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 クラウスは婚約者だと口にしたものの、なんて軽薄な言葉なんだと愕然とした。クラウスが長年恐れていた強い力を持つはずの言葉は、口にした瞬間、跡形もなく消えていくようだった。

 本来なら重い意味を持つ、婚約者という言葉をそうさせたのが自分だということに気づいていながらも、クラウスはそれに縋るしかなかった。

 クラウスは大きな無力感の中、呆然とするフローラの瞳の中にいつもの輝きを探しながら、初めてフローラの瞳を覗き込んだ日のことを思い出した。





「人形王子」「つまらない」「薄気味悪い」「怖い」



 これらは幼い子どもの率直な感想だ。幼いうちはどうしても思ったことを口にしてしまう。もちろんクラウスは何も感じなかったが、隣にいたフローラが激怒して掴みかかったのは数えきれない。歳が上であろうと、体格差があろうと、何人いようがかまわなかった。当然フローラはそのたび払われ、突き飛ばされ。ボロボロになって泣きじゃくるはめになる。



「どうしていつも無謀なことを。君の加護の力では身を守れないだろう?」



「身体が勝手に動くんだもん」



 クラウスはフローラの答えの意味が理解出来なかったが、フローラの目から大粒の涙が次から次へと落ちてくるのでそれ以上追及するのはやめた。その涙をハンカチでおさえながらクラウスはどこが痛むのかと聞いた。



「痛いんじゃない。悔しいだけ。クラウス様はあんな風に言われて怒らないの?」



 クラウスを真っ直ぐ見つめる濃いブルーの瞳からは、なおもはらはらと雫が落ちる。



「ごめん、わからない」



 幼いクラウスは正直に答えた。



「何がくやしいとか、腹が立つとかわからない。だからあの子達が言っていることは概ね正しい。君もつまらない思いをするはずだ」



 フローラは大きな瞳をパチパチさせた。



「クラウス様といてつまらなかったことなんてないわ! 毎日キラキラしてるもの!」



「キラキラって……何が光っているんだ? 魔力か?」



「えぇー? クラウス様の周りがこう……うぅーん上手く説明できない! とにかくクラウス様はそのままでいいんです!」



「………………」



「それに……私がクラウス様のかわりに怒ったり泣いたりするからちょうどいいと思うの! そのたびにクラウス様は私を止めてこうやって涙を拭いてくださいね!」



 幼いクラウスが理解できないままフローラの勢いに押されて頷くと、フローラはにっこりと笑った。フローラの涙はすでに止まっていたが、さっきまで泣いて潤んだ瞳は光を絡みとり、宝石のように輝いていた。その光を見た瞬間、クラウスは妙な感覚に襲われた。自分を包んでいた膜がするりと一枚剥がれ落ち、ほんの少し視界がクリアになったような不思議な感覚だった。


 その日の夜、クラウスは初めて人に婚約者とは何をすればいいのかと聞いた。

 魔力の暴走以来、必要最低限のこと以外は口を開かなくなったクラウスが突然話しかけたので、年若い従者は心臓が跳ね上がったが、なんとか平静を保ち悩んだ末に子どもでもわかるよう簡単な説明をした。



「た、誕生日に贈り物をしたり……一緒にパーティーへ出席したりでしょうか……とにかく仲良く過ごせばよいと思います」



(パーティーはいつも一緒にいるな……じゃあ誕生日プレゼントか)



 それなら簡単にできそうだ。フローラに欲しい物を聞けばいい。そう思いながら少し安堵し眠りについたが、フローラは毎年決まって一緒に過ごす時間が欲しいと言うだけで、自分との時間に価値があるとは思えなかったクラウスは毎年頭を悩ませることになった。



 年齢を重ねてもフローラが変わらぬ態度だったのでクラウスは幼い頃の誓いそのままでいた。かわりに重ねたのはどうやってもフローラと同じ熱量の気持ちを返せないという羨望が混ざった後ろめたさだけ。そのうちクラウスは、いつかフローラは愛想をつかすだろう、きっとそのときも自分はどうせ「そうか」と思うだけだと自分に期待することはやめた。そうしてフローラと、そして自分の僅かな感情から目を背けた。




 いつ顔を向けても一心にクラウスを見つめていたフローラが、背中ばかり見せるようになったのはいつからだろうか。クラウスはいつの間にかフローラの手を掴んでいることに気がつき身体が勝手に動くとはこのことかと思った。



「……君は……私の婚約者だ……」



 クラウスはもう一度そう繰り返すのが精一杯だった。規律、理知、冷静、彼が良しとしてきたどれとも遠く、この世で一番愚かな存在になった気分だった。

 いつも完璧であろうするクラウスを情けない気持ちにさせるのはいつだってフローラだ。疎ましさも、羨望も、名前のわからないこの気持ちも、抑え込んだ人間らしい感情は全部フローラがもたらしたものだ。本来ならいい意味を持たないそれらの感情も、クラウスにとっては自分の人間味を感じられる瞬間だった。

