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結局フローラは教室の扉を開けることはできなかった。どれだけ自分に呆れようとも目の前の扉を開ければ真っ先にクラウスの姿を追ってしまうのがわかりきっていたからだ。
(今日はお兄様とお昼の約束がなくてよかった……)
生徒会に所属しているカインは、星降祭の準備が始まるため、今日は各運営との顔合わせも兼ねて昼食会がある。フローラは自分が入学したとたんに真面目だったカインが生徒会をサボるようになったと言われるのは困ると、行く気のなかったカインを説得したので、幸か不幸か今日のランチタイムは一人で過ごす予定だった。
兄に泣きつきたい気持ちもあったがそれ以上に心配をかけたくなかったフローラは、そのまま早退の手続きをとり、医務室でしばらく時間を潰してから帰路についた。
フローラはだんだんと冷静になってくると、図書室でのアッシュの悲壮な顔を思い出した。
(いくらファンタジーな世界で……見た目が華やかでも彼は日本でいうと高校生で多感なお年頃だよね……いたいけな思春期の初恋の傷をえぐるなんていくら腹が立っていてもぜったいにしてはいけなかった…………)
しかも相手は隣国の王族でフローラはまだクラウスの婚約者である立場。アッシュにはただでさえ疎まれているのに、外交問題に発展したっておかしくないと思い至り激しい後悔が押し寄せる。
「家族を守る為に円満な婚約解消を目指しているのに何をしているんだろう……」
こんな風に感情のままにいつかゲームのようにヒロインを虐めたり、父親に泣きついたりしてしまうかもしれない。弱気になっていた心はさらに影が射し不安に染まっていった。
家に到着しても気分は立て直せず、暗い気持ちのまま時間だけが経ち、ベンハルトとカインの帰宅の時間を迎えた。
「おお! 私の天使! 帰っていたか! ちょうどそこでカインに会ってな!」
父と兄の顔を見たフローラは一気に不安に呑まれた。ゲームの中の出来事が、まるで今の自分が本当にしでかした過去のことのように思える。
フローラの様子がおかしいことにすぐに気がついたカインはフローラの側に行き声をかけた。
「フローラ、何かあった?」
普段通りにしようと思っていたフローラだったがカインの優しい声に思わず感情を吐露してしまう。
「お兄様……ごめんなさい……私はいつも家族に迷惑ばかり…………」
カインはフローラを椅子に座らせ、うつむくフローラの表情が見えるように、隣には座らずに跪き手を握った。
「フローラ、君の言う迷惑が本当に迷惑なのかは……今フローラがそんな顔をしている理由を聞いてから私が決める」
カインの言葉にフローラは喉がぐっと詰まりさらに自分への嫌悪感が募る。
異変に気付いたベンハルトも慌てて二人に駆け寄った。
「お父様、お兄様……もし今後私のせいで迷惑がかかることがあれば……私のことは気にせず自分の立場を守ると約束してくれませんか」
今のフローラの一番の不安はこれだ。最悪自分のことは自分の責任だと割り切れるが、家族を巻き添えにするのが堪らなく怖い。
「うーん。それは無理じゃないかな」
カインは困ったように笑ってベンハルトの方へチラリと目線をやった。
ベンハルトは仁王立ちで誇らしげに叫んだ。
「フローラ! パパにはフローラを切り捨ててまで守りたいものなんかひとっつもない!」
「お兄様がいるじゃないですか!!」
フローラは思わず大きな声で反論したがベンハルトは眉ひとつ動かさずカインに問う。
「カイン、フローラを見捨てるのと引き換えに保身されて嬉しいか?」
「いいえ、まったく」
カインはベンハルトの方へ振り向きもせずフローラの目を見たまま即答した。
「でも……でも! 明らかに私が間違ったことをしたら!? そのときは」
見開いた目をカインに向けていたベンハルトは、今度はフローラの目をじっと見据えて言った。
