38 彼女の話8
母さんから逃げるように部屋から出た。
あたしはよほどひどい顔をしてたのだろう。外に控えていた黒髪の女性が「どうしたの?」と心配して声をかけてきた。別室に案内され、温かいお茶を飲ませてもらうと少し落ち着いた。
カップに残ったお茶をじっと見つめ、彼女には伝えるべきではないなと思った。彼女にとっては、母さんは良き主人であってほしい。そう思いたかった。
あたしは努めて微笑みながら、「大丈夫だから」と彼女にいった。
彼女は何も言わず、じっとあたしの目をみた。そして「髪が」といって、あたしの乱れた前髪に触れた。
「梳かしますね」
彼女はあたしに断る時間を与えず、すばやく背後にまわって櫛を使い始めた。
静かな部屋に、時計の針の音と櫛が髪をすく音だけが聞こえる。やがて、彼女は櫛を動かす手を止めた。そして、
「お嬢様は私の憧れなんです」と彼女は言った。「私はあなたみたいに美しくなりたかった」と。
あたしは、思わず振り返った。やめて。あたしにはそんな資格はない。
あの日のことに囚われ、弟を守ることに疲れ、笑い方も忘れた。
ようやく、残った家族の絆を作り直そうとした矢先、やはり、あの日に連れ戻される。
もう、うんざり。
苦しい。苦しさで、あたしの顔なんか醜く歪んでいるに違いない。あたしは、あたしの顔が大嫌い。
けれど、振り返ったあたしの目に、彼女はやさしく幸せそうな微笑みを向けた。
「お嬢様にお会いできてよかった」
マンションに戻ると、弟はもう眠っていた。起こさないように、最近起こった事件や事故の新聞記事を調べた。その中に、男性二人が乗った乗用車が、トラックに側面衝突され、年配の男性が死亡し、親族の男性が重傷を負ったと書かれていた。男性の苗字は、父さんの教師だった人と同じだった。
しばらくは、母さんの家を訪れるのを止めた。そのうち、母さんから、一度、弟を連れてきてほしいという連絡が来た。あたしは、できれば断りたかったが、念のために彼の意向を確認した。断るであろうと期待したが、
「行くことにする」と彼は答えた。




