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「あぁぁぁぁぁ帰りたくないよ……」



 フローラは、朝から大きなため息が止まらない。

 書類の提出や健康診断、学力や魔力の検査など、入学前の手続きが色々と控えているため、家に戻る日はフローラが思うよりもずっと早くやってきた。



「ほらフローラ。早く荷造り終わらせないとアルフレッドが待っているよ?」



 自分の準備をとっくに終えたカインが、優しくフローラを促したが、アルフレッドの名前を聞いてフローラはさらに寂しさを募らせた。

 本当は一緒に帰ろうと頼みたかったが、先代から仕えているアルフレッドの、ここへの思い入れを知っているので言い出すことはできない。



「また週末一緒に来よう。すぐ会える距離なんだからそんな顔する必要ないよ。家でもパン作りができるようになったしね」



 ベンハルトは最初こそピリピリとキッチンをうろつき、フローラが動くたびに悲鳴をあげていたが、段々と慣れてきたようで、徐々に落ち着きを取り戻していった。

 ベンハルトは、フローラのために安全なキッチンの整備をすると言って、数日前に自宅へ戻っている。



 ようやくフローラはノロノロと動き出した。

 自分を憂鬱にさせているのが、別れの寂しさだけでないことに気づいたからだ。

 クラウスと距離を置いて、大好きなパン作りや勉強に打ち込み、かなり心も落ち着いたように思う。

 それでも入学すれば、毎日クラウスと顔を合わせる。

 フローラは自信がなかった。

 クラウスを前にしても気持ちを抑えられるのか、実際にクラウスとヒロインが一緒にいるところを見て平静を保てるのか、ゲームの強制力が働いて自分の意思とは関係なく行動してしまうのではないか。

 不安はつきなかった。



「…………ククッ」



 フローラが暗い気持ちで荷物をまとめていると、カインが急に肩を震わせた。



「? どうかされましたか?」



「いや、『川でバーベキュー』のことを思い出して……クックックッ」



 ベンハルトの休暇中、親子はたくさんの時間を過ごした。絶対的な味方でいてくれる人達と過ごす時間は、フローラにとってどれも幸せなひと時となった。

 釣った魚をその場で焼いて食べる、『川でバーベキュー』もそのひとつ。カインはあのとき笑っていたが、ちゃんと覚えていて叶えてくれた。

 フローラは釣りも初めてで、前世でやってみたかったバーベキューで直火パンができると、心躍らせた。

 前世では家族を早くに亡くし、パンの修行ばかりで交友関係が狭かったので、アウトドアは経験がなかったのだ。

 横で火の粉に目を光らせるベンハルトが気にはなったが、アルフレッドが火の加減を調節してくれるので、串に巻いたパンを直接焼く方法も、フライパンで焼く方法も、どちらもいい具合にふっくらと焼けた。

 しかし釣りの方はカインが許さなかった。



「フローラ、川は危険だからね。足だけつけようなんてこともぜったい思っちゃいけないよ」



 釣竿どころか川に近づくことも許さないカイン。その横で深く頷くベンハルト。



(なんだかお兄様も過保護になってきてない? 私も釣りをやってみたいのに……)



 フローラは不満を顔に出したがカインは取り合わず、釣竿を握って川辺に歩き出した。

 それを見ていたベンハルトは、突然不安に駆られ、猛然と走り出しカインを追い越すと、ものすごい勢いでザブザブと川に入っていった。



「お、お父様!?」



 フローラはぎょっとして声をあげたがベンハルトはどんどんと進んでいく。



「カインっ!! パパがこうやって! 下流に待機してるから!! カインは安心して釣りをしなさい!! 万が一流されてもパパが受け止っ! うわっ!!」



 急に水底が深くなったのだろう、バランスを崩したベンハルトは川の流れに足をとられて転倒し、そのまま一気に流れに身をのまれた。



「…………あのように、川は一歩先が突然深くなって成人男性でもあっという間に流されるからね。ぜったい近づいてはいけないよ」



 カインは振り返り、にっこりとフローラに忠告したがその間にもベンハルトは流されていく。



「カイーンっ!! カイッカイン!! うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ………………! ―――――――!」



 川の流れは思いの外速く、ベンハルトの絶叫が遠ざかっていった。






「あの後、びしょ濡れで魚を焼いていた父上面白かったなぁ……フフフ」



「笑い事じゃありませんよ! 私本当に驚いたんですから!」



 そう言いつつもフローラの顔もだんだんとニヤけてしまう。

 カインに気づかれないように、握った手を頬に押し付けて揉みしだく。



(さっきまで落ち込んでいたはずなのに笑えるなんて)



 フローラは不思議に思う。

 どんなに落ち込んでいても、こうやって家族の愛がじんわりと染み入り心を温かくする。ここへきて何度も経験した。

 フローラは世間体なんてどうでもいいと言ってくれたベンハルトとカインの言葉を思い出す。

 前世を思い出して改心はしたが、クラウスを追いかけることだけに時間を費やして、我儘に過ごした時間の方がまだ圧倒的に多い。それなのにどうしてこんなに寄り添ってくれるのだろうか。

 前世を思い出す前は当然だと思っていた愛情が、その存在に気づくだけで特別なものとなりフローラの心を温かくした。



(ゲームの中のフローラもそれに気づいていたらきっとあんな風に暴走していかなかったのに……)



 これから何があってもこの時間が心の支えになるだろう。



(うん、大丈夫……無理に諦めないって決めたじゃない。学園ではクラウス様のスチル見放題! 密かにクラウス様を思いながら、勉強をがんばって手に職をつけないと!)



