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翌朝、いつもより早起きをしたフローラは大きく伸びをした。
突然のベンハルトの来襲により、朝食用にと避けていた丸パンも全て出してなくなっていたので、今日は朝からパンを焼くことにしていた。
フローラが手早く身支度を済ませてキッチンに行くと、すでにアルフレッドがいて、何やら難しい顔で考えこんでいる。
「アルフレッドおはよう! どうかした?」
「おはようございますお嬢様。あぁよかった。少し困っていたところでした」
フローラが声をかけるとアルフレッドはホッとした様子で頬をゆるめた。
アルフレッドが常備していたあの硬い平パンは、昨日全部粉砕してしまっていたので朝食に何を出そうかと悩んでいたようだ。
フローラはごめんなさいと慌ててパン種をとりだしパンを作る準備をする。
粉類を合わせながら昨日疑問に思ったことをアルフレッドに聞いてみることにした。
「昨日お父様がパンから私の魔力を感じたようですが何か悪影響っておこりませんかね?」
「大丈夫ですよ。魔力が悪影響をおこすならとっくに魔道具の類いは廃止されているでしょう。そもそも間接的に個人の魔力の気配を感じるなんて普通はありえません」
フローラはあぁそれもそうかと納得したと同時に、じゃあお父様っていったいなんなんだろう。やっぱり変態の類いなんじゃ……と複雑な気持ちになった。
「そうだ、アルフレッドにもお礼を言わなくちゃ。昨日はお父様への言い逃れを助けてくれてありがとう。嘘をつかせてしまってごめんなさい……」
「私は嘘なんてひとつもつきませんでしたよ。加護の使い道を模索するのも立派な研究です」
「フフフっありがとう。今朝は朝食用だからシンプルなパンを焼くけど、次はアルフレッドが好きそうな甘い菓子パンを作るわね」
「! 甘いパン……!! 昨夜のパンもあまりの美味しさに驚きましたが、甘いパン……それはどういったものでしょうか。すごく楽しみです! さぁお嬢様次は何をいたしましょう? なんなりと申しつけください!」
甘いパンと聞いて俄然テンションがあがったアルフレッドを見て、クスクスと笑いながらフローラはパンを捏ね始めた。
パン生地の感触は心地よく手のひらに馴染み、昨日のようなつらい思いは込み上げてはこなかった。
だんだんと伸びがよくなっていく白い生地に、窓から差し込む朝の柔らかな光が練り込まれていく。前世のフローラが最も愛した瞬間だ。
(今はもう違う人生だけど、この時間を失いたくない)
ここにいる間は、ベンハルトが来る週末だけ気をつけていればなんとか誤魔化せるかもしれないが、家に戻った後、ベンハルトに隠れてキッチンに出入りしてパンを焼くのは不可能だ。
フローラはベンハルトに正直に話して許可をもらうことに決めた。
「ねぇアルフレッド……私と一緒にお父様に怒られてくれる?」
本来なら主であるベンハルトに報告せず黙認していたアルフレッドが責められる可能性は高い。
「お説教後のティータイムもご一緒してくれるなら喜んで!」
アルフレッドはいたずらっぽく笑いながらウインクをしたので、つられてフローラも笑ってしまった。
そうしているうちにパンが焼き上がり、カインがやってきて朝食が始まった。
「最終的に許可を出したのは私だからアルフレッドのことは心配ない。私が一緒に話をしよう」
フローラは心強く思ったがまだ不安が強い。
「うーんそうだな……将来王妃になる為の社会勉強の一環とかで大丈夫じゃないか?」
カインはふんわりとした理由を提案した。
カインは昨夜、見たことのない料理をなんの抵抗もなく食べ始め、何度もおかわりをしていたベンハルトを見て、フローラがキッチンに立つ許可はそこまで難しくないと考えていた。
これまでフローラの我儘はなんだってきいていたし、実際に問題もなく手際よく美味しい料理ができあがるのを見れば、心配はしつつも許してしまうだろうと。
自分やアルフレッドがそうだったように。
「それにしてもこのパン! 昨日とはまた違った食感で美味しいな!」
「でしょう! それはフランスパンのバタールといって酵母と塩と水だけで作るシンプルなパンなのです! シンプルだからこそごまかしがきかなくて…………」
フローラはそこでハッとした。
(シンプルだからこそごまかしがきかない……)
手元にはさっき焼き上がったクープと呼ばれる切り込みが綺麗にパカッと開いたバタールが置かれている。
この思い通りのフランスパンが焼けるまで何百本と失敗と改良を積み重ねたことを思い出したのだ。
取り繕った言い訳で人の気持ちが動かせるはずない。
(私がクラウス様との婚約破棄を視野にいれていると、そのために自立がしたいと本当の自分の気持ちをぶつけてみよう。それでもダメならたとえ今回連れ戻されてもお父様が納得できるまでとことん話をしよう)
「お兄様。私、ごまかさずに本当の気持ちをちゃんとお父様に伝えようと思います。無理だと言われても何度でもお父様と話をして諦めません」
フローラの固い決意の言葉にカインは力強く頷き、アルフレッドは感涙した。
その場の雰囲気はすでにお祝いムードになっていたが数日後、ベンハルトから届いた手紙……というには少々分厚い紙の束により重苦しい雰囲気が一同を包んだ。
「えーと……まぁ要するに父上は今週末仕事が入ってこちらにこれないそうだ」
