いいたいこと
夜と朝の端境の時間。ユカはダウンジャケットを着込み、ゴミ袋を集積場に運んでいた。身の引き締まる様な寒さの中、薄墨色した空に、茜色の雲が筋を引くのを眺めながら歩く。
(バカな事をしちゃった)
迷いつつ送ったメッセージをどうしようか、削除してもいいけれど読まれていたら。お互い、誰だかを特定出来る事をやらかしてしまったことに後悔しかないユカ。
(いい歳したおばちゃんなのに)
集積場は横断歩道から少し離れていた。車通りの少ない時間帯なので、車道を横切り、金網の戸を開けゴミを入れ、戻る為に左右を確認をしたユカ。遠くに赤色の車の姿が目に入ったが、大丈夫だろうと小走りで渡り始めたのだが。
パパアァン! 大きく鳴らされたクラクションが響く。
「え!」
見れば猛スピードでこちらに向かっていた。ヒヤリとして足が止まる、反射的にギュッと目を閉じ身を固くした時。
パパアァン! クラクション。瞬間、目を見開いたユカ。邪魔だと言わんばかりに、勢いを落とすこと無く、対向車線に膨らみ通り過ぎた車。
身に吹き付けた風、イメージ画像の様に飛び込んできた運転手の容姿の一部を、強さと共にユカは覚えた。
(何なの。女の人? 事故にでもなったら、私がボーとしてるからだと怒られちゃう。相手の方にも迷惑だし)
ハッ、ハッ。ふっ。
足を進める。不織布の下で息を整える。走ってもいないのに、鼓動が早い。早く帰ろう。ユカは来た道を戻った。
オートロックの番号押し、エントランスに入る。新聞はウェブ版に切り換えているが、習慣で壁に整然と並んだ集合ポストを開けた。昨日きちんと回収したはずのそこに、白い封筒が投函されている。
「誰かしら」
怪訝に思いながら手に取ると。
「どうして?」
宛名には見覚えがあるフォントで、ユカの名前が何時もの赤い色のインクで、くっきり濃く刻みつけられている。
(茶色い髪の毛の女だわ。なぜ番号を知っているの? 何時もなら郵送なのに。タカシさんが教えたの?そして何時……、)
脳裏に響くクラクション。ちらりと視界に入った髪の長い女の姿。
つっ。と。哀しくなる。
(どうして、世界はイジワルするのかしら)
ポケットに封筒を押し込むと、ユカは住まいへと帰る。四畳半のクローゼットにソレを入れ、朝の支度に取り掛かった。時間を見ればまだ洗濯機は回せない。キッチンに向かう。
煮干しを仕込んでいた小鍋が沸き立つのを眺めながら、ユカは考える。
(違う。嫌がらせは今までにもあったけど。この女は違うわ。車の人がそうかどうかは分からないけれど、怖い)
タカシさんに言うべき?言えば。
『知らんな』
それで終わって。先行きが薄々わかるユカ。相談をするにも、娘は幸せなものと信じている、両親にはできず、兄や姉達に言えばどうなるか。仲人の叔父は夫と仕事で懇意な間柄。
「叔母様は、もしかすると話を聞いてくれるかも知れないけれど」
それを叔父様に伝えてしまったら。
タカシさんはどうなるのかしら。そして今の暮らしも。生活の不安が浮かび、ゾクリとした。
☆
朝の仕事をこなしていると、リビングにタカシが起きて来たらしい。テレビの音声がそれを知らせる。
「おい、コーヒー」
時間になったらしく、呼ぶ声。
「はい」
運んでいた洗濯籠を廊下に置き、キッチンに戻ると、朝から通話をしていたタカシは、ピッ、チャンネルを変えると、ダイニングテーブルに座る。
「午後から出社する、帰りは遅くなる」
「はい」
昨夜、バスルームでの様子と届いた封筒が、ユカの中で繋がる。言おうか、言うまいか。唇が不自然に動く。
「お前も出かける用意をしておけ」
予想外の言葉にキョトンとした。
「私も?」
「ああ、テレビに兄貴が出てたらしい、聡子が見て、クリスマスの買い物もあるし、差し入れを持っていくついでに、マフラーの御礼がしたいそうだ」
「別にいいのに。楽しませてもらってるもの」
タカシの妹、聡子に頼まれ手芸が好きなユカは時折、頼まれた品を作っている。それにいい顔をしないタカシ、
「材料費はこっち持ちだろ、たまには断れ。聡子も図々しい、店で買えばいいんだ。御礼ぐらい貰っておけ。駅前迄、送る」
「はい」
言いたかった言葉を静かに飲み込む。
(私の事を案じている様で、いない気がするのはいつからかしら)