 今なら心穏やかに、クラウスとヒロインを見られるような気がしたフローラは、未来が少し明るく感じた。

 玄関ホールに向かうフローラの足取りは軽かった。

 それでもいつもとかわらないニコニコ顔で見送りに立つアルフレッドの顔を見ると、また切ない思いが込み上げる。



「さみしいわ……」



「またいつでも会えますよお嬢様」



 そう言いながらアルフレッドはフローラに小さな封筒を渡した。

 封筒の中には、かわいらしい花のモチーフがあしらわれた織物の栞が入っていた。



「この地域で採れる花を使って染めた物です。市場でお土産物として売っている物なので大したものではないのですがよかったら学園で使ってください」



「ありがとう! とってもかわいい! 大切に使わせてもらうわね」



 フローラは思わずアルフレッドをぎゅっと抱き締めた。いつも止めに入るカインも今日は黙認している。



「フローラ。私からも入学祝いがあるんだけど受け取ってくれるかな?」



 どこに隠し持っていたのか、カインがいつの間にか小さな箱を持っていて、フローラの前に差し出した。

 そっと箱をあけると淡いブルーの花の形を模した髪飾りが入っていた。

 クラウスを諦めようと決めたきっかけになった髪飾りの話を、気に留めていたのだろう。

 以前のフローラは原色を好んでいたが、この淡い色合いは前世を思い出してから好きになった色だ。

 フローラは、前世と今の好みが合わさった髪飾りに感激してうまく言葉がでない。その代わりに次はカインをぎゅっと抱き締めた。



(私はこれをつけて真面目に学園に通おう。あの青い髪飾りの愚かな悪役令嬢はもうどこにもいないのだから)








 入学の準備に追われて慌しく日々は過ぎ、いよいよ入学式の日。

 フローラは憂鬱な気持ちで目覚めたものの、新しい制服に、カインからもらった髪飾りをつけると、それなりに浮ついた気持ちになった。

 しかし式が始まるとフローラは早々に絶望に打ちのめされた。

 新入生代表の挨拶を淡々と述べるクラウスを、一目見るなり気づいてしまったのだ。

 まだクラウスが大好きで大好きで仕方ないことに。

 離れて確かに気持ちは落ち着いていたが、時間をかけてなだめていた心は容易く一瞬で引き戻された。

 うつ向いてその姿を見ないようにしても、耳が、髪が、指先が、細胞全部がクラウスを意識して、ザワザワとしているようだった。

 今すぐ駆け寄って大好きだと言いたい。

 本当にもうダメなのだろうか。カインと仲良くなれたように、クラウスともやり直せないだろうか。前のように困らせるようなことはしない自信もある。フローラは微かに希望を見出だしていたが、うつ向いたまま顔をあげることができなかった。



(式が終わったら挨拶だけでも……挨拶ぐらいなら……許されるよね)



 そんなフローラをクラウスは壇上に上がってすぐに見つけていた。

 顔色が悪くずっとうつ向いたままで、やはりまだ具合が悪いのだろうか。とクラウスはわずかに眉をひそめた。そのまま挨拶を終えて席についてもフローラが顔をあげることはなかった。


 クラウスがフローラに目を向けるとき、フローラはいつどこに居ても、一心にクラウスを見つめていた。

 なのでクラウスがフローラに目をやると必ずフローラと目が合う。

 そうして目が合うと、フローラの瞳は宝石のように輝きだし、本当に嬉しそうに頬を緩める。



(瞳孔が開き、頬が紅潮する。あれが人を好きになるという感情なのだろう)



 同じ気持ちを返せない。それがいつもクラウスを後ろめたくさせた。

 自分はやはり感情が乏しい欠陥品なのだと思い知らされているようで、愛情がこもったその真っ直ぐな瞳を向けられると、どうにも落ち着かない気分になるのだ。

 しかし、当たり前に向けられていた視線が、いざなくなってみても同じような気持ちになっている。

 クラウスはそれを、病気の具合が気になっているのだろうと結論づけて、式が終わったら声をかけてみようと自分を納得させた。きっとフローラも挨拶に来るだろうから。



「クラウス様!」



 しかし式が終わり、フローラの元へ行こうと立ち上がったクラウスに声をかけたのは、フローラではなくゲームのヒロイン、リナリーだった。

 リナリーはぎこちなく慣れない正式の礼を取ろうとしたがクラウスは制止した。



「ここは学園だから身分は関係ない」



 リナリーはほっとして笑顔を見せた。



「知り合いがいなくて不安で……会えてよかったです! よかったら仲良くしてください!」



 屈託のない笑顔を向けるリナリー。

 クラウスはフローラが気になり、すぐにでも立ち去りたかったが、アッシュのことを思い出し、アッシュのために無下にはできないなとリナリーに向き合った。




 その一方、クラウスに一声だけでもとクラウスの姿を追ったフローラは、その見覚えのあるシーンを前にして、わずかに抱いた希望は霧散し、呆然と立ち尽くしていた。

 愛らしいヒロインが今まさに、クラウスと再会し見つめ合っている。

 フローラはその光景を見ながら、一気に冷えた指先を、カインがくれた髪飾りへやった。

 余りに完璧なスチルの再現に、思わず自分も登場人物の一部になったのかと錯覚してしまう。

 ゲームではここで颯爽と二人に割って入る華麗なる悪役令嬢登場シーンだったが、震える指でたどった花弁の感触があの青いリボンのゲームのフローラじゃないことを思い出させてくれた。



(誕生日の日……あの髪飾りを見て自分に少しも気持ちがないって嫌というほど思い知ったのに、どうしてまだチャンスがあると思ってしまったんだろう)



 自分で自分を自嘲しながらフローラはゆっくりと二人の世界から後退し、多くの生徒達の流れに戻っていった。

 叶うこともなければ諦めることもできないこの思いはどこにいくのだろうか。他人事のようにぼんやりと思いながらおぼつかない足を進めた。



 

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