発売記念番外編『ローザの誕生日』
「では、実際にやってみましょう。持っている魔力を細く……かつ強固に! 狙いを定めて……貫く! いち!に!さんっ!」
すました顔のシルバーヘアーの教師は、まるでリズムをとるように目の前の分厚い板を水の力でつらぬいた。
プリミスティブ王国で、加護の力を持って生まれた者は十五歳になると学園で魔力のことを深く学ぶ習わしがある。
今日は魔力の形や強度を、イメージでかえる練習をしているようだ。生徒達は思い思いに自分の加護の力を目の前の大きな板にぶつけ、試行錯誤している。
教師は二人ががりで生徒達の様子を見て回っていたが、大柄の筋肉質で、熊のような男にチラリと目をやった。その大柄の男というのは若きベンハルトの姿である。十六歳にしてすでに身長はゆうに190をこえ、鍛えあげた筋肉は制服のシャツを圧迫している。ベンハルトは板を前に呼吸を整え目を閉じ瞑想していた。
「今日は真面目にやっていますね……」
教師はベンハルトを見ながら安堵のつぶやきをこぼした。
「先生! できました!」
生徒の呼ぶ声で教師は明るい顔で向きを変えた。
「あぁ……! さすがフェアド君! キャンベル家は代々コントロールが優秀で……」
教師がフェアドの元へ歩き出したとき、後ろで轟音が響いた。
「!?」
教師が振り向くとベンハルトが真っ二つに割れた分厚い板の前でたたずんでいる。握りしめた拳からパラパラと木くずが落ち、教師はすべてを察した。
「ベンハルトっ!! またあなたは!! どうして真面目にやらないのですか!!」
教師がヒステリックに叫ぶのをベンハルトは不思議そうに見ている。
「真面目にやっているが……魔力っていうのはいわばイメージで使える力だろ? イメージで強弱や形を変えられる。 俺はそのイメージが筋肉にどう作用するのかを確かめたいんだ。俺は魔力より……筋肉を信じているから!!」
教師はさらに顔を赤くして怒り出し、近づいてきたもうひとりの教師がベンハルトの肩をポンと叩いた。
「……ベンハルト君、ちょっとこっちへ来なさい。他のみなは続きを。先生、あとはお願いします」
落ち着きを取り戻した教師はパンパンと手を叩き授業は再開され、ベンハルトは別室へ連れて行かれた。
「はっ! ざまーみろ。あんな筋肉ヤロウさっさと退学にすればいいのに」
フェアドは、連れて行かれるベンハルトの背中と自分の完璧に貫かれた板を見比べて、満足そうににたりと笑った。
ベンハルトの学園での評価は教師からも生徒からも同じ。変わり者、問題児、脳筋。そのすべてが実際に当てはまる。
「あのねぇ、なんで君はいつも真面目にやらないの」
ベンハルトは別室で座らされているが、不服そうな顔でそっぽをむいている。これまで何度も自分は真面目にやっていると答えてもその意見が通ったことはないからだ。
「ここは魔力のことを勉強する学園なんだよ? 筋肉より魔力を磨かないと……あともう少しの辛抱だから。三年生になったらコースはさらに細分化されて騎士の勉強に専念できるから」
「俺はちゃんと魔力を磨いている! 自分の意思と努力で心を磨いているんだ! その心をより確かな力、筋肉に変えたいんだ!」
ベンハルトにとって魔力とは精神の力であり、それを魔法という不確かなものではなく、筋力という自分の確実な努力で増えるもので示したい。その魔力そのものの捉え方が独特で、ベンハルトの言っていることは誰にも理解できなかった。目の前の教師も例外ではなく、はぁとため息をついた。本来なら親を呼び出して指導する流れだが、教師はそれが意味がないことを知っている。ベンハルトの父親は有名な騎士だが、教師達の中で共通されている認識は同じ。
――ロズベルグ家は親子共々変わっている
✣✣✣
ベンハルトは学園の裏手にある森に入った。教師から言い渡された処分はこの森でモスラットと呼ばれる大きなネズミを魔法で百匹駆除してくること。最近このネズミが増えすぎて学園にも現れるようになり被害がでているのでちょうどいいと思ったようだ。ベンハルトは言われたとおり森で次々にモスラットを倒していく。ただし魔法ではなく筋力で。