カインが書斎の机で何枚にも渡る手紙の束をトントンと揃えながら言った。その分厚さから仕事の書類か何かが送られてきたのかと思っていたフローラは、それが手紙だったのを知り、改めてその束を見て驚愕した。
カインが読んでる間にアルフレッドが淹れた紅茶はすでに三杯目だった。
「え? たったそれだけの用件ですか? その量短編小説くらいありませんか?」
あらゆる疑問が浮かんだが、週末に料理について話をしようと思っていたフローラは、問題が先送りになっただけなのは承知しつつも、この週末はゆっくりパンが焼けると少しほっとしてしまった。
カインはそんなフローラを見て複雑そうな表情を浮かべていた。
フローラはカインから手紙を受け取り読み始め、カインの重い雰囲気の理由を知る。
手紙の前半はフローラの母、ローザとの出会いから始まりフローラ達への重い愛が物語調で延々と綴られていて、後半は日常に潜む様々な危険についてみっちりと図解付きのレポート形式でまとめられていた。
家具の配置から廊下を比較的安全に歩ける速度まで計算されたその徹底した過保護ぶりにフローラは目眩がした。
この病的に過保護な父から刃物や火の扱いが伴う調理の許可なんて貰えるのだろうか。
重たい沈黙が流れる。
「ベンハルト様は少々……いえかなり心配性ではありますがちゃんとお嬢様の話を聞いてくださると思います」
それでも重く押し黙ったままのフローラにアルフレッドがさらに声をかける。
「いざとなれば家出すると脅せばいいんですよ。実際にしてもいいかもしれませんね。そのときは私が手配します」
「いいね、そのときはもちろん私もついていくよ」
「フフっもう! 二人して何を言ってるんですか!」
フローラは冗談だと思ってようやく笑顔を見せたが、アルフレッドの目は本気だったし、カインはすぐさま家出先の候補を頭の中でリストアップしていた。
「私はフローラの味方だ」
フローラは自分を疎ましく思っていたであろうカインがはっきりと言いきったことで、カインにも自分の本当の気持ちを知って欲しいと強く思った。
「お父様と話す前にお兄さまにも私の気持ちを知ってもらいたいのです」
カインはフローラがそう切り出すと書斎の机から立ち上がり、フローラが座るソファーの正面に腰をおろした。
「私は……クラウス様との婚約破棄を受け入れようと思っています」
カインはフローラと同じ色をした目を大きく開き驚いた。
「まさか、クラウス様からそう言われたのかい?」
フローラは首を振りながらどう説明したらいいのか考えあぐねた。
まさか前世の記憶を思い出して婚約破棄されることを知っているんです。もうクラウス様はヒロインと出会っています。とは言えない。
「えっと、クラウス様からの愛は得られないことに気づいたと言いたかったのです。いつ婚約破棄を申し出されてもおかしくないところまできたと……」
「どうして突然そう思ったんだい?」
フローラは言い換えたがカインはさらに深く追及してきた。
カインの疑問も仕方ない。今までどれだけ冷たくされようとほったらかしにされようと、まったくお構い無しに幸せそうに追いかけ回していたのだから。
「誕生日のプレゼントが……クラウス様が選んだ物じゃなかったからです……」
フローラは、そこは正直に答えた。
これが前世の記憶を思い出させるきっかけになるほどの強い衝撃だったのだから。
「ついにクラウス様は……一年に一度、たった一度だけなのに……私にかけるその時間も惜しくなったのだと…………」
フローラはここで声がつまった。わかってはいたけれど明確に言葉にすると、まるで言葉が実体を持ったかのように突き刺さり、ひどく胸が痛い。涙をなんとかこらえているとカインはフローラの隣に座り直し、フローラの手にそっと自分の手を重ねた。
「つらいことを思い出させてすまなかった」
フローラは口を開くと涙がこぼれそうなので黙ってコクコクと頷いた。
「それで……フローラのクラウス様への気持ちはわかったが、それとフローラが料理をすることがどう関係あるのか聞いてもいいかい?」
フローラは深呼吸をし、ようやく落ち着きを取り戻すと、愛のない結婚をするくらいなら一生独身でいたいこと、外聞が悪いからお兄様やお父様に迷惑をかけないようにどこか田舎でひっそりと暮らして生きたい。そのために自立をしたいこと、まだ自分に何ができるかわからないけれどこれからしっかり勉強して将来は仕事をしたいということを話した。
カインはこの世界の貴族の常識では突拍子もないフローラの話を黙って真剣に聞いていた。
「私はフローラを迷惑だなんて思わないよ。世間がどう言おうがフローラは聡明で情熱的な私の自慢の妹だ。どこか知らない田舎に行く必要はない。王都が嫌ならここで暮らせばいいじゃないか」
カインの言葉にフローラはせっかく我慢した涙が一粒こぼれ落ちた。
「そうなったら私もここで暮らそう。フローラのパンが毎日食べられるなんて最高じゃないか」
「お嬢様なら大歓迎です! お嬢様を悪く言うような悪しき存在は私が始末いたします」
フローラはまた優しい冗談だと思って、涙はすぐに笑顔に変わった。
カインに打ち明け、受け入れられたことで心がすっかり軽くなったフローラは、パンを焼き勉強をし、ときにクラウスへ思いを馳せてベンハルトが来る日をあっという間にむかえる。