飲み終え席を立つ夫から背を向けると、こっそりため息をつく。
時間にすると僅かな移動。みっしりと圧縮される夫の存在。息が詰まりそうな時間。聡子さんに連絡をして、バスで行きます。そのひと言も、手紙の事も何もかも出ないユカ。
手がかじかむ空気の中、ベランダで洗濯物を干す。
「そうだ。聡子さんに相談できないかしら」
バスタオルを洗濯バサミで止めながら、ふと思いついた。時々、他愛の無い話を聞いてと連絡をくれる義妹。
「そういや聡子さん。タカシさんの事、嫌いなのよね」
3月。娘の入学準備に学校から求められた品を、縫ってほしいと頼まれ、出来上がったそれを届けに行った時のやり取りを思い出す。
「ありがとう。おばちゃん」
前もって聞いていた、好きなアニメキャラの布地を手に入れ、縫い上げたそれぞれに、目をキラキラさせて喜んだ姪っ子。
「ありがとうございます。お義姉さん。こういうこと苦手で、何時も助かってます、あ。お兄さんからお祝い届いてて、御礼言っといて下さい」
そう言いつつ、紅茶出す義妹。ユカの手土産で皆で飲んでいると、パタ。姪っ子が立ち上がる。
「こら! お行儀悪い!」
タッタッタッ、 返事もせずに部屋を出ていく姿を、可愛らしく、そして少し切なく目をやるユカ。
「ごめんなさいね。全く。落ち着きのないのは、とーる兄に似たのよね」
ボヤく義妹。
「構わないわ。かわいいわねぇ」
「そうでもないわ。文句ばっかり言うのよ。おばちゃんみたいに、ふりふりエプロンぬって、おばちゃんみたいな、くまさんのケーキを焼いてとか、ママのマフラーはヘビとか」
「私は時間があるから。聡子さんは午前中お仕事でしょう、子育てもあるし」
「違うわ。持って生まれた才能よ。ミシンですら私、グニャグニャになっちゃうもん」
ガチャ。ドアが開く音。おばちゃん見てみて、弾んだ声。振りかえると、そこにはラベンダーカラーのランドセルを背負う、得意気な姪の姿。
「最近のランドセルって、お洒落なのねぇ。素敵な1年生ね」
うん。小さな背中を隠す様なまだ大きなランドセルを見せたいのか、クルクルと回る少女。
「この子ったら、背負ったり下ろしたり、家にいるとすっとしているのよ、ほらほら汚しちゃだめ。とーるさんに、写真撮ってもらうんでしょ」
「そだっ! えへへ~。おろしてくる」
満足したのか、部屋を出る少女。
「入学祝いは何がいいって聞かれてね。写真撮って欲しいって頼んだの。身内の特権だわ、うふふ」
焼き菓子をつまみながら、話をするふたり。
「写真出来たら見せてもらえるかしら」
「うん。携帯に送っても良いけど、入学式のあとにお母さん達も呼んで、パーティーするの、お義姉さんも来て、お兄さんは要らないけど」
「あら、どうして?」
ユカに耳を貸してと義妹。
「私が嫌いだから、お兄さん、お義姉さんに対してどうなの。前世紀の遺物そのもの。横暴男だもん。見てて苛々するから、兄妹ケンカになったらマズイでしょ」
ナイショ話っぽく囁くと、クスクスと笑う義妹。
「横暴男って。タカシさんに悪いわ。どうしてナイショ話なの?」
「あの子に聞かれたら、タカシおじちゃんと呼ばずに、おーぼーおとこって、呼ぶに決まってるから」
ええ?驚くユカに、
「子どもって、そんなものよ」
☆☆
「おーぼーおとこって」
胸の中の砂の塊がホロロと崩れ、鬱々と沈んでいた心うちが、わずかに軽くなった気がするユカ。
「私がちゃんとしていないから、そう見えるのかしら」
靴下を干しながら呟く。
(何でもゆっくりだし、聞かれたことにも直ぐに答えられないし。タカシさんを終始、苛つかせてるから、そうなるのかしら)
チュピピ。朝の小鳥が鳴いて飛んでいる。
(とーるさんなら、直ぐに答えられなくても、待っててくれるのかしら)
すっかり冷えかじかんだ手に、息を吹きかけ吹きかけ、口元でさすり温める。
ほんの数分のやり取り。だけど夫とはまるで違う、喋る速度も、おっとりとした自分に合わせてくれていた事を感じた時間。
ポケットの中に手を入れ携帯を触る。
【こんばんは。今夜はごちそうさまでした。美味しかったです、料理上手なんですね】
覚えた文字の羅列視える。
押し込んている気持ちが。
ふぅ、フワと。揺れる。




