忘れないために空っぽになる
ブログっぽくなってしまった。
散文を書くたび、わたしのなかからなにかが抜けおちていって、わたしは残りっ滓となる。脱色されたわたしの多くは空となり、存在がうすれ、がらんどうの物体と化す。それでも書くことは人生の一部で、わが血肉だ。ならばわたしの散文は凝血なのか。なるほど美しくはなく、見向きもされないはずだ。しかし傷を負わなければ流れだし固着することはなく、見ることすら叶わなかったものたちだ。生が流動に縛られている事実に逆らい、滞留し澱み、腐敗を待つだけだ。ゆえに断続的な流血が必要となる。しかしそれは心地よいのだ。虚になるには先ず存在が必要となるが、執筆はその自己の存在としての生を感じる喜びをもたらすのか。とすればそれが執筆なる侘び戯れへの依存を惹起している要因なのかもしれない。
以上が少しばかり眠っていたメモだ。
書く行為はまとまりのない情報に秩序を与え、形を成し、外部記憶として残るだけでなく、その過程において香辛料を添加する。おまけにひとつ至言を紹介しておく。
『全ての情報は共有し並列化した時点で、単一性を喪失し、動機なき他者の無意識に、あるいは動機ある他者の意思に内包される。』(攻殻機動隊SAC)
そして単一性の喪失は他者への伝達がなくとも起こりうる。文章化それ自体が原形からの変質をもたらすことがあるからだ。
適切ではないかもしれないが、簡単な例として、感情や病気に名前をつけるなどの類別が挙げられるだろう。ただこの例のような場合には、そもそも確たる形を持たないものを成形するのだから必然的に齟齬が生じるだろう。必ずしも感情に名前を振り分ける必要がないことはあらゆるところで指摘ないし主張されていると思うのでここでは省略する。曖昧性や境界線事例などの哲学的問題が不可避に付随するゆえに、類別や具体化にはその点について留意して損はない。留意する必要性も、普段の生活においては特にないが。
形を持つものを出力する際には、本質さえ違わなければ変質を恐るゝことはない。そういうことがあるというだけの話だ。
蛇足のほうが長くなってしまった。
追記。あんまり関係ないけど、細胞の生成消滅とセテウスの船のこともちらっと書こうとしてたけど忘れてた。でもそれも曖昧性と変質の話になってくるから紹介したかった。おわり。