追放
世界が……。
こんなにも白く染まることを、俺は初めて知った。
視界を染め上げる白の正体は、猛烈に吹き荒れる風であり、雪だ。
それらは俺の全身を包み込んでおり、この地へ送られると分かって準備した外套の布地など貫通し、圧倒的な冷気でもってこの体から体温を奪っていく。
いや、体温を奪われているなどというのは、あくまで、知識を基にした推測でしかない。
実際に感覚として存在するのは、全身を切り刻まれるような痛みだけであった。
人間というものは、許容量以上の冷気に晒された時、寒さよりも痛みを感じるようにできているのである。
特にそれが酷いのは、耳だ。
全身全霊をかけて――どこへ向かっているかは知らないが――歩いているこの身であるが、ほんの少しだけ余力を手に振り分け、耳へ触れてみる。
果たして、皮と布と綿でぶくぶくに膨れている手袋越しに感触は――得られなかった。
何度触ろうとしても、耳のあるべき箇所を手が素通りしてしまうのだ。
それで、分かった。
はは……凍りついた耳が、そのまま自重でもげ落ちてしまったんだ。
血の通わなくなった末端部というのが、こうまであっけなく脱落してしまうものだということは、初めての発見であり、学びだ。
多分、活かす機会はない。
どうして、こんなことになってしまったのか……。
いや、分かっている。
きっかけは、仕えている貴族家の不正経理を発見してしまったことだ。
もちろん、告発しようなんて気はなかったが、相手は犯罪者だ。
犯罪者というのは、疑う。
見習い文官である俺が、若さゆえの正義感で厄介な行動に出るのではないかと。
だから、奴らは逆に俺が不正経理をしていたことにし、犯罪者の烙印まで押した。
実に手慣れていて、これは初めてじゃないなと思わされたものである。
で、その後は……開拓刑。
我が祖国リフラシアに、古くから存在する独自の刑罰だ。
名前だけ変えてるけど、要するに――流刑。
開拓の名目で犯罪者を送り込み、目論見通りに未開の地へ根付くことができたのなら、そこを王国の一部として併合し、罪も帳消しにするという大変にありがたい刑罰であった。
刑罰といっても、今回この『白き絶壁』開拓に選出されたのは、俺を始め、訳ありの人間ばかりだったけどな。
そうだ。ヴァレン、ライサ、ジン、ブルック……彼らは無事なのだろうか?
背中に槍を突きつけられる形で『白き絶壁』へと追いやられ、気がついた時にはもう吹雪の中だったのである。
この『白き絶壁』という地は、ある境界を越えると、この世のものと思えぬ気象に飲み込まれる魔性の地なのだ。
無事なはず、ないか。
さる探検家の手記によれば、この地は気候のみが敵なのではなく、恐ろしい獣なども生息しており、そいつらは吹雪などものともしないのだという。
人知を超えた猛吹雪と、飢えた獣……。
二段構えの脅威に対し、ただの素人でしかない仲間たちが、生き残れているとは思えない。
いや、そもそも、だ。
俺は今……生きているのか?
視界がきかず、五感のほとんどもまともに働かない。
意識としては、それでもどうにか前へ前へと歩んでいるが、果たして真実を認識しているのか、どうか……。
ひょっとしたら、俺はとっくの昔に倒れ伏しており、ただジタバタとみっともなく、両足を動かしているだけなのではないか?
あるいは、すでに息絶えており、肉体の方はもう、獣にでも食べられており……。
こうして、吹雪の中歩いていると思い込んでいるのは、生前の記憶に引っ張られた霊魂なのではないか?
そのような想いが、脳裏を支配するのだ。
『愚かな者よ。
この氷雪地獄にわざわざ赴き、凍え死のうとしている者よ。
お主、生きたいという意思はあるか?』
頭の中に、ひどく綺麗な女の声が響いてきたのは、その時であった。
ただ、その声は綺麗であっても、おそろしく冷たく――硬質。
いっそ、この身を切り刻んでいる吹雪の方が、まだ温かいのではないかと疑うほどである。
「はは……そりゃ死にたくないさ。
別に俺、自分の意思でこんな所に来たわけじゃないし」
いよいよ、頭がおかしくなったな。
その確信と共に、声へ答えた。
すると、また新たな言葉……。
『ならば、わたしと契約せよ。
さすれば、お主は死すれども死なぬ』
「ああ、それは――いいな。
死なずに済むなら、それが一番だ」
普通、自分の声というものは、頭の中で反響して聞こえるものだが……。
今、そんなものは聞こえない。
ただ、どうやら言葉を吐き出せたのは、間違いないらしい。
その証拠に、またも声が聞こえたのだ。
『契約成立だな』
瞬間……。
視界が開け、吹雪の中に美しい少女が姿を現す。
年の頃は、十代の前半か?
体つきは華奢で、銀色に輝く髪を腰の辺りまで伸ばしている。
顔立ちは、美しく――冷たい。
氷碧色の瞳で見据えられると、動いているのかどうかも分からない心臓に、短剣を突き立てられるような衝撃が走った。
身にまとっているのは、見たこともない様式の衣服……。
ヒラヒラと薄い布を重ね、こんな極寒地獄だというのに生足が露わとなっているそれは、どことなく、呪い師とかが好みそうな仕立てと思える。
それはつまり、うさん臭い格好であるということ……。
なぜなら、この世には、奇跡も魔法もないからだ。
少なくとも、その瞬間まで俺は、そう思っていた。
そう思っている間にも、失ったはずの耳が、猛烈な勢いで再生を果たしていたというのに……。
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