「そのときはカインがいる。フローラが間違った道にいこうとすればカインが止めるから大丈夫だ。カインが止めても間違った道を行きたいのならそれは間違った道じゃない。フローラの行きたい道だ。そのときは私が共に行く。何があろうと」
「お父様!」
フローラは非難の声をあげたがそれが無意味なことをフローラはよく知っている。
ベンハルトはすでに何百回と繰り返しているフローラが産まれた日の話を語り出していてフローラの反論は聞いていない。
(だめだ……話にならない。私の破滅が家族の破滅になるのは決定事項なんだわ)
一家で投獄、一家で国外追放、ゲームではたった数行のロズベルグ家の結末がフローラの頭の中を駆け巡る。フローラの不安は解消しそうになかったが何故かじわりと温かい気持ちが広がった。父と兄の深い愛にフローラは泣きたいのか嬉しいのかわからくなってしまった。
「そうだカイン…………! さっきのもう一回やってくれ」
「なんですかいきなり? さっきのとは……」
「いいえまったく。って返事したところだ。あまりの男前さにパパあの瞬間視力がなくなって……もう一度ちゃんと記憶に刻みたいんだ」
「は?」
「瞳孔が一気にバーンてなって眩しくてな。だからもう一回。できれば別アングルで数パターン」
「はぁ……こんなときに何を言ってるんですか。フローラの話が先でしょう」
「…………お兄様、私ももう一度見たいです」
「フローラ!?」
フローラは悩んだ末笑うことに決めた。決めたというよりすでに笑ってしまっていたと言う方が正しい。投獄や処刑はぜったいに避けなければならないが、国外追放や財産没収ぐらいなら案外楽しくやっていけそうなことに気付いたからだ。
(私の破滅が家族の破滅になるのなら逆もそうだよね)
フローラは自分と、そして家族のために心を奮い立たせた。
次の日の朝、いつものように時間ギリギリの登校したフローラは、アッシュからの追求を避けるため、教室の近くで教師を待ち構えて教師と一緒に中へ入った。
(これなら遅刻じゃないしすぐ授業が始まるからアッシュに絡まれるのを避けられる!)
そう思いながらフローラが恐る恐る教室に入るとすぐにアッシュと目が合った。思わず緊張で身を固くしたフローラだったが、合わせられた目はすぐに弱々しく伏せられたのでフローラは拍子抜けした。その様子に怒りをまったく感じなかったので少なくとも学園生活は続けられそうだと胸を撫で下ろしながら、次に目が合ったクラウスに軽く礼をして席についた。
(……? クラウス様……今日はなんだか…………)
フローラはクラウスの様子が気にはなったが昨日のアッシュとのことが気がかりで思考はすぐにアッシュへ戻った。
(念には念を入れないと。何故あんなことを言ったのか詰められても答えようがないし)
何か言いたげにフローラの方へ目を向けて立ちあがるクラウスとアッシュを見ないふりしてフローラはいつもより素早く退出するのを徹底した。
すでに婚約の見直しについてアッシュがクラウスに話をしているかもしれないと思うと、毎日の密かな楽しみだったクラウスとの定例になった朝の挨拶も、観察も、今は辛いだけだった。
(クラウス様のおかしな様子……やっぱりもうアッシュから聞いたのかもしれない……でもこれで邪魔するつもりはないと伝わったよね……)
フローラは落ち込みそうな気持ちをこれで円満な婚約解消に一歩近づいたと無理やり自分を納得させながらカインと落ち合うために中庭へむかった。
カインは今日も少し遅くなるようなので待ち合わせを教室ではなくフローラ達の棟と上級生の棟の中間地点の中庭にしていた。
この中庭は教室のある建物から少し離れた食堂へむかう外廊下に面していて、生徒達は通りすぎるだけで中庭にはあまり目を向けない。ポツポツとベンチが置かれていてフローラが一人で待つには都合がよかった。フローラは一番目立たなさそうなベンチを選び、サンドイッチの包みを取り出し中身が潰れていないかを確認した。