「よし、こんなものかな」
山積みされたモスラットの前で腕組みをして一息ついたベンハルトは、教師を呼びに戻ろうかと意識を切り替えた。モスラットが踏む落ち葉の音と鳴き声だけに集中していたベンハルトは、そこでやっとか細い声がすることに気がついた。
「あの……あの……すいません……」
「ん?」
ベンハルトがキョロキョロとあたりを見回すが声の主の姿は見えない。かわりに見つけたのは、森には通常ないであろう木製のはしごが地面に落ちている。
ベンハルトは近寄りはしごを持ち上げた。
「あのぅ……すみません。それ木に立てかけてもらえますか?」
声はベンハルトの頭上から聞こえ、その声のするほうに目を向けると、木の上の生い茂る葉の間から女の声がする。大きな葉と、午後の斜めから入る陽射しで姿ははっきりとは見えなかったが、ベンハルトは事態を察知した。
ベンハルトは持っていたはしごを、一番枝が太そうな木の幹の側に立てかけた。
声の主がそろそろと木から降り始めたが、出された足はいつまで経っても空を切り、木の枝にもかからず梯子に届きそうにもない。
「……降りられないのか?」
「いっいえ……! 大丈夫です。 あとはなんとかしますのでもう行ってください……」
さっきより少し降りてきたことでベンハルトははっきりとその人物の姿を認識した。大きく枝葉を伸ばしたルクアと呼ばれる木は小さな黄色い花をたくさんつけていた。その花々からのぞいていたのは明るいハニーブラウンの髪に丸い瞳。ふっくらとした頬はほんのりと赤く染まっている。
歳が同じぐらいの若い令嬢だということがわかった。ベンハルトが見ている間にも令嬢の足は一生懸命次に足をかける木を探しているがまったくひっかからない。
「おい。もうそれ飛び降りたほうが早くないか? 俺が受け止めるから落ちてきたらどうだ?」
ベンハルトは両腕を広げたが木の上の令嬢は青ざめて首をぶんぶんとふった。
「落っ!? 受け止めるなんて! むむむ無理です!! 私太っているので!! ぜったい無理です! いいからもう行っ……」
そう大きく頭を振る令嬢は、確かに普通の令嬢よりはひと回りほどふっくらとしている。大きな身振りにたえかねて令嬢を支えていた枝が根元からぼきりと大きな音をたてて折れた。ベンハルトは難なく受け止め笑った。
「ワハハ、ほら、落ちたほうが早いじゃないか」
驚いて目を丸くしていた令嬢はまたさらに顔色を悪くして身じろいた。
「私っ! 重いから!! はっ早く降ろしてくださいっ!!」
「重い?」
焦って手足をバタつかせる令嬢をきょとんとした顔で見つめるベンハルト。
「そうですっ! 早くっ! 降ろし……きゃあああぁ!」
「重いだって? こんなに高く上がるのに?」
ベンハルトは軽々と令嬢を空高く放り投げた。令嬢の大きな叫び声は森に響き渡り、近くで羽を休めていた鳥たちは一斉に飛び立った。ぎゃあああと最早絶叫ともいえる叫び声ごとベンハルトが再び受け止めて、令嬢の希望通りそっと地面に降ろしたが令嬢はへなへなとその場に座り込んだ。
「なっなっなっ……」
驚きで言葉にならない令嬢は必死で呼吸を整えた。なにがおこったのか理解できず、血の気の引いた顔のまま呆然と目の前の男を見上げた。ベンハルトは悪びれもせず、落ちていた実をいくつか拾い上げまた笑った。
「悪い、ポケットからいっぱいでちゃったな。好きなのか? ルクアの実」
差し出された実を前に、令嬢の顔が今度は一気に赤く染まっていった。
「こっここここれは……ただ……」
なんとか言い訳を並べようと立ち上がった令嬢のポケットからまたひとつルクアの実が転がり落ちた。
令嬢の脳裏には嫌な記憶が一気に浮かんだ。体型をあざ笑う同級生達、蔑む顔をした元婚約者。下を向けば、スレンダーとはとてもいえない自分の身体。ぐっと握りしめたその手もふっくらと肉付きがいい。令嬢は思った。きっとこの親切な人も内心呆れているに違いない。いい歳をした太った令嬢が、ルクアの実を目当てに木をよじ登り、はしごを取り落とし、枝は体重を支えきれず落下――――羞恥で今すぐに消えたくなったがこのままお礼も言わずに立ち去るのは人としてどうなのかと踏み止まった。令嬢が、勇気を振り絞って顔を上げるとベンハルトはすでにルクアの木の前へ移動して木を見上げていた。
