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――あれ? いつの間に眠ったんだろう。
フローラは身体を起こそうとするがピクリとも動かない。
起きなくちゃ、仕込みが間に合わない。
昨日遅くまで新作のパンを考えて寝坊して……慌てて家を出たはずなのに……
そうだ。クランベリーのパンをサンドイッチにするのはどうだろうと思いついて――
それから、それから……
みさき!!と呼ばれてはっと意識が覚醒した。
心配そうに覗きこんでいたのは、明るいブラウンの髪に青い瞳の美しい青年だった。
「フローラ! 目が覚めたんだね! 大丈夫かい?」
青年が「みさき」ではなく「フローラ」と呼んだことで、だんだんと自分が誰なのかを理解してきたフローラはぼんやりとしたまま返事をした。
「お兄……さま……心配かけて、ごめ、あ、申し訳ありません………………」
「突然倒れるから驚いたよ。まだ顔色が悪いね。今父上が医者を呼びに行ってるからそのまま休んでいてほしい」
フローラがお兄様と呼んだ青年は、フローラに水の入ったグラスを渡して、今痛いところはないかや昨日は眠ったのかなど、二、三の質問をしてから部屋を出て行った。
フローラは一人になって今の自分の姿をもう一度寝台の横に置いてあった手鏡で確認をした。
明るいハニーブラウンの髪に青い瞳。透き通るような白い肌は、まるで陶器で作られた精巧な人形のようだ。
瞬時に「みさき」と呼ばれた自分は前世の記憶だと理解した。夢と言い切るにはあまりにもリアルで繊細で、十五歳の少女には知り得ない知識と、この世界にはない日本という国のことをはっきりと思い出したからだ。
(私……あの後死んだのか……)
少し寝坊して、慌てて家を出たまでははっきり覚えていた。
パン屋の朝は早い。外はまだ真っ暗で人通りも車もほとんどない。だから油断したのだろう。迫るヘッドライトに包まれたのが最後の記憶だった。
みさきは三十歳で恋愛には縁がなかったが、もうすぐ夢だった、自家製のパンを出すカフェの開店準備を始めるところだった。
フローラは丸くなり、「みさき」だった自分を抱きしめるように膝を抱え込み、もうかえらない「みさき」の人生をぐっと呑み込んだ。
悲しいけれどフローラとして生きてきた十五年が今のフローラ自身なのだ。
ようやく少し落ち着いたところで鏡の中の自分をじっと見つめた。
金持ちの美少女に転生なんて、本当なら大喜びで第二の人生をスタートさせる場面だが、フローラの心は相変わらず暗い。
「私、どう見ても……どう考えても……フローラ・ロズベルグだよね……」
兄の名前はカイン。父はベンハルト。婚約者のクラウス……その全ての名前を「みさき」も知っていた。「みさき」の中の知識と自分の容姿や兄の姿も一致する。
『プリミスティブの精霊達』それが前世で「みさき」がやりこんでいたファンタジー乙女ゲームの名前だ。
プリミスティブとは今フローラが住んでいるこの国の名前である。この屋敷の外観も一致している。フローラが知り得ない、まだ入学していない学園の内装もはっきりと頭に浮かんだ。
――フローラ・ロズベルグ――
プリミスティブ王国の皇子クラウスの婚約者。
気が強くワガママ。ヒロインに嫉妬し様々な嫌がらせをしてくる。
これがゲームの説明書に書かれているフローラのたった数行のプロフィール。前世を思い出したきっかけになった青い髪飾りは彼女のトレードマークだった。
「よりによって悪役令嬢に転生するなんて……」
そう呟いて見たものの、まだなんの実感も湧かず、ただがっくりと項垂れるしかなかった。