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「クラウス様! 入学したらクラウス様とやることリストがこんなに増えました!」
フローラがキラキラした瞳でクラウスにノートを広げて見せている。クラウスはチラ、と目をやったがあまりにも細かい字でびっしりと書かれていたため、読むことは放棄することにして代わりに小さく頷き読んでいた本に目を戻した。あのリストを全部叶えたとしても、フローラが望む反応はきっと無感動な自分にはできないだろうなと思うと、憂鬱な気持ちが紙に垂れたインクのようにクラウスの心に染み込んだ。フローラもフローラで読んでもらおうとは思っていなかったようでさっさとノートを自分の手元に戻し次のページを開くと再び高く掲げた。
「じゃ、じゃーん!! これは! 星降祭で着るドレスのデザイン画です!」
クラウスは、ドレスのデザイン画なんてどう返事を返すのが正解なのだろうかと文字を追っていた目線を止めた。どれだけ勉強を重ねてもフローラとの会話の正解がわからない。それでも何か言わなければと顔を上げて、再度フローラに目線をやったが、じゃーんと大袈裟に言ったわりにフローラはとっくに掲げたノートを手元に戻していた。
「パーティーに黒っぽいドレスなんて驚かれるかもしれませんが私はどうしてもクラウス様の髪の色のような夜空の……夜明けのようなドレスが着たいのです」
フローラはデザイン画を指でなぞりながら独り言のように呟いた。
「……夜明け?」
クラウスの髪色は黒だ。夜のようなとか、闇のようなと表現されたことはあるが、夜明けと言われたことはなかったので、クラウスは思わず聞き返した。
「クラウス様の髪の毛は明るい太陽の光に透けると毛先だけ深い青になるんですよ! 夜空と朝の光を混ぜたまるで夜明けのような美しいグラデーションです! 昨日の手紙にも書いたのですが世界一美しい私の大好きな色です!」
フローラはうっとりとしてクラウスを見つめた。
「クラウス様の美しいグラデーションに星を散りばめたドレスを着て星降祭で踊るのが入学したら一番の夢です! フフっ知ってますか? 星降祭でダンスをしたカップルはずっと一緒にいられるというジンクスを」
クラウスはフローラは婚約者なのだからずっと一緒にいるのは決まっているのに何故ジンクスとやらを夢にするのかと疑問に思ったが、自分の色のドレスを着た嬉しそうなフローラを想像するとないに等しい感情が動くのを感じた。それがなんという名前なのかはわからない。心のままフローラの頬にゆっくり手を伸ばした。
しかしその手は空を切りクラウスの意識は覚醒した。
クラウスはゆっくり寝台から起き上がり窓に目をやる。外は漆黒と静寂に塗られていてまだ夜は深いらしい。クラウスはもう一度横になり目を閉じたが眠気が再びやってくることはなかった。
寝直すのを諦めたクラウスは寝室を出て机にむかうと、フローラからの大量の手紙の束からすばやく一通を選び取った。
『クラウス様、夜中や夜明けにふと目覚める日はありませんか? 私はあります。子どもの頃は夜の静けさに不安になって何故か寂しくなっていたのですが、夜空がクラウス様の髪色と同じだと思ってからはふと目覚めたときに夜空を眺めるのが大好きになりました! そうしてクラウス様のことを思いながら夜空を眺めていると白々と夜が明けて、藍色を何層にも重ねたクラウス様の美しい黒に光がさす瞬間の、私が世界で一番大好きな色になるのです』
(フローラの好きな色なんて知らなかった)
クラウスは毎日のようにやってくるフローラの話を聞いていたのでフローラのことはなんでも知っている気がしていた。昨日どこに行って何を食べたとか何を見てどう感じたとか……毎日細かく聞かされていたので緊急性のない手紙の必要性はないと判断していた。
(何故なんの意味もないと思っていたんだろうか。病気のこと、薬学に興味があること、兄との仲、アルフレッドという名、知らないことばかりだ。好きな色でさえも)
目の前の日付順にきっちりと揃えられた手紙の束がクラウスをさらに虚しくさせた。
夢で見た過去の会話から時系列を推測し、大量の手紙の中から効率よく目的の一枚を取り出せても、フローラが望むものを差し出すことができなければ何の意味もない。机からバサバサと手紙の束が落ちていく。
(この行為の方がずっと無意味だ)
クラウスはそう思いながらも手紙を拾い上げ、再び同じように既読未読を分けて日付順に手紙の束を揃えた。
フローラが座らなくなった美しい装飾のソファーが月明かりにポツリと照らされている。それが殺風景な部屋をさらに物悲しいものにさせた。クラウスの席から見る景色を彩っていた、たったひとつの存在を示すように。
クラウスは寝台に戻ったものの晴れない心が何度も深いため息と変わるだけで夢の続きをみることさえ叶わなかった。
(寝るのは諦めて本でも読もう。朝が来たら……たまにはアッシュの朝稽古に付き合ってみようか)
身体を動かせば少しは気が紛れるかもしれない。そう思ったクラウスだったがその朝アッシュが稽古にやってくることはなかった。
クラウスが眠れぬ夜を過ごしている頃、アッシュはこめかみを揉みしだき、うめき声にも似た、声にならない息を吐き出した。
フローラから渡された薬学の本とにらめっこをしていたので、目の疲れが限界に達したのだ。
やはり頭を使うのは性に合わない。そう思って気晴らしに身体でも動かすかと剣に手を伸ばしたところでフローラのメモが視界に入った。薬草の名前がいくつも書いてあり、あちこちに斜線や書き直した跡がある。
『過ちを認め謝罪できる人は愚かではありません』
フローラはアッシュをせめなかった。アッシュはフローラに罵られて楽になりたかった安易な自分の考えに気づいてさらに落ち込んだ。
(フローラが持ちかけたこの提案も俺が引き下がりやすくなるためだったのかも)
アッシュはフローラからのメモを持ち上げ眺めてみたが、これが自分のしたことの罪滅ぼしになるとは到底思えなかった。
(あの日、ちゃんとフローラにクラウスが来られなくなった理由を説明していたら何か変わったんだろうか……あの時はフローラがすぐに倒れたけど伝言を頼むなり……後からでだっていくらでも手段があった)
アッシュはもしこうだったらとあれこれ想像してみたが過ぎた過去をどれだけ考えても自分の愚かさの解像度が上がるだけだけだった。
(今自分にできることだけを考えよう)
アッシュはまた机にむかった。
(効能、咳……か。兄さんが口にしていた薬もこういう薬草からできていたんだろうな)
アッシュは、時折激しく咳こむ兄が薬を飲む姿は何度も見ていたが、それが何からできていたかなんて考えもしなかった。フローラが国によって育つ薬草が違うから手に入りやすい物がかわると言っていたことを思い出し、兄にもっとよい薬草があるのかもしれないと思いついた。そう思うと薬学に少し興味がでてきた。
(フローラはこの薬草を何に使うのだろうか)
本でざっと調べた限りでは、フローラがリストアップした薬草の効能に共通点は見つけられない。
薬草と貴族のお嬢様、ましてやフローラと薬学がまったく結びつかないアッシュは首をひねる。
フローラと薬学について思いを巡らせようとしたアッシュはさっき自分にできることだけを考えようと決めたばかりなのを思い出して留まった。
(協力すると約束したのだからそれをただ全うする。自分に今できる償いはそれぐらいだ)
その日机の上の小さな灯りは、アッシュのグリーンの瞳の中の決意を夜通し照らし続けた。