「うーん……そうだな……さすがに俺の体重は支えきれないか」
「? あの……」
令嬢がそろそろとベンハルトに近寄ると、ベンハルトは突然雄叫びをあげてルクアの木を揺さぶり始めた。
「えぇっ!? な、なにを……」
令嬢が驚いて声をあげると、頭にこつん、とルクアの実が降ってきた。思わず上を見上げた令嬢は息を呑んだ。令嬢の目に映ったのは、青空一面にルクアの黄色い小さな花が舞う美しい光景。
しかし、心が震えたのもつかの間。舞い上がった大量のルクアの花は雨のように一斉に降り注ぐ。その合間にコツンコツンとルクアの実が落ちてくる。令嬢は逃げ惑うが黄色い雨は容赦なく降り、地面は一瞬で黄色に染まった。それでもベンハルトは木を揺するのを止めない。
「きゃ……きゃーー! アハッアハハハ!」
最初は驚いていた令嬢だったが、降り注ぐ花と実の光景がだんだんと可笑しくなってきて、子どものように駆け回りルクアを拾い集めながら声を出して笑った。
「ふぅ……実はそれほど落ちてこなかったな。あと一週間てとこだ。一週間後に来たらまた俺が……」
木を揺するのをやめてベンハルトが声をかけると、さっきまで楽しそうに笑っていたのに、また赤くなってうつむいている。我に返った令嬢は、自分の振る舞いにまた恥を重ねたと羞恥に耐えていた。
「ハハハッ花がいっぱいついてるぞ」
ベンハルトはお構いなく令嬢に近寄り、髪の毛についたルクアの花をひとつひとつ取り払っていった。令嬢は恥ずかしさと動揺で声も出すことができない。心臓がやたらうるさく跳ね、赤く染まった耳の先まで熱を感じた。お礼、お礼を言わなくちゃと焦っているのに、感覚なんてないはずの髪の毛がざわざわとベンハルトの指先を感じ、思考の邪魔をしている。しかし、ベンハルトの次の言葉に令嬢は一気に全身から血の気が引いた。
「名前は?」
「名前……」
口角がふっと下がり沈黙が流れた。令嬢はベンハルトの指先からぽたりぽたりと足元に落ちて散らばっていくルクアの花を見た。さっきまであんなに鮮やかに見えた黄色が突然色褪せて見える。
「ローザ…………」
なんとか名前を口にしたが家門の名前が続かない。口にすれば目の前の青年は自分が誰かとわかってしまう。ある日突然魔力を失い、女神に見放された縁起の悪い娘として婚約破棄をされ――もうすぐ二十歳をこえるのに嫁ぎ先も見つからず行き遅れている自分の正体を。
ローザという名前にこの特徴ある体型ですでに気づいているかもしれない。そうやって下を向くローザの視界には自分のぷっくりとしたお腹と手が見える。元々小太りだと馬鹿にされていたが、婚約破棄以来、自暴自棄になって暴食した結果さらに丸くなっている。そんな女が木に登ってルクアの実を集めていたなんて、また笑い話が社交界にまわる。娘を心配する優しい両親には申し訳ないがまたしばらく引きこもるしかないと心を決めた。あとは適当にお礼を言って立ち去るだけだ。ローザはなんとか顔をあげた。
「ローザか。いい名だ。俺はベンハルト! じゃあまた一週間後集合な」
ローザはぽかんと口を開けたまま、立ち去るベンハルトを見送るしかなかった。小さくなっていく背中を呆然として見つめていると、大きな熊のような男はまた振り返って大きく手を振った。
ローザは思わずフフッと小さく笑ってすぐにハッとした。
「……笑ったの、いつぶりだろ」
黄色の絨毯を踏みしめると涙が一粒こぼれ落ちた。あんなふうに声を出して笑ったのも久しぶりだったが、涙が出たのも久しぶりだ。婚約破棄からすでに三年。もうとっくに枯れ果てたと思っていた涙が頬を伝う。一週間もあれば流石に自分の正体はわかるだろう。
「私には明日も一週間後もその先もずっと同じ。女神様に見放された私はひっそりと生きていくだけ……」
