散歩から逃げ帰る犬の話
子どもの頃、旦那は駄犬を飼っていたことがあるという。
駄犬。
飼い犬に駄目出しするような酷い言い方だが、話を聞いているだけだと、その名称が合う気がしてしまう。本名では本人(本犬)の名誉にかかわりそうなので、以後も申し訳ないが「駄犬」と呼ばせてもらう。
駄犬は、近所の飼い犬が飼い主の知らないうちにお腹が大きくなり、父親不明のまま産んだ仔犬の一匹だったという、いささか残念な出自を持つ。
犬種の分からない中型犬、といったところか。
大好物は「みそ汁ぶっかけご飯」だった。いわゆる「ねこまんま」か。犬の食べ物としてはどうなのだろうか。
一時期、猫とも交流があったそうだ。
一匹の猫が庭に来て、共に遊ぶようになった。ところがある日、キャンキャンという悲鳴が聞こえ、駄犬が猫に馬乗りにされているところを発見してしまったという。
恥ずかしすぎて、助けるのが一瞬遅れた。鼻の辺りには、猫の爪にシャーッと引っかかれた痕があった。
始末に負えないのは、その日からどんな猫を見ても、すっかり怯えるようになってしまったことだ。
散歩のときにも、脆弱さを発揮した。
大型犬に遭った日には、ギャンギャン吠えて怖がった。震えてしがみついてくるし、うるさすぎて近所の目が気になり、その重量に耐えて抱きかかえてやるしかなかった。
雨には滅法弱かった。
水たまりがあると、足先が濡れるのを避けようと、ちょいちょいと足を動かして妙な歩き方をする。三本足程度で済まそうとしているところが滑稽だった。
散歩中に雨が降り出すと、目を離した隙に姿をくらました。
主人を置いて、勝手に家に帰っていたのだった。
引きこもられても困るので、なるべく散歩に連れ出すようにしていたそうだ。
そんな駄犬は、ある日突然いなくなった。
すぐ戻ってくると思ったが、そうではなかった。数日して、かなりの老犬だったことに気づいて、家族で呆然としたという。
数十年たった今の旦那の話しぶりも、しょうがない犬だと語りつつ、その言い方に愛情がちらほら見え隠れする。
当時の家族もきっととても心配したに違いない。
遠い場所で家に帰りたくなるのではないか。大きな犬や猫と鉢合わせて震え上がるのではないか。雨に濡れるようなことはないのか、と。
それでも、とうとう帰ってこなかった。
恋しい家から離れ、怖いものに遭う危険さえ顧みず、どこか静かな場所でその瞳を閉ざしたのだろう。
なぜだか、駄犬の最期は立派だったとしか思えない。
もうひと昔前のことなのに、旦那はよくこの犬の話をします。
「水があまりにも嫌いで、臭くてどうしようもなくなってから、家族総動員で風呂に入れた」とか「車に乗っているとき、何気なく窓を開けたら突然飛びだして、窓に引っかかって宙吊りになった」とか、聞けば聞くほどいろいろ出てくるのです。
今でも旦那の心の中で、変わることなく生きているような気がします……。