
祖母は、懐から小さな鈴を取り出した。古い真鍮製で、表面には複雑な文様が刻まれている。
「これはね、美久ちゃんのお守り」
チリン、と澄んだ音が鳴った。不思議なことに、その音を聞いた途端、庭の子猫が落ち着きを取り戻したように見えた。
(私は太陽なんだ。だから、いつか...)
それ以来、美久は猫に避けられても「眩しいから」と自分に言い聞かせた。悲しみを、希望に変える魔法の言葉。祖母がくれた、心の杖。