ローザが小さくつぶやくと、季節を変える強い風が、落ちたルクアの花をブワッと舞い上げた。ちょうど一週間後はローザの二十歳の誕生日だった。
✣✣✣
「はぁ……」
ロズベルグ邸の書斎でフローラがパタリと本を閉じ、感慨深げにため息をつくと呟いた。
「改めて読み直すとお父様とお母様の出会いってステキね。昔はお父様の奇行の印象しかなかったのだけど……」
同じようにそばでベンハルトが書いた本を読んでいたカインがクスリと笑った。
「私が読んでいるこれも父上の奇行だらけだ。母上はよく結婚を決めたよね」
もうすぐフローラとカインの母、ローザの誕生日が来る。親子が揃って墓参りに行く日だ。『私を偲ぶのは誕生日に』と言い残したローザの願いからそうなっている。二人はこうやって母の誕生日が近づくと、ベンハルトが大量に書き残した母の思い出を読み返すのだ。
「ルクアの実、お母様の誕生日までに実をつけるかしら? 今年はルクアの実を使ったパンを焼いて持っていこうかしら……シナモンたっぷり……ルクアの実を使ったヌスシュネッケン……いいかも! 食べたい!」
パンのことを考えて目を輝かせるフローラに、カインは思わず目を細めた。フローラは誰が見てもベンハルトにそっくりだが、ふいにこうやって眩しいほど母の面影を感じる。
「……喜ぶと思うよ。お母様は食べることが大好きだったから。フローラと同じだフフフフフ」
「そういえばどうしてうちにルクアの木がないの? お父様のことだから庭いっぱいに植えそうなのに」
「あぁ、それは……」
カインは言葉を詰まらせた。カインは幼い頃、病床の母を思い同じことを言ったことがある。
✣✣✣
「今年もルクアの花が咲くのを見られるかしら?」
ベッドの中でカインの頭をなでながら力なく笑うローザは、ふっくらとした頬は見る影もなくやつれている。最近は強い薬で眠っていることが増えた。幼いカインですらローザとの別れが近いことを全身で感じ取っていた。現に、寒い日にカインの小さな手を温めた、太陽のように温かかった母のふっくらとした指先は、嘘のように細く冷たい。
「お母様……」
カインは、指で髪を梳くローザの手をとり両手で温めるように重ねた。
「ぜったい見られますよ! お母様のだいすきなお花! ぜったい一緒に見ましょう! お母様っ……一緒に見るって約束してください……お願い……」
ローザは困ったように微笑むだけで頷かなかった。しびれを切らしたカインは、眠るフローラを抱えて立っているベンハルトに縋った。
「……っお父様! ここにいっぱいルクアの木を植えましょう! たくさん! そうだ! 王弟殿下ならきっとすぐにでも満開に……」
ベンハルトは小さく一度首を振りカインの目をじっと見つめるだけだった。
「お父様……!! いつも……僕のお願いならなんだってきいてくれるじゃないか! もう一生頼みごとなんていわないから! お願い……お父様からマティアス様に……っうう……頼んで……うっうっ……」
カインの目からはポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「フフ……カインいいのよ。こっちおいで。また手が冷たくなっちゃった。さっきみたいに温めてくれる?」
ローザが声をかけるとカインは涙を拭ってローザの側に寄りローザの手を握った。
「ありがとう。カインは優しいね。でもね、私はあの場所に生えているあのルクアの木が大好きなのよ」
「じゃあこの前みたいにもう一回みんなであの木に行って……マティアス様に……」
ローザは優しい目で、涙を溜めたカインを見ながら首を振った。
「今無理に花を咲かせたらあの実を糧にしている生き物が困っちゃうと思うな。それに……誰かが無理に実が成るのを早めたら、それ目当てに木によじ登る令嬢と、その令嬢に出会って一週間で求婚する変わった人が出会えないもの」
ローザはイタズラっぽく笑った。カインの目からはまたポタポタと涙が落ちた。ローザはカインを撫でた。この子は優しく、賢い子だ。見た目こそ自分に似ているがきっとこの子にもベンハルトのような強い精神が宿っている。そう確信しながら柔らかな髪に、もうほとんど力の入らない指先を滑らした。
