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「お兄様早く!」



「フローラ、そんなに急ぐと転ぶよ」



 逸る気持ちを抑えられないフローラはカインを急かしながら温室へ向かう。



「ちゃんと上手に焼けるでしょうか! フフお兄様! 美味しくてびっくりしますよ! 早く食べてほし……」



 温室についたフローラが上機嫌で話ながら奥へ進むと、思いもよらぬ姿がフローラの目に飛び込んだ。フローラを待ち構えるマティアスの側に立っていたのはクラウスとアッシュ。二人の驚いた顔から、知らされていなかったのは向こうも同じだとフローラにも理解できた。

 驚いて声も出ないフローラの代わりにカインが不機嫌な声でマティアスに詰め寄った。



「どういうことですか?」



「どういうって……協力者を招待しただけだよ」



 マティアスは悪びれもせず肩をすくめた。



「二人共薬草の手配をしてくれたからね。ダメだったかな? 帰らせようか?」



「ダメに決まっ………………」

「い、いいえ! 大丈夫です! クラウス様! こちらへどうぞ!」



「………………」



 フローラは目を輝かせてクラウスの方へ駆け寄った。入学前からずっと憧れていたクラウスとのランチタイム。しかもマティアスの温室はヒロインが入れないフローラにとっての安全な場所。舞い上がらない方が無理な話だった。フローラはニコニコとクラウスを席に誘導し、フローラの嬉しそうな顔を見たカインは諦めたようにため息をついてマティアスをじとりと睨んだ。フローラはクラウスを座らせた後、昼食会の準備を始めるためにマティアスの作業台に移動した。



(クラウス様……本当に手伝ってくれていたんだ……)



 フローラにじわじわと嬉しさが広がる。あのときは償いのためなのかとがっかりしたはずなのに、フローラが実際に感じたのは喜びだった。フローラはクラウスが薬草をどうやって手配したのかを想像する。薬草の本を読む横顔、書類をめくる指、フローラが昔、同じ物を買ってこっそりすり替えた万年筆にクラウスの目線が移り手を伸ばす――――――全てが愛しくて、フローラにとって償いのためだとかはどうでもいい些細なことになった。本物のクラウスをちらりと盗み見ながら幸せな気分を噛み締め鍋に手をかけたところでフローラは急に不安になった。



「カレー……クラウス様のお口に合わなかったらどうしよう……あ、そうだわ」



 フローラは何かを思いついたが、限られた時間の効率を考えてまずは先にナンの準備を始めることにした。生地を分割していくフローラの手元に影が射す。フローラが顔を上げるといつの間にかクラウスが側にいてフローラの作業を見ていた。フローラは高鳴る胸をなだめるために目の前の生地に集中して、分割した生地を伸ばす作業を続けた。



「……それはなんだ?」



「これは……ナンと言ってパンの一種です」



「なぜフローラがパンを?」



「えっと……実はパンを作るのが……趣味でして……」



 フローラは返事の返ってこないクラウスの様子を盗み見て反応を覗った。



「…………私は本当に……何も知らないんだな……」



「クラウス様! 知らないなんて当たり前ですよ!」



 クラウスの沈んだ呟きにフローラが慌てて顔を上げた。



「知らないからこそ知る喜びがあるんです! 知りたいと思った気持ちが大切なのです!」



「……今からでも遅くないのか?」



「勿論です! ナンにも種類があって……粉を変えるとチャパティになりますし……! ナンにもたくさんの種類があります! チーズや蜂蜜でアレンジしても……」



「……なんの話だ」



「ナンの……? ですからナンの……パンのことではなく?」



「…………」



「クッ……!」



 二人の会話に思わず吹き出したのはマティアスだった。



「フフごめん、続けてほしいけどそろそろ釜に火をいれた方がいいんじゃないの?」



「! そうですね! クラウス様! もう少し席でお待ちください」



 フローラは言うやいなやクラウスを席につかせると背を向け、成形した生地が並んだトレーを持って早足で立ち去った。クラウスはフローラを追いかけようと立ち上がったがカインがすっとクラウスとアッシュの前に立ちはだかりそれを許さなかった。



「ここは学園で身分の差はありません。兄として言う。心優しい私の妹は許しているかもしれないが……私は君達のこれまでの仕打ちを許していない。私の許可なくフローラに無闇に近づかないように」



 カインが言い終わっていつもの笑顔を浮かべると、マティアスがおぉ怖いとつぶやいた。



「先生、貴方にも言ってます」



「……どうしてかな? 私は手助けしかしてないと思うけど?」



「私の許可なく無闇に近づくなというところです」



 カインがもう一度にっこり笑ったところで奥からフローラの声が聞こえてきた。



「せんせーい! お砂糖使いまーす!」



 カインがフローラの声の方へ消えていくと、残された三人に微妙な空気が流れた。最初に口を開いたのはクラウスだった。



「……アッシュも……薬草の手配を手伝っていたのか?」



「え!? あぁ、まぁ、流れで頼まれて……俺の国の薬草が必要だったみたいだから……」



 クラウスはアッシュが持っていた本に挟まれたフローラのメモを思い出し、胸が痛みを伴いざわりとした。



(…………? 流感にかかったか?)



