35 彼女の話5
弟は、久しぶりの再会だったのに、鈍い反応しか示さなかった。
母さんは、やさしく弟の名前を呼んだが、彼はすぐ目をそらし、ぼんやりと部屋の豪華な調度品を眺めていた。弟はその時すでに、母さんの変化に気が付いていたのかもしれない。
母さんは少し落胆した様子だったが、気を取り直して、あたしに生活の様子を尋ねた。あたしは、できるだけ順序だてて、今の生活環境について伝えた。護衛はずっと同席していて、一部始終を聞いていたが、話をさえぎることはなかった。
あたしは会話の中で、祖父のことを母さんに伝えるとき、どんな風に呼んでいいかが判らず、思わず、「おじいさま」と呼んだ。
その言葉を聞いたとき、母さんの目に、ほんの一瞬暗い光が宿ったように見えた。それは、あたしの見間違えだったかもしれない。不安に駆られ、あたしは護衛をちらりと見てから視線を戻すと、母さんは、ずっとやさしく微笑んでいた。
帰る時間が来た。次はいつ会えるか判らず、そんな機会はないかもしれない。母さんは護衛に、あたしと弟の写真を取らせてほしいと頼んだ。その程度なら祖父の指示はいらないと思ったのか、護衛は許可した。
母さんが、部屋に一人の少女を呼び、彼女にあたしたちの写真を撮らせた。少女は、いろんな角度から、写真だけでなく動画も撮っていた。
「奥様、こちらでよろしいでしょうか」
少女は、あたしと同じくらいの年で、背丈も同じくらいの高さだった。顔つきは普通としか言いようがなかったが、印象的だったのは、黒く長い髪だった。
母さんは、別れるときにまた、涙を浮かべていた。あたしと弟を抱きしめ、それから名残惜しそうに玄関で見送った。
母さんの横に、あの黒髪の少女が慰めるように寄り添っていた。
あたしは、少女に嫉妬していた。
帰りの車の中で、弟に「また来れるといいね」と話しかけると、ぷいと背中を向けた。会話が途切れ、沈黙が続いたが、やがて弟は
「ぼくは、もう行かない」と小さな声で、呟いた。
「どうして」と問いかけたが、そのまま答えはなかった。