「大丈夫よカイン。お父様と出会ったあの日から……私の心にはずっとルクアの花が満開で、空いっぱいに黄色の花が舞っているの。幸せを感じるたびにたくさん降り注ぐのよ。あなた達が産まれた日は窒息しちゃうぐらいだった。だからお庭にルクアの木は必要ないのよ」
カインを抱き締めて目を閉じたローザに、またたくさんのルクアの花が落ちてくる感覚がした。ローザは死を前になんの憂いもなかった。もう少し子ども達の成長を見たい……という欲はあったが、不安はひとつもない。遺すのは子ども達だけじゃない。ベンハルトがいる。自分を大きな愛で包んでくれたように、子ども達を大きな愛で包むだろう。
「あぁでも……貴方のお父様はよく暴走しちゃうから……そのときはカインがなんとかしてね」
小さなカインはコクリと頷いた。
女神様は見捨ててなどいなかった。私の人生に意味はあった。カインの温もりを感じながらローザは強く思った。
結局ローザはその数週間後、ルクアの花の季節を待たずに、ゆっくりと、小さな火が燃え尽きるように静かに眠った。
✣✣✣
葬儀の日は雲ひとつない青空だった。
「くそったれがぁぁぁぁ!!!」
ベンハルトの怒号が森に響いた。
「なぜだ! なぜ!! なぜ……!!」
地面を叩きつける拳を振り上げるたびに涙が溢れ落ちる。
「ローザ……。嘘だと言ってくれ……」
ローザと出会ったルクアの木がただ静かに葉を揺らしている。その側で大の男が丸くなり咽び泣いた。
むせ返るほどのルクアの香りに包まれながら、静かに眠る妻を先ほど見送ったばかり。胸の奥深くをえぐり取られたかのような感覚が現実感を遠ざけ、ベンハルトはたまらず参列者をかき分けてここへ駆けてきた。すべてが嘘で、満開のルクアの木の上にローザがいるような気がしたからだ。
しかしルクアの花はまだ咲いておらず、ローザの姿はない。棺を埋め尽くしたルクアの花はマティアスに頼んで花を咲かせたものだ。
目を閉じればルクアの木の下で白いドレスにベールをつけたローザが鮮やかに浮かんだ。
二人は結婚式もこのルクアの木の下で挙げた。女神様に見捨てられた縁起の悪い娘の式は出来ないと引き受けてもらえなかったのだ。
ローザの年老いた両親とベンハルトの両親だけの野外の簡素な式。それでもローザは幸せそうな顔で、眩しいほどに笑っていた。ベールやドレスに黄色の小さな花が無数に散らばって、目眩がするほどの美しさだった。あの日感じた至上の幸福が、強く胸を押しつぶすほどの痛みになり、ベンハルトはまた蹲った。
「……ベンハルト」
後ろからゆっくりと近づく人影がベンハルトのすぐ後ろで立ち止まった。
「…………」
ベンハルトは顔を上げなかったが、ローブの独特な衣擦れの音で誰なのかを察した。
「ベンハルト。大切な人を失った傷はもう二度と元には戻らない。だが、いつかその傷を負った自分が今の自分だと受け入れられるときは必ずくる。その痛みは愛の深さ故だ。誇りをもって耐えろ」
「……お節介じじいめ……。いつもここに現れる。本当は大司教じゃなくて老木の化身か何かなのか?」
ベンハルトはゆっくりと立ち上がり大司教と向き合った。
大司教は白のローブに死を慎む紫のストール。ローザの葬儀を行ったのはこの大司教。本来なら新興伯爵家の葬儀を大司教が執り行うことはない。
「無礼もの。口を慎めといつも言っているであろう。誰かさんのおかげで引退が遠のいて……老体に鞭を打ちながら女神様につかえているのにお前と言うやつはまったく……」
「…………」
ベンハルトは黙って大司教の小言に耳を傾けた。小言すら朗々と、祈祷に聞こえる。あの日の小さな野外の結婚式。当日になって現れたのは大司教だった。
二人が結婚式を拒否された話を耳にして、大激怒した大司教が司祭達を一喝し駆けつけたのだ。
『女神様に愛されていない人などこの世に存在しない。この世に生まれたことこそが女神様の祝福なのだ』