(今日はお兄様の食べる時間があんまりないかもしれないから食べやすい柔らかいパンにしたんだよね)
フローラが少し気を緩ませたのもつかの間、人を馬鹿にした嫌な笑い声が聞こえた。その声は足音と共にこちらに近づいてくる。
「あーら!? こんな所にお独りでどうしたのかしらぁ!」
わざとらしく大きな声と身ぶりで話しかけてきたのはクラウスの婚約者の最有力候補だった令嬢だった。
取り巻きが二人クスクスと笑いながら後に続いている。
「惨めねぇ! ぜんっぜん見かけないと思ったらこんな所にお独りで!?」
舞台女優の演技のような話ぶりに、呆気にとられたフローラは思わずまじまじと眺めてしまった。
(あれ……? あの二人)
後ろの二人がゲームの中では一緒にヒロインを虐めていたフローラの取り巻きだったことに気付く。フローラのクラスが変わったことでゲームの中の設定が変化したことにフローラは少し希望を見出した。ゲームの強制力が存在するかどうかもフローラを不安にさせている一因だ。
「……こ、声も出ないようね!? 最近大人しいようだけどようやくご自分の立場を理解したのかしら!?」
思った反応のないフローラの様子に、少し動揺を滲ませながらも捲し立てる姿を見てフローラはようやく怒らせたいのかと察した。
(そうだった。これが彼女のいつものやり方だ)
フローラをわざと煽り、逆上させて騒ぎをおこさせる。こんな安っぽい挑発に毎回毎回乗っていたのかと思うとフローラは頭が痛くなった。クラウスのことになると本当に何も見えなくなっていたんだと思い知り深い溜息しか出ない。
ただでさえ昨日のことで気持ちに余裕のないフローラは面倒に感じた。
「はぁ…………」
「フローラ、待たせたね」
さて、この場をどうしたものか、と一息吐き出したところで、カインが素晴らしく美しい笑顔を張り付けて登場した。
「やぁお友達かい? 私も同席していいかな? さ、私に構わず話を続けて? 惨めって? 誰の話なのかな? えーっと貴女は確かエーベル家の……」
カインが言い終わらぬうちに彼女達はさっと顔を伏せそそくさと退場したのでその姿にフローラは少し笑ってしまう。
「フローラ遅くなってすまない。大丈夫だったかい?」
カインが心配そうにフローラの顔を覗き込む。
「いえ、大丈夫ですわ。彼女達はいつもああなので慣れっこです! それに王都を出たらもう会うこともないと思うと何を言われようと何とも思いませんね!」
それは本心だった。それに元々フローラはクラウスのことしか頭になく、友達を作ろうという発想もなく成長してきたので一人で惨めだと言われてもピンとこない。
フローラの自然な笑顔を見て安心したカインはフローラの頭をポンとした後に優しく微笑んだ。
「それならいいんだ。もう少し奥に移動しようか。さー今日は何かな?」
カインはフローラが持っていたランチセットを受け取ると歩き出した。フローラは嬉しくなって今日のサンドイッチの説明をしようとカインの横に並ぼうとしたところ、突然誰かに手首を掴まれて驚いた。
「王都を出るってどういうことだ」
掴まれた手から振動が伝わってくるような、低く、静かでよく通るその声は、耳に入った瞬間、反射のように全ての五感を攫う。
フローラの心はその姿を見ずにして震えた。フローラはその震えが驚きからなのか悲しみなのか愛しさなのかもう自分でもわからなかった。
「フローラ、君は私の婚約者だ」
掴まれた手首の温度が下がるのを感じながらフローラはゆっくりと振り返りクラウスを見上げた。
(ストーカー失格だわ……どんなに表情が変わらなくてもクラウス様の機微には敏感なつもりだったのに……)
見上げたクラウスの瞳にはフローラが今まで見たことのない色が揺れていて、フローラはいつものように上手く感情を読み取れずショックで呆然とするしかなかった。