 クラウスは以前医学書を辿りながら感じた自分の中の矛盾をはっきりと自覚した。常に冷静沈着でいて感情に揺れ動かないことを完璧として目指しながらも、それを揺るがすフローラを遠ざけなかった理由を、フローラとの未来が揺らいだこのときになってようやく知る。



(フローラのいない自分に何が残るというのか)



 クラウスはそう思いながらもフローラを繋ぎ止める言葉はまったく浮かばない。クラウス自身がそう思った通りのただの愚かな男はフローラの唇が動くのを待つしかなかった。クラウスのピアスにこめられた緑色の魔力が揺らめいた。






 フローラは掴まれた手首の温度がさらに下がったことでハッとした。

 質問に答えなければ、わかってはいてもフローラはクラウスの質問を正しく処理できなかった。



(君は……私の婚約者って……それっていつまでですか? あと何回婚約者として貴方の前に立てますか?)



 喉まで出かかった問いかけを声にすることはなかった。この期に及んでも確定的な言葉を聞きたくなかったフローラはかわりにキュッと唇を引き結びクラウスの言葉の返事に集中した。



(王都を出ることに驚いているようだけど……まだ具体的に話が決まっていないのに勝手なことをするなということかしら……アッシュからはなんて聞いたんだろう……まさかまだ伝わっていない……?)



 そう迷いながら視線を外すとクラウスの背後には顔色の悪い男が一人。先日のことを消化しきれないうちにフローラの王都を出るという発言を聞いて自分のしでかした事の大きさをさらに突きつけられたアッシュだ。

 冷静に考えればクラウスと婚約破棄をした後のフローラにまともな縁談がくるわけがない。

 アッシュはクラウスとリナリーを引き合わせ、仲良くなる手助けをした。結果フローラは身を引くつもりだしアッシュの思惑通りに事は進んでいる。その後のフローラがどうなるのかなんて、どうせあの父親がなんとかするだろうぐらいの考えで、アッシュはまともに考えてもいなかった。王都を出るほどのことをフローラはしただろうか。そうしむけた自分にそんな権利はあったのだろうか。一気に思考が押し寄せたアッシュは顔面蒼白で身動きひとつ取れずにいた。



(ちょっとちょっと! こういうときにでしゃばるキャラでしょ! いつもみたいにクラウス様を連れていくとかしないと!? 出番だよ!)



 フローラはアッシュの様子を見て益々自分がどう出ればいいのか困惑した。フローラの必死の目配せはアッシュの顔色を悪くさせるだけでまったく伝わらない。

 役に立たないアッシュの代わりに二人の間へ割って入ったのはカインだった。



「王都を出るっていうのは次の長期休みの話ですよ。クラウス様、妹が驚いているので手をお離し下さい」



 カインがフローラの手を引くとクラウスの手は一瞬ぐっと力が入ったが間をあけた後に、そっと離れた。フローラはクラウスの余韻を確かめるように自分の手首を胸元に引き寄せながら、クラウスが自分の言葉を待っているのを感じとった。せっかくさっき避けた核心的な話をしなければならないのだろうかと心がズンと重くなる。

 口を開けば涙が溢れそうなフローラはカインの上手いごまかしに話を合わせることもできなかった。

 重苦しい空気がその場を包んだが、思わぬ人物が口を開いた。



「あの……!」



 ゲームのヒロインであるリナリーが、明るい笑顔で歩み寄る。



「せっかくなので皆さんでランチをご一緒しませんか? お話も長くなりそうですし……! もう休暇の予定が決まっているなんてステキですね!」



 重苦しい空気を読めなかったのか読まなかったのか、突然の驚きの提案でフローラの涙は一瞬でひっこんだ。

 学園生活唯一の気が抜ける時間まで脅かされたフローラはムッとしたがなんとか感情を宥めた。



「あの……お誘いは嬉しいのですが……私達ランチは持参しておりますので……」



「食堂のテラス席でしたら大丈夫ですわ!」



「え!? い、いえ……その……ご迷惑ですし……」



「そんなことありませんわ! ね、クラウス様!」



 食い下がられるとは思わなかったフローラは声に動揺を滲ませた。リナリーはクラウスの側に寄って親しげに呼びかけたが、クラウスはリナリーに目もくれずフローラを見つめている。その姿にリナリーの顔は曇ったが、なんとかこの場を離れようと口を開いたカインの声でリナリーはハッとしてまた笑顔を作った。



「上級生の私がいたんじゃゆっくり話もできないだろうし今日のところは……」



「そんなことはありません! あっごめんなさい……ぜひ二人ご一緒にお話が聞けたらと思って……」



 リナリーはカインの言葉に食い気味で返答してしまった自分に驚き、少し戸惑いながらも引くことができなかった。

 フローラは懇願するような眼差しでもう一度アッシュを見たが、アッシュは今までの自分の行いは棚に上げて、この状況でフローラを誘えるリナリーに顔を引き攣らせていた。



(もうっ! だからこういうときに仕事してよーーーー! ヒロインを守る役目はどうしたの!?)