「えーっと……ところで……この集まりは一体何? 何をさせる気なんだ?」



 胸の痛みの理由を考え込み、黙り込んだクラウスを目の端で気にしながらアッシュはマティアスに話しかけた。マティアスは取り残された鍋を、フローラの代わりに火をかけたところだった。



「功労者を集めて昼食会をしようと思ってね」



「は? 昼食会? なーんだ。なんか薬の実験台にでもされるのかと思った」



 薬草を集めたメンバーで一体何をするのかと身構えていたアッシュだったが、昼食会と聞いて気が抜けて、椅子にドサリと座り頭の上で手を組んだ。



「君は外だよ」



「は!? 呼んどいてなんでだよ!」



「アッシュには仕事がある。そのために呼んだんだ。フローラの手伝いだ」



「そういうのは早く言えよ……」



 アッシュは立ち上がりフローラとカインを追った。

 外だと言われたので温室の出口に向かったアッシュだったが、出口にたどり着く前にフローラとカインの声が聞こえたのでそちらに向かった。声の方へ近寄るとカインはフローラの代わりに生地を持ち、フローラは何やら果実を摘んでいる。



「これくらいでいいかな! これをお砂糖につけて時間を進めて……」



「おい何してるんだ?」



 アッシュが声をかけフローラに近寄ろうとしたがカインがすっと間に入った。さっきの忠告を思い出したアッシュは気まずそうな顔で大人しくすぐに一歩引いた。



「いや、おっさんにフローラを手伝えって言われたんだけど……」



「え?」



 何も聞かされていないフローラは驚いたがすぐに思い至る。



(もしかして先生……温度は任せろって言ってたの……アッシュの加護の力をあてにしてたの?)



 フローラ達は温室を出てタンドール窯を前にした。



「あの……この窯の下に火をつけて……五百度くらいの高温を保ってほしいのですけど……ご、ごめんなさい……こんなことに力を……」



 フローラは申し訳なさそうに説明したがアッシュはなんてことのない様子で屈んで膝をつくと火をつけた。



「いやいいよ、なんでもするって言っただろ。それで?」



「あとはこの中に生地を押しつけるように貼り付けて生地を焼くのです!」



 フローラは生地を持ち窯に近寄ろうとしたがアッシュが制止した。



「危ないから俺がやる」



「そうだよフローラ、火傷でもしたら大変だ。火の扱いに慣れている人に任せよう」



「おい待て! さすがにそれは貸せよ!」



 アッシュは窯に生地を押しつける道具とナンをひっかける串を片付けようとしたカインから奪った。カインは笑顔のまま小さく舌打ちをしたがアッシュは今までのフローラへの負い目があるので何も言わなかった。フローラはアッシュに火力係をさせた上、ナンを焼かせるなんてと気が咎めたが、すぐにナンの焼ける香ばしい匂いで忘れ去った。アッシュは最初の一枚は中に落として炭にしたが、すぐにコツを掴んだようでナンを焼き上げていった。目を輝かせて見守っていたフローラだったが、さっき砂糖漬けにした果実を思い出した。



「そうだわ! もう少し時間を進めないと!」



「何それ? さっきのやつ?」



 アッシュが汗を拭いながら覗き込む。



「クランベリーです!」



 へーっとひとつ摘もうとしたアッシュだったがフローラはさっと避けた。



「ダメですよ! これはクラウス様のです!」



 フローラは愛しそうにクランベリーを見つめながら加護の力を使って時間を進めた。



「クラウスのこと……諦めたんじゃなかったのか?」



「え? 邪魔はしないって言ったじゃないですか! 諦めたのはクラウス様との結婚だけです! それに……私がクラウス様を好きでい続けることと婚約解消って何か関係あります?」




「は? いやだって……関係あるだろ! ん? 待て……関係ないと言えば関係ない……? うんん?」



 好きならどんなことをしても手に入れたいと思うはずだとアッシュはフローラの言葉の意味が分からず首を捻る。



「そんな顔しなくても本当に邪魔はしませんから! 気を引くためだなんて言わないでくださいね。クラウス様の望むものは無条件でなんだって与えたいんです! だからこれはあげられませんよ」



 手の平いっぱいに砂糖できらめくクランベリーを乗せてフローラは笑った。アッシュはその笑顔を見ながらどうして似ていると思っていたのだろうかと不思議に思った。アッシュはもう、初恋だったはずの娘の顔がはっきりと思い出せない。

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