私などの祝福をしたら、ご迷惑がかかると式の祈祷を躊躇ったローザに力強く言った大司教の言葉をベンハルトはよく覚えている。ローザと同じ地で同じ年頃に生まれた。自分の努力ではどうにも出来なかった幸運を感じた瞬間だった。ベンハルトが信心深くなった瞬間だ。
「……女神様はローザを誰よりも愛しておられたのだ。本来なら成人することすら難しかっただろう」
突然失った魔力の原因がわかったのはローザがフローラを生んでしばらく経ったころだった。
ある朝ふいに指先に懐かしい感覚がすることに気づいたローザは驚いて指先を見つめた。魔力が戻っている。その瞬間を噛み締める間もなく視界が歪んだ。
——魔力免疫不全
ごく稀に見つかる魔力の回路由来の疾患だ。治療法はなく発症すれば自らの魔力が身体を蝕み機能不全を起こしわずか数年で命を落とす。しかし本来は、魔力が強くなり始める成長期特有の疾患。成人し、子どもまで産んだ例はなかった。
集まった医師と癒し手の神官達は、絶望で声も出せず崩れ落ちたベンハルトに口々に奇跡だと言って女神に感謝をと言った。
「ふん。奇跡なわけあるか」
突然、投げ出された言葉に一同が静まり一斉に視線を向けた。その声の持ち主が一番その台詞から遠い人物だったからだ。驚愕の視線が集まるなか、大司教はゆっくりとベンハルトに近づいた。
「わしは誰よりも長く女神様に仕えてきた。そのわしが言うのだ。女神様は奇跡なんか早々おこさん」
「ちょっ……大司教様! 不用意な発言は……」
「いいかベンハルト。これは奇跡ではない。ローザが無意識で自分の意思の力で魔力を食い止めていたんだ。お前のいう魔力の強さでカインとフローラをこの世に残したんだ。女神様の奇跡じゃない。感謝ならローザにしろ」
項垂れていたベンハルトはぐしゃぐしゃな顔で、歯を食いしばり、前を向いた。
あの日と同じ顔でベンハルトは顔を上げた。
「聞いているのか。あんな逸材をお前は……このまま後継者が現れなかったらと思うとワシの引退はいつに……」
いつの間にかルーカスが教師になった小言に戻っている大司教に、呆れた顔を向けたベンハルトは歩き出した。カインとフローラを抱き締めたくなったのだ。
「後継者? じじいが百まで生きればいいだけじゃないか」
「ふん! こうなったらお前の葬式もワシが祈りの言葉をささげてやろう。くそったれと言ったこと、女神様に言いつけてやるからな」
「じじいこそ! 女神様は奇跡なんて起こさないとケチ呼ばわりしていたじゃないか」
「バカもん! そこまで言ってないだろ!」
ルクアの木が、小競り合いをするふたりを見送った。
✣✣✣
ロズベルグ親子とアルフレッドがローザの墓石に向かうと、すでに墓石の前には人影があった。
「あ! 大司教様だわ! 今年も覚えていてくれたのですね!」
フローラは駆け寄り挨拶をした。大司教はフローラとカインには優しげな笑顔を返したが、ベンハルトには鬼気迫る表情を向けた。
「ベンハルト。わしに何か言うことあるよな? わざとか? わざとなのか? 毎回毎回有力な後継者候補をそそのかしおって……!」
「私は知らん!」
「わしはいつ引退できるのだ!」
「フン。じじいが百二十歳まで生きればいいだけだ」
「お前! 増えとるじゃないか! いい加減ワシを休ませろ」
「ワハハ、女神様がそうしろと言っているんだ。じじいが側にくるのは嫌だからまだ働けってことだろう」
「もう! お父様……また大司教様にそんな口を……お母様が呆れていますよ」
二人のいつもの小競り合いを見て呆れたようにフローラが笑う。
カインが笑いながらルクアの花を墓石に捧げると、ルクアの花びらと、フローラがたっぷり焼いたヌスシュネッケンのシナモンの香りが舞い上がった。
おしまい
たくさんのブクマや評価やリアクションをありがとうございました。
一迅社ノベルスさまより8月4日に発売です。書籍は加筆に加えて書き下ろし番外編「何度でも」「フローラの意外な才能」を収録してもらっています。その他SSについては活動報告にてお知らせしてあります。
コミカライズ企画も進行中です!