 リナリーの屈託ない笑顔にフローラは真意が読めず、恐怖すら感じる。



(もしかしてこれが強制力……?)



 ゲーム中食堂で、ヒロインの食事マナーを指摘して嘲笑うイベントがある。クラウスとのランチを楽しみにしていたフローラが、それを諦めてまで食堂を避けていたのはその理由が大きい。

 青ざめていくフローラにクラウスが一歩前に進み声をかけようと口を開いたとき、フローラの背後からガサッと草木の絡む音が聞こえた。



「あぁ、ここにいたんだね」



 予想外の声がしてその場にいた全員が驚いて声の方へ向くと、マティアスが視線に応えるようにヒラヒラと手を振り笑顔で立っていた。



「遅いからむかえに来たよ。行こうか? ほらお兄ちゃんも」



 マティアスはそう言いながらフローラとカインの肩を叩いた。フローラ達にマティアスと約束した覚えはまったくなかったが、この場から立ち去れるのならなんでもいいと藁をもつかむ心境でコクコクと頷くしかなかった。マティアスは戸惑うフローラとカインの肩に手をかけると、クラウスに少し目線をやりニコリと笑うと立ち去ろうとした。



「どこへ行くんです叔父上?」



 クラウスが呼び止めると、マティアスはため息をついてクラウスに向き直った。



「はぁ……学園でその呼び方は止めて欲しいな」



「では先生……その二人とどちらへ? 今はお昼休みですが」



「フフッ……今さら婚約者のお昼休みが気になるのかい? この二人は毎日私の温室で私と一緒にお昼をとっているんだけど? 知らなかったの?」



 マティアスは挑発するようにフローラとカインの肩をぐっと引き寄せ笑顔を浮かべながら言った。

 フローラとカインは思わず目を合わせる。毎日昼食をとっていたのは、裏庭のマティアスの庭園近くではあるが、一緒に昼食をとった覚えは一度もない。二人とも困惑したがカインが小さく頷いたのでフローラは黙って成り行きを見守ることにした。



「二人には私の研究を手伝ってもらっているんだ。だから悪いけど気まぐれな王子様とのランチには付き合えないな〜。さっ行こう」



「………………」



 マティアスは戸惑うフローラとカインを方向転換させると退場を促し背中を押した。



「ごめんね。ちょっと先に歩いてて」



「えっ?!」



 フローラはマティアスを呼び止めようとしたがカインがそれを止めた。



「フローラ、とりあえずここから離れよう」



 フローラはマティアスの向こうのクラウスを見て一瞬迷ったがカインに従うことにした。何故か一緒にランチをしたがるヒロインが視界に入ったからだ。フローラは心の中でクラウスに謝りカインとその場を離れた。



 マティアスは立ち尽くしている三人の所まで歩み寄ると、フローラの気配が遠ざかるのを感じつつ、クラウスを眺めながら言葉を探した。



「叔……」



「先生でしょ?」



 マティアスは口を開いたクラウスを遮り、耳元に視線を外した。緑色に青が混ざり揺れているがまだ緑の方が多い。マティアスはその揺れる緑色、自身の魔力の色を苦々しい思いで見つめた。



「……あの日……幼いお前の暴走を止めるのにちょっと無茶なことをしてしまった責任は感じてはいるけど……強くかかった鎮静効果は弱くなっているはずだよ。そのピアスは本来感情そのものを消す物じゃない。制御をかけているのはクラウス自身じゃないのか?」



「それは………………」



 クラウスは言い淀み言葉に詰まった。表情の変わらないクラウスのかわりにマティアスは一瞬顔を曇らせ浅く唇を噛んでぼそりと呟いた。



「……でも……兄さんが言ってたことはあながち間違いじゃなかったのかも」



「…………? それはどういう……」 



 マティアスはフッと笑って表情を戻すとクラウスの肩にポンと手を置いた。



「思ったことはちゃんと言葉にしないとね。陛下に息子のことに口を出すなってきつく言われてるから私から言えるのはここまでだ」



 マティアスはクラウスの肩から手を離すとフローラとカインの後を追った